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一文字違いの契約書を見抜く私が、無口な辺境伯と水の都を守ります  作者: 銀細工ナギ


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15/20

破られた原本を取り戻せ

 濡れた紙を乾かすには、火が近すぎても遠すぎてもいけなかった。


 セレネは広場の天幕の下で、布に挟んだ帳面を一枚ずつ裏返していた。水に溶けたインクが、夜の記憶まで連れていこうとしている。七家族の名前。その暮らし。その人たちが確かにここにいて、水を使い、守り、選んだという証。


「セレネ」


 ラウルの声に振り向くと、彼は濡れた外套を脱いだところだった。夜明け前の見回りから戻ったらしい。剣の鞘に泥がついている。


「北門の見張りが、商会の荷車を一台見た。荷は空だと言っていたが、御者は広場を見ずに出ていった」


「空の荷車を、こんな時間に?」


「空ではないかもしれない」


 セレネは水桶を見た。消えた帳面が見つかった場所。偶然にしては、置かれ方がきれいすぎた。誰かが見つけさせたのだ。盗んだことを知らせるために。


「原本を狙っている」


 ラウルの瞳が細くなる。


「原本は?」


「古い憲章のことなら、私が持っています」


 セレネは胸元に手を当てた。革の袋の中に、消された井戸の条文と、七つの隠し署名をつないだ古い紙片がある。王立契約院から持ち出したものではない。マティアが、正規の貸し出し記録を残して託してくれた原本だ。


「分けておくべきでした」


「今からでも遅くない」


 ラウルはそう言ったが、声の底には別の懸念があった。


 その時、広場の入り口で鐘が鳴った。


 水番の緊急鐘ではない。王立契約院の使者が到着した時にだけ鳴らす、役所用の鐘だった。


 人々がざわめく中、灰色の馬車が広場へ入ってくる。扉に刻まれていたのは、契約院総監グレゴール・ハイルの印だった。


 先頭の役人が巻物を掲げた。


「王立契約院の命令である。共同署名の原本、および水利憲章に関するすべての記録を、直ちに提出せよ。未承認の文書を保持し、流布した者は、契約魔法を乱した罪に問われる」


 住民たちの間から、低い怒りの声が起こった。


「未承認だって?」


「昨日、読んで署名したのは俺たちだ」


「誰の許可がいるんだ」


 役人は聞こえないふりをした。


「辺境伯ラウル・エルグレン。あなたには、裁定に反する署名活動を停止させる義務がある」


 ラウルは一歩前へ出た。


「裁定は、共同署名を禁じていない」


「裁定は川を商会の管理資産として扱う。住民が別の意思を示せば、混乱を招く」


「意思を示せないことを、秩序とは呼ばない」


 短い言葉だった。それでも広場全体に届いた。


 役人の顔が歪む。


「ならば、書類を提出してもらう」


 セレネは革袋を握った。差し出せば、原本は奪われる。拒めば、罪に問われる。だが問題は、自分の身ではなかった。原本に記された署名が、また誰かの余白へ押し込められることだ。


「原本を渡す前に、確認させてください」


「何をだ」


「あなた方が求めているのは、文書ですか。それとも、そこに記された人々の意思ですか」


「詭弁を」


「違います」


 セレネは水桶の前に置かれた机へ歩いた。


「文書だけを持ち去るなら、署名した人々に内容を読ませる必要があります。誰の意思を、何のために回収するのか、ここで説明してください」


 役人は黙った。


 その沈黙を、住民たちは聞き逃さなかった。


 染物工房の主人が、乾きかけた紙を掲げる。


「俺は水路を売ることには反対だ。修理を商会が手伝うのは賛成だ。俺の言葉を勝手に一つにするな」


 下流の女が続いた。


「私は字が読めない。でも読んでもらって、印を選んだ。あの紙を誰かに持っていかれるのは嫌だよ」


 ノエルも前へ出た。手には新しく書き直した七家族の帳面がある。


「この写しは、本人たちに一人ずつ確かめてもらった。原本が濡れても、名前は消えない」


 役人がノエルの帳面へ手を伸ばした。


 その瞬間、ラウルが間に入った。


「触れるな」


 剣は抜かなかった。ただ、低い声が刃のように響いた。


 役人は顔を赤くした。


「辺境伯が王立機関に逆らうのか!」


「逆らっているのは、読めない命令で人を従わせるやり方だ」


 セレネは革袋から原本を取り出した。古びた紙には、七つの署名が水脈のように連なっている。隠された文字は薄い。それでも、消されなかった意思は残っていた。


「これは共有水利憲章の原本です。契約院の保管記録にも、存在しているはずです」


「偽物だ」


「なら、なぜ総監の使者が、原本を見もしないうちに回収しに来たのですか」


 赤い線が浮かんだ。


 役人の命令書。その一文の端に、細い校正線が走っている。


 ――原本を提出せよ。


 その下に本来あるべき言葉が、かすかに透けていた。


 ――原本を確認し、提出の要否を記録せよ。


 誰かが「確認し」の部分を削り、提出だけを命令に変えている。


「この命令書は改ざんされています」


 セレネが指で示すと、役人は反射的に巻物を隠した。


 広場から息を呑む音が上がった。


「その紙を見せて!」


「読ませろ!」


 役人は後ずさった。灰色の馬車の御者が、合図を受けて手綱を引く。


「逃がすな!」


 誰かが叫び、荷車の車輪の前へ桶を投げた。馬が嘶き、馬車が大きく傾く。役人の一人が地面へ落ち、懐から別の包みが転がった。


 セレネは包みの裂け目から見えた紙に気づいた。


 破られた紙片。古い青い蝋印。


 王立契約院の地下記録庫から消えた、もう一枚の原本だった。


 彼女は駆け寄り、紙片を拾い上げる。


 そこには、消された井戸の名前が、まだ読める形で残っていた。


 ラウルが役人を拘束する一方、セレネは破片を胸に抱いた。


 原本は一つではなかった。誰かが破り、分け、別々の場所へ隠していたのだ。


 そして今、その一部が戻ってきた。


「セレネ」


 ラウルが呼ぶ。


 彼女は破片と革袋の原本を並べた。切れ目は、ぴたりと重なる。


 赤い光が紙の縁を走り、眠っていた文字が浮かび上がった。


 ――水は、所有する者のものではなく、共に生きる者のものとする。


 広場の誰もが、その一文を読んだ。


 王都の裁定が川を数字に変えようとしても、ここには数字になる前の約束がある。


 しかし、戻ったのは全体の半分にも満たない。


 セレネは顔を上げた。


「残りの原本を取り戻します」


 ラウルが頷く。


「三日目までに」


「ええ。今度は、誰にも一枚で奪わせません」


 ノエルが新しい帳面を開く。住民たちは自分の写しを抱え、互いの名前を確かめ始めた。


 破られた原本は、まだ完全ではない。


 けれど失われたわけでもなかった。人から人へ渡された言葉が、その在りかを知っている。


 夜明けの川面に、細い光が差した。水は一度分かれても、必ずどこかでつながる。


 セレネは濡れた紙を胸にしまい、ラウルとともに、原本の残りを追うため広場を出た。

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