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一文字違いの契約書を見抜く私が、無口な辺境伯と水の都を守ります  作者: 銀細工ナギ


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8/20

契約書の外で、あなたの名を呼ぶ

 夜が明けるまで、広場の灯りは消えなかった。


 新しい頁には、賛成の印だけでなく、反対の印も並んでいた。商会の修繕を受け入れる者。料金の決め方をもっと話し合うべきだという者。古い井戸を共同で守るなら、商会に一部を任せてもいいという者。それぞれの意見は、ひとつの結論にまとめられることなく、同じ帳面に残された。


 セレネは最後の行を読み上げ、筆を置いた。


「今日の合意は、ここまでです。足りないところは、明日また話します」


 誰かが不安そうに訊ねた。


「決めないまま、明日まで待っても水は出るのかい」


「今夜は、既存の水番の順番で配ります。新しい管理を始めるなら、その開始時刻も明記してからです」


 ノエルがすぐに頷いた。


「鐘楼の水番表なら、僕が確認します。商会の人にも見せます」


「見せるだけでなく、読めない人には説明して」


「はい」


 ノエルの返事に、以前のためらいはなかった。自分が水番見習いであることを、もう隠そうとしていない。帳面の端には、彼が練習して書いた署名があった。線は少し揺れていたが、誰のものか迷うことはない。


 住民たちが帰り始めたころ、ラウルがセレネのそばへ来た。


「まだ帰らないのか」


「あなたもでしょう」


「私は領主だ」


「では、領主は夜明けまで立っている決まりでもあるのですか」


「ない」


「なら、ただのラウルとして、少し休んでください」


 口にしてから、セレネは自分の言葉に気づいた。


 辺境伯ではなく、ラウル。


 肩書きを外して呼んだのは、初めてだった。


 彼も気づいたらしく、わずかに目を見開いた。しかし何も言わず、石段に腰を下ろした。セレネも隣に座る。広場には、消えかけた松明の煙と、湿った石の匂いが残っていた。


「……今の呼び方を、もう一度」


 ラウルが言った。


 セレネは振り向いた。


「何をですか」


「私の名を」


「ラウル」


 短い名前が、夜の静けさに落ちた。


 契約魔法の光は現れなかった。署名も印もない。ただ、呼ばれた本人だけが、それを聞いている。


 ラウルはしばらく黙っていた。


「不思議だな」


「何がです」


「名前を呼ばれることが、こんなに遠かったとは思わなかった」


 セレネは返事をしなかった。彼が領主になってから、誰もが彼を辺境伯と呼んだのだろう。敬意のために。恐れのために。あるいは、彼自身がそれを望んだから。


「あなたは、私を何と呼ぶのですか」


「セレネ」


「それだけ?」


「それ以外に、何と呼べばいい」


「校正士でも、平民でも、ヴァルクでもなく?」


「……セレネ」


 彼の声で呼ばれると、名前が少しだけ違って聞こえた。


 身分も仕事も、これまでの失敗も、赤い線も、その一言の外に置かれているようだった。


「契約書の外では、そう呼んでください」


 セレネが言うと、ラウルは彼女を見た。


「契約書の外では?」


「契約書の中では、私は校正士です。あなたは辺境伯。役割を間違えると、条文の効力も曖昧になりますから」


「外では」


「外では、名前で」


 ラウルは頷いた。


「わかった。セレネ」


 その呼び方に、命令の響きはなかった。


 朝の鐘が鳴る前、塔の奥からノエルの声がした。


「セレネさん! 辺境伯さま! 来てください!」


 二人が駆けつけると、ノエルは古い水番表を抱えていた。破れた紙の裏側に、細い文字がいくつも重なっている。


「この表、昨日オルドさんが見せてくれたものと違います。こっちには、夜の水路を開ける順番が書いてある」


「夜の水路?」


 セレネは紙を受け取り、端を灯りにかざした。


 古い文字の上に、後から黒い墨が塗られている。だが、完全には消えていなかった。塗りつぶされた行の下から、赤い校正線が浮かび上がる。


 《北門の貯水槽は、領主の許可なく、共同井戸のために開くこと》


 セレネは息を止めた。


「これは、誰が消したのですか」


「わかりません。でも、表の裏に同じ印が七つあります」


 ノエルが指した先に、小さな署名が並んでいた。どれも水番や井戸守の名らしい。今の住民が知らない、古い時代の署名だった。


 ラウルが紙を覗き込む。


「共有水利憲章の一部か」


「断定はできません。ただ、この表は王都へ提出された記録より古い。しかも、削られた箇所を誰かが隠そうとしている」


 セレネの指先に、赤い線がもう一本現れた。


 その線は、塗りつぶされた文字から塔の壁へ伸び、北門の方向を指していた。


 ラウルは立ち上がった。


「北門へ行く」


「待ってください。証拠を写してからです」


「そうだな」


 彼は素直に足を止めた。


 以前なら、命じて先へ進んでいたかもしれない。だが今は、彼女の確認を待っている。


 セレネは紙を写し取り、ノエルには署名の形を記録させた。新しい頁には、発見した時刻と場所、立ち会った三人の名を書いた。


 最後にラウルが署名しようとしたとき、セレネは筆を押さえた。


「ここには、辺境伯の名だけでなく、ラウル・エルグレンと書いてください」


「同じことではないのか」


「同じではありません。これは命令書ではなく、発見の記録です。あなたが領主として知ったのか、一人の人間として知ったのかで、意味が変わります」


 彼はしばらく考え、肩書きを書かなかった。


 ラウル・エルグレン。


 その名が、朝の薄明かりの中で頁に残る。


 セレネは自分の名をその隣に記した。契約ではない。まだ、約束でもない。ただ同じ事実を見た者として。


 塔の外で、乾いた川底を風が渡っていく。


 北門の先には、消された水路と、七つの署名が待っている。


 二人は並んで歩き出した。


 今度は、誰かに連れていかれるのではなく、自分たちの意思で。

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