署名できない人々の水番
鐘の音が消えたあとも、広場の人々は動かなかった。
塔の中から流れてきた雨の匂いは、乾いた石の隙間に染み込んでいた。セレネは開いた扉の奥へ足を踏み入れ、ラウル、ノエル、オルドが続く。螺旋階段の壁には、幾つもの名前が刻まれていた。浅い傷で記されたものもあれば、長い年月に削られ、読めなくなったものもある。
「水番の名です」
ノエルが小さく言った。
「交代するたびに、ここへ書いたんです。読めない人は、印をつけました」
階段の途中に、黒ずんだ木箱が置かれていた。商会の封蝋が貼られている。ラウルが剣の柄で封を割ると、中から革張りの帳面と、薄い板切れが何枚も現れた。
板には文字の代わりに、丸や線、鳥の形をした印が刻まれている。
「これは署名か?」
ラウルが尋ねた。
「署名です」
オルドが答えた。
「昔は、文字を書けない者が多かった。自分の印を決めて、立ち会った水番が名前を読み上げた。読み上げられた内容に同意したら、その印を押す。それで十分だった」
セレネは板切れの一枚を手に取った。そこには三本の短い線と、中央に小さな円があった。指が触れた瞬間、赤い校正線が淡く浮かび上がる。
《水を分ける者は、分けられる者と同じ席につく》
古い言葉が、板の裏から現れた。
「共有水利憲章の一部です」
セレネは息を呑んだ。
帳面を開くと、最初の頁には大きな文字でこう記されていた。
《水路、井戸、雨受け、鐘楼は、これを守る者だけのものではない。使う者すべてのものとする》
その下に、無数の印が並んでいる。領主家の紋章もあれば、職人の工具を模した印、子どものような歪んだ星、三本の線だけのものもあった。
けれど、すべての印の横に名前があるわけではない。
「この人たちは、誰ですか」
ノエルが頁を覗き込んだ。
「水を使う人たちだ。畑を持つ者、染物をする者、家畜を飼う者。名前を知らなくても、印は知っている」
オルドは帳面を撫でた。
「記録官は、名前がない署名は無効だと言った。だが、ここでは誰もが自分の印を持ち、誰かがその意味を証明した」
「契約院の規則では、署名者の同一性が確認できれば、印も有効です」
セレネは頁をめくった。
「ただし、確認した人の記録が必要になる。この帳面には、水番の証明がある」
各頁の端に、小さな水滴の印が押されていた。水番が交代するたびに、前任者と新任者が記録を確かめた印だ。
ラウルは黙って頁を見ていた。
「なぜ、こんなものが消された」
その問いに、オルドはすぐ答えなかった。
「水を誰のものにするか決めるとき、文字を書ける者だけが話すようになったからだ。商会は立派な書類を持ってきた。領主家は難しい言葉で説明した。わしらは、読めないから黙った」
「黙ったのではありません」
セレネは帳面を閉じた。
「話す場所を奪われたんです」
そのとき、階下から物音がした。複数の足音と、木箱を蹴る音。商会の男たちが塔へ入ってきたのだ。
「帳面を渡せ」
細身の男の声が響く。
ノエルが怯えて後ずさる。セレネは帳面を胸に抱えた。ラウルは階段の手すりに手を置き、下を見下ろした。
「これは領内の記録だ」
「すでに契約院の確認印を受けた書類がある。古い帳面など、効力はない」
「効力がないなら、なぜ取り戻しに来た」
ラウルの言葉に、男は黙った。
セレネは帳面の最後の頁を開いた。そこには、途中で途切れた一文が残っていた。
《文字を持たぬ者のため、水番は――》
続きは削られている。
だが、削り跡の下に赤い線が浮かび、失われた文字の形を示した。
《水番は、内容を読み上げ、同意を確かめ、拒む者の印を記録する》
セレネは階段の途中から声を張った。
「水番は、住民の代わりに署名する人ではありません。住民が理解し、自分の意思で印をつけるまで、内容を守る人です」
広場からも人の声が上がった。扉の隙間から、桶を抱えた女や、オルドを追ってきた老人たちが見える。
「わしらにも見せろ!」
「雨の契約を読め!」
「水番の帳面を返せ!」
商会の男たちが階段を上がろうとした。ラウルが剣を抜く。刃は男たちに向けられたが、彼は一歩も踏み込まなかった。
「ここで争えば、記録が壊れる」
セレネが言う。
ラウルは頷き、剣を下げた。そして階段を降り、男たちの前に立つ。
「全員、外へ出ろ。ここは公開する」
「閣下、住民に契約を読ませるおつもりですか」
「読ませるのではない。読めるようにする」
ラウルの声は大きくなかった。それでも、塔の壁を伝って広場へ届いた。
その言葉を聞いたノエルが、帳面を抱えたまま立ち上がった。
「僕が読みます」
オルドが彼を見る。
「読めるのか」
「全部は無理です。でも、印なら覚えています。母さんの印も、隣のパン屋の印も、僕の印も」
ノエルは震える手で、頁の端にある三本線の印を指した。
「これは僕の印です。文字はまだ書けない。でも、水を守ることに同意するなら、これをつけられる」
セレネは胸が熱くなるのを感じた。
「では、最初の水番はあなたです」
「僕が?」
「あなたが知っている印を、あなたの言葉で確かめる。誰かに代わって決めるのではなく、本人に尋ねる。それが水番です」
ノエルは帳面を見つめ、それから階下の人々へ向き直った。
「雨を集めた水は、商会だけのものではありません。塔を直す費用は、使った分に応じて話し合います。水を止めるときは、鐘で知らせます。知らないまま印をつけた人は、あとで取り消せます」
途切れ途切れの読み上げだった。
けれど、誰も笑わなかった。
広場で女が泣き、老人が杖を鳴らし、子どもが自分の印を石の上に描いた。
セレネは帳面の余白に、新しい一文を書き加えた。
《読めないことは、同意できないことではない。ただし、理解する機会を奪ってはならない》
書き終えたとき、ラウルが隣に立った。
「それは契約になるか」
「まだです。署名する人が必要です」
「では、集める」
彼は広場を見下ろした。
「全員の署名を」
セレネは彼の横顔を見た。無口な辺境伯は、もう一人で決めようとしていなかった。
塔の外で、誰かが最初の印を押す音がした。
乾いた町に、水番の仕事が戻ってきた。




