契約書の外で、あなたの名を呼ぶ
夜が明けるまで、広場の灯りは消えなかった。
新しい頁には、賛成の印だけでなく、反対の印も並んでいた。商会の修繕を受け入れる者。料金の決め方をもっと話し合うべきだという者。古い井戸を共同で守るなら、商会に一部を任せてもいいという者。それぞれの意見は、ひとつの結論にまとめられることなく、同じ帳面に残された。
セレネは最後の行を読み上げ、筆を置いた。
「今日の合意は、ここまでです。足りないところは、明日また話します」
誰かが不安そうに訊ねた。
「決めないまま、明日まで待っても水は出るのかい」
「今夜は、既存の水番の順番で配ります。新しい管理を始めるなら、その開始時刻も明記してからです」
ノエルがすぐに頷いた。
「鐘楼の水番表なら、僕が確認します。商会の人にも見せます」
「見せるだけでなく、読めない人には説明して」
「はい」
ノエルの返事に、以前のためらいはなかった。自分が水番見習いであることを、もう隠そうとしていない。帳面の端には、彼が練習して書いた署名があった。線は少し揺れていたが、誰のものか迷うことはない。
住民たちが帰り始めたころ、ラウルがセレネのそばへ来た。
「まだ帰らないのか」
「あなたもでしょう」
「私は領主だ」
「では、領主は夜明けまで立っている決まりでもあるのですか」
「ない」
「なら、ただのラウルとして、少し休んでください」
口にしてから、セレネは自分の言葉に気づいた。
辺境伯ではなく、ラウル。
肩書きを外して呼んだのは、初めてだった。
彼も気づいたらしく、わずかに目を見開いた。しかし何も言わず、石段に腰を下ろした。セレネも隣に座る。広場には、消えかけた松明の煙と、湿った石の匂いが残っていた。
「……今の呼び方を、もう一度」
ラウルが言った。
セレネは振り向いた。
「何をですか」
「私の名を」
「ラウル」
短い名前が、夜の静けさに落ちた。
契約魔法の光は現れなかった。署名も印もない。ただ、呼ばれた本人だけが、それを聞いている。
ラウルはしばらく黙っていた。
「不思議だな」
「何がです」
「名前を呼ばれることが、こんなに遠かったとは思わなかった」
セレネは返事をしなかった。彼が領主になってから、誰もが彼を辺境伯と呼んだのだろう。敬意のために。恐れのために。あるいは、彼自身がそれを望んだから。
「あなたは、私を何と呼ぶのですか」
「セレネ」
「それだけ?」
「それ以外に、何と呼べばいい」
「校正士でも、平民でも、ヴァルクでもなく?」
「……セレネ」
彼の声で呼ばれると、名前が少しだけ違って聞こえた。
身分も仕事も、これまでの失敗も、赤い線も、その一言の外に置かれているようだった。
「契約書の外では、そう呼んでください」
セレネが言うと、ラウルは彼女を見た。
「契約書の外では?」
「契約書の中では、私は校正士です。あなたは辺境伯。役割を間違えると、条文の効力も曖昧になりますから」
「外では」
「外では、名前で」
ラウルは頷いた。
「わかった。セレネ」
その呼び方に、命令の響きはなかった。
朝の鐘が鳴る前、塔の奥からノエルの声がした。
「セレネさん! 辺境伯さま! 来てください!」
二人が駆けつけると、ノエルは古い水番表を抱えていた。破れた紙の裏側に、細い文字がいくつも重なっている。
「この表、昨日オルドさんが見せてくれたものと違います。こっちには、夜の水路を開ける順番が書いてある」
「夜の水路?」
セレネは紙を受け取り、端を灯りにかざした。
古い文字の上に、後から黒い墨が塗られている。だが、完全には消えていなかった。塗りつぶされた行の下から、赤い校正線が浮かび上がる。
《北門の貯水槽は、領主の許可なく、共同井戸のために開くこと》
セレネは息を止めた。
「これは、誰が消したのですか」
「わかりません。でも、表の裏に同じ印が七つあります」
ノエルが指した先に、小さな署名が並んでいた。どれも水番や井戸守の名らしい。今の住民が知らない、古い時代の署名だった。
ラウルが紙を覗き込む。
「共有水利憲章の一部か」
「断定はできません。ただ、この表は王都へ提出された記録より古い。しかも、削られた箇所を誰かが隠そうとしている」
セレネの指先に、赤い線がもう一本現れた。
その線は、塗りつぶされた文字から塔の壁へ伸び、北門の方向を指していた。
ラウルは立ち上がった。
「北門へ行く」
「待ってください。証拠を写してからです」
「そうだな」
彼は素直に足を止めた。
以前なら、命じて先へ進んでいたかもしれない。だが今は、彼女の確認を待っている。
セレネは紙を写し取り、ノエルには署名の形を記録させた。新しい頁には、発見した時刻と場所、立ち会った三人の名を書いた。
最後にラウルが署名しようとしたとき、セレネは筆を押さえた。
「ここには、辺境伯の名だけでなく、ラウル・エルグレンと書いてください」
「同じことではないのか」
「同じではありません。これは命令書ではなく、発見の記録です。あなたが領主として知ったのか、一人の人間として知ったのかで、意味が変わります」
彼はしばらく考え、肩書きを書かなかった。
ラウル・エルグレン。
その名が、朝の薄明かりの中で頁に残る。
セレネは自分の名をその隣に記した。契約ではない。まだ、約束でもない。ただ同じ事実を見た者として。
塔の外で、乾いた川底を風が渡っていく。
北門の先には、消された水路と、七つの署名が待っている。
二人は並んで歩き出した。
今度は、誰かに連れていかれるのではなく、自分たちの意思で。




