第28話 ドブネズミの末路と逃げ場のない夜
「おい、この路地も探せ! お嬢様からの命令だ、ネズミ一匹逃がすな!」
「GPSの最後の信号はこの辺りで途切れてる。絶対に遠くへは行ってないはずだ!」
荒々しい怒号と複数の足音が、俺の隠れているゴミ置き場のすぐ横を通り過ぎていく。
俺は息を殺し、生ゴミの詰まった半透明のポリ袋の山の奥で、ガタガタと震え続けていた。
頭上からは、カラスが突っついて破れた袋の隙間から、腐った残飯の汁がポタポタと落ちてくる。
かつて30万円で仕立てた自慢のオーダースーツは、今や得体の知れないヘドロと生ゴミの汁をたっぷり吸い込み、自分自身でも吐き気を催すほどの悪臭を放っていた。
「うっ、おぇぇ……っ」
胃酸が逆流するが、昨日の昼にC子と食べた高級パスタを最後に何も口にしていないため、吐くものすら胃に残っていない。
喉が焼け焦げるように渇いている。
ふと横を見ると、飲みかけで捨てられたタピオカミルクティーの容器が転がっていた。
『底辺のゴミが舐める泥水』
かつて俺が、他人を見下して笑っていた言葉だ。
だが今の俺は、その泥水すら喉から手が出るほど欲しかった。
俺は震える手を伸ばし、ストローの端を舐めようとした。
――ピカッ!!
突然、路地裏の入り口から強烈なサーチライトの光が差し込んだ。
「あそこにゴミの山があるぞ! 崩して探せ!」
黒服を着た大柄な男たちの声だ。警察じゃない。
C子の親父が差し向けた、本物の私兵たちだ。
「ヒッ……!!」
俺はタピオカの容器を蹴り飛ばし、ゴミの山から転がり出た。
「いたぞ! 谷口だ!!」
男たちが一斉に走り出す。
俺は悲鳴を上げながら、狂ったように夜の街を走り出した。
走る衝撃で、残っていた左足の高級革靴も脱げて飛んでいった。
両足とも裸足になった足裏に、アスファルトの小石や割れたガラスの破片が容赦なく突き刺さる。
血まみれの足跡を残しながら、俺はただ前に向かって無様に足を動かし続けた。
痛い、苦しい、惨めだ。 どうしてこんな事になった。
俺はエリート消防士で、完璧な結婚詐欺師で、港区のタワマンに住む選ばれた人間のはずだったのに。
あんなクソみたいな『黒い目玉』のアプリさえダウンロードしなければ、俺は今頃、2000万円の札束のベッドで眠っていたはずなんだ!
「はぁっ、はぁっ……! 誰か、助けてくれ……!」
大通りに飛び出そうとした瞬間、前方からパトカーのけたたましいサイレンが近づいてくるのが見えた。
後ろからは黒服の男たち。前からは警察。 逃げ場なんて、最初からどこにもなかったのだ。
俺は慌てて横道に逸れ、サビついたフェンスを乗り越えて、真っ暗な建設予定地の空き地へと転がり込んだ。
泥だらけの地面に這いつくばり、天を仰ぐ。
星ひとつない東京の淀んだ夜空が、まるであの忌まわしい『黒い目玉』のように、底辺に落ちた俺を冷たく見下ろしている気がした。
「俺は、俺は悪くない……っ! 俺はただ、勝ち組になりたかっただけなんだ……!」
泥水をすすり、鼻水を垂らしながら、俺は誰もいない空き地で絶望した。
プライドも、尊厳も、人間らしさも、すべてを失った。
残ったのは、こんな状況になっても一切反省せず、ただ後悔と責任転嫁を繰り返す、醜い己の『業』だけだった。
その時、遠くから「空き地のフェンスに血がついてるぞ! 中を探せ!」という怒鳴り声が聞こえた。
いよいよ終わりだ。
あのバカな女たちから絞り取った金で、一生遊んで暮らすはずだったのに。
俺の華麗なる人生は、ここで、底辺の泥にまみれて終わるのだ。
俺は泥だらけの地面に顔を押し当て、ゆっくりと目を閉じた。
(ああ……もし、もう一度最初からやり直せるなら……)
(あの地獄の記憶を持ったまま戻れるなら、今度こそ、絶対に上手く立ち回ってやるのに……)
意識が、急激に遠のいていく。
サイレンの音と怒号が、まるで遠い世界の出来事のように薄れ、俺の視界は完全な闇に包まれた。
続く




