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一文字違いの契約書を見抜く私が、無口な辺境伯と水の都を守ります  作者: 銀細工ナギ


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14/20

三日間だけの共同署名

 最初に訪ねたのは、川沿いの古い染物工房だった。


 工房の主人は、戸口に立ったセレネたちを見るなり、首を横に振った。


「署名ならしない。前にも紙を持ってきた役人がいた。水を使わせてほしければ、ここに名を書けと言われたんだ」


「その紙には、何と書いてありましたか」


「読めない。読める者に聞いたら、商会へ水を譲る同意だと言われた」


 主人の隣で、若い妻が唇を噛んだ。


「だから、もう誰も信じないんです」


 セレネは裁定書を取り出さなかった。代わりに、白紙を机の上へ置いた。


「今日、お願いする署名は、水路を誰かに売るものではありません。町の人が、水をどう使いたいかを自分で決めたと記録するものです」


「同じことだろう」


「違います。嫌なら署名しなくていい。署名したあとでも、内容を間違えて理解していたと分かれば、取り消しを申し出られるようにします」


 ラウルが黙って頷いた。


 セレネは白紙に、ゆっくりと言葉を書いた。


 ――この水路は、私たちの生活を支える共有の水路です。誰か一人の財産として売ったり、使えなくしたりしません。修理や管理に必要な負担は、内容と金額を示し、使う人が確かめて決めます。


 難しい言葉を避け、ひとつずつ読み上げる。


 主人は何度も紙を見返した。


「これなら、俺にも分かる。だが、辺境伯様があとから変えろと言ったら?」


「変えるには、変える内容を皆に知らせて、もう一度同意を集めます」


「王都が命令したら?」


 セレネは答える前にラウルを見た。


 ラウルは紙の上に手を置いた。


「私が命令に従うだけの領主なら、ここへ来ていない」


 そして、紙の下端に自分の名を書いた。


 ラウル・エルグレン。


 大きくも、飾ってもいない。ただ、逃げ道を塞ぐような確かな筆跡だった。


「私も署名します」


 主人はしばらく黙ったあと、煤けた指で自分の名を書いた。妻も隣に続ける。


 赤い光が、紙の縁を細く走った。


 意図と効力のずれはない。


 セレネは胸の奥で息を吐いた。


「署名した人には、写しを渡します。写しがなければ、署名の意味を誰かに預けることになるから」


 その言葉を聞いた妻が、初めて顔を上げた。


「私、字が読めません。名前を書くこともできない」


「なら、読み上げを聞いて、あなたが選んだ印を残せます。誰かに代わりに書いてもらう時は、その人の名前と、あなたが内容を聞いたことも記録します」


「それでも、署名と呼べるの?」


「あなたが選んだなら、あなたの意思です」


 セレネは三本の線を組み合わせた印を紙の端に描いた。妻はその印を何度も指でなぞり、自分の手でなぞり直した。


 工房を出ると、ノエルが帳面を抱えて待っていた。


「一人目の写し、できました」


「名前は間違っていない?」


「三回確かめました。それから、本人に読んでもらいました」


「読めない人には?」


「私が読んで、分からないところを聞きました」


 ノエルの声には、昨日までなかった自信があった。


 昼までに、パン焼き職人、荷車引き、洗濯場の女たち、川の下流に住む家族が署名した。中には、商会に雇われている者もいた。


「商会が怖い。仕事を失うかもしれない」


 そう言った男に、ラウルは目を逸らさず答えた。


「反対の意思を書いてもいい。商会が水路を管理する案に賛成だと、明確に書いてもいい。誰かに合わせる必要はない」


 男は驚いたように辺境伯を見た。


「賛成も、残すんですか」


「全員の意思を記録すると言った」


 男は長い間考え、紙の空欄にこう書いた。


 ――水路の修理を商会が手伝うことには賛成する。ただし、水を止める権利を渡すことには反対する。


 セレネの赤い光は、その文にも静かに沿った。


「これでいいのか」


「はい。あなたの考えが、あなたの言葉で書かれています」


 夕方、署名の数は百を超えた。


 しかし、広場の机へ戻る途中、ノエルが急に足を止めた。


「帳面が一冊、ありません」


 水路ごとに集めた写しの一覧。そのうち、下流の七家族分を記した帳面が消えていた。


 セレネは周囲を見回した。人の往来は多い。誰が持ち去ったのか分からない。


 ラウルの表情が硬くなる。


「今夜、署名を隠す場所を変える」


「隠すだけでは、また奪われます」


 セレネは机の上の白紙を見た。


「写しを増やします。原本を一つにしなければ、誰かが持ち去っても意思そのものは消せない」


「署名が分散すれば、契約魔法の効力も弱まる」


「だから、つなぎます」


 彼女は七つの帳面を並べ、同じ文を中央へ書いた。


 ――この署名は、他の署名とともに一つの意思を示す。


 ノエルが息を呑む。


「そんな接続文、憲章にはありません」


「昔の憲章にないなら、今の私たちが作るんです。ただし、誰にも分かる形で」


 ラウルが剣を抜いた。紙を切るためではなく、机の脇に立てかけるためだった。


「今夜は私がここにいる」


「辺境伯が見張りを?」


「署名を守るのも、領主の仕事だ」


 夜が深まるにつれ、広場には人が増えた。昼に署名した者たちが、家族や隣人を連れて戻ってくる。賛成の文も、反対の文も、疑問も、紙の上に積み重なっていく。


 セレネは一枚ずつ読み、意味のずれがないか確かめた。


 その隣でラウルは、署名した人の名前を覚えようとしていた。


「全部、覚えるつもりですか」


「覚えられるだけ」


「三日しかありません」


「三日だからだ」


 火皿の灯が、彼の横顔を照らしていた。


 セレネはふと、自分の手元の紙に赤い線が浮かんでいないことに気づいた。線がないのは、契約が完成したからではない。ここにいる人々が、自分の言葉を選び、その結果を引き受けようとしているからだ。


 夜明け前、消えた帳面が戻ってきた。


 広場の隅に置かれた水桶の中で、濡れた紙が重なっていた。文字は滲み、七人の名前の一部が読めなくなっている。


 ノエルが泣きそうな顔をした。


「やり直せますか」


「やり直します」


 セレネは濡れた紙を広げた。


 ラウルが住民を呼び、七家族のもとへ使いを出す。失われた言葉を、本人たちにもう一度確かめるために。


 空が白み始めた。


 三日間のうち、まだ一日目だった。


 けれど共同署名は、もう単なる紙の束ではない。誰かに決められた水の値段ではなく、ここで暮らす人々が、自分の声を持ち寄って結んだ流れになっていた。

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