第1話 鹿浜の泥濘(ぬかるみ)と透明な目
プシューッという無機質な音を立てて閉まりかけたドアの隙間に、無理やり肩をねじ込んだ。
「……っぶねえ」
背後で完全にドアが閉まるのを確認し、俺、谷口幹夫(39)は満員電車の中で豚のようにぜえぜえと息を吐き出した。
駅までダッシュしたせいで、シャツに染み付いた加齢臭と脂汗がムワッと立ち上る。
周りの乗客が露骨に顔をしかめて距離を置いたが、知ったことか。
荒い息をごまかしながら、俺は右手をズボンのポケットに突っ込んだ。
指先が、小さなリモコンを探り当てる。
カチッ。
指の腹に伝わるわずかな振動。
履き潰した警備員用の安全靴、そのつま先に仕込んだ極小レンズが起動した合図だ。
俺は少しだけ膝を曲げ、ホコリまみれの靴の先端を、目の前に立つ若い女のタイトスカートの裾へ向かってゆっくりと滑り込ませた。
ポケットの中のスマホの中には、もう俺だけの『特等席』からの映像が鮮明に保存されている。
(フッフッフ。よし……今日も最高の朝だ)
心の中で薄汚い笑いを噛み殺す。
頭の悪い奴らは毎日こうやって死んだ魚の目で揺られているが、俺は違う。
俺は底辺を這いつくばりながらも、誰よりも賢く、甘い汁を吸って生きていくんだ。
時期は6月の初め。
まとわりつくような梅雨の湿気が、鹿浜のドブの匂いと、俺の身体から滲み出る嫌な汗を容赦なく混ぜ合わせる。
深夜の住宅街は、薄気味悪いほど静まり返っていた。
俺は暗闇に同化しながら、二階建ての小綺麗な一軒家を見上げた。 3日に1回しか行かない銭湯帰りの洗面器に仕込んだカメラ。
それに、俺が手作りした造花に仕込んだカメラ。あらゆる手を使って徹底的に下調べをした家だ。
あの家族は今日の夕方から何日間かの旅行に出かけている。
車に荷物を積み込むのも、この目でしっかり確認した。絶対に、間違いはない。
絶対にバレない確証はあるのに、いざとなるとどうしても足がすくむ。
俺はもう三週間も、夜中になるとこの家の前をウロウロと徘徊することしかできていなかった。
デカいことを企てているくせに、俺は自分で思っている以上に気が小さくて、肝っ玉の小せえクズなのだ。
「よしっ……今日こそは……」
言い訳ばかりが頭を巡り、情けなさと苛立ちを抱えて暗い路地を歩いていた時だ。
通り沿いにあるアパートの一階。
そのベランダに、干しっぱなしにされた洗濯物が目に入った。
風に揺れる女物の下着。
それを見た瞬間、空き巣にはビビり散らしているくせに、俺の右手は条件反射のようにパッと伸びていた。
息をするように自然な手口でレースの布切れを引ったくり、作業着のポケットに素早くねじ込む。
「しめしめ……今日も収穫ありだ」
生温かい布の感触をポケットの中で弄りながら、俺はニヤリと唇を歪めて薄汚い独り言を呟いた。
空き巣に入れない自分のビビリをごまかすために、こういう抵抗されないセコい犯罪で優越感に浸っているだけだ。
どうしようもない俺の悪い癖だった。
だが、こんなみみっちい暇つぶしは今日で終わりにする。
奴らが何日間かの家族旅行に出た今日こそ、俺のちっぽけな殻を破る日なんだ……!
手慣れた作業で勝手口の窓を割り、鍵を開けて侵入する。
だが、家の中をいくら漁っても、期待していた現金や貴金属は全く見当たらなかった。
「チッ、貧乏人が……見栄張ってこんな家住みやがって」
苛立ちながら娘の部屋に侵入し、タンスから下着を何枚も鷲掴みにして作業着のポケットにねじ込む。
これだけでも売れば小銭にはなる。
それでも腹の虫が治まらず、俺はリビングの冷蔵庫を遠慮なく開け放った。
そこには冷えたビールと、タッパーに入った美味そうなローストビーフが残されていた。
俺はリビングのソファにふんぞり返り、ビールを喉に直接流し込む。
最高だ。
馬鹿な家族どもが能天気に旅行を楽しんでいる間、俺はこの家の王様だ。
ローストビーフを口いっぱいに頬張り、くちゃくちゃと音を立てた、その時だった。
――ガチャッ。
玄関の鍵が開く音が、夜の静寂を引き裂いた。
「え……?」
肉をかみ砕いていた顎が、ピタリと止まる。
「ただいまーあーもう、お父さんが忘れ物なんかするから、予定狂っちゃったじゃない!」
若い女の声だ。
ドクン、と心臓が破裂しそうなほど跳ね上がり、股間からジョワッと温かいものが漏れ出す感覚があった。
二日は帰ってこないはずだろ!?
完璧に調べたんだぞ!なんでこんなタイミングで!?
「あれ、電気ついてる……誰かいるの……?」
リビングに向かってくる複数の足音。
俺は手に持っていたビールと肉をシンクにぶち撒け、悲鳴にならない「ヒィッ」という情けない声を漏らした。
パニックで頭が真っ白になる。
玄関に置いた靴を履く余裕なんてねえ。
俺はリビングの窓の鍵を乱暴に開け、裸足のまま暗闇の路地裏へと転がり落ちた。
「ハァッ……ハァッ……!」
アスファルトが裸足の裏を無惨に削る。
「痛えっ。痛えよ。」
鼻水と脂汗を垂れ流しながら、鹿浜の暗いドブ川沿いを必死に走った。
おかしい。絶対におかしい。
あんな完璧なタイミングで帰ってくるわけがねえ。
まるで、俺が一番油断して、一番間抜けで惨めな姿を晒す瞬間を、「誰か」が都合よく待っていたみたいじゃないか。
ふと、背中にねっとりとした視線を感じた。
俺の無様な逃走劇を、どこか安全な高い場所から見下ろして、ニヤニヤと笑いながら眺めているような……透明な、気味の悪い視線。
「クソッ、クソが……!」
俺は血の滲んだ足を引きずり、泣きべそをかきながらただ暗闇を逃げ続けた。
自分の底辺の人生が、誰かの残酷な「暇つぶし」のために狂い始めたことにも気づかずに。
続く




