序章「邯鄲の夢」
空を切るかのようなある意味小気味良い音とともに真紅に染まる視界。
鮮烈なる血の匂いとともに広がる赤い血溜まり、全てはかつて生命であったもの、そして今はただの物質に過ぎないもの。
「っ!」
あまりにも恐ろしい光景に、私は声一つ出すことも出来ず、指一本動かすことすら叶わなかった。
出来ることと言えば、ただ目の前で起きている惨劇、悲劇に恐怖を感じ、無力な子供のように震えることのみであろう。
「っは……!」
空を閃光が走り、またしても一人私の同志が倒れた。
すでに周囲にはかつて生命であった者たち、そして今はただの物質に過ぎない物たちが赤い色に包まれ、散らばっている。
「どうして、ですか……?」
たまらず私の口から漏れたのはそんな言葉。この惨たらしい状況をたった一人で作り上げた彼は赤い血に濡れた刀を拭うことすらせず、冷たい瞳で私を見据えた。
その黒い瞳を見た瞬間、私の全身を恐ろしい戦慄が駆け抜ける。冷たい眼差し、生命を生命と認識していない血液とワインの区別すら不要な人間特有の冷徹な目。
ところがそれも一瞬のこと、彼の黒い瞳が揺れ、わずかながら感情らしきものが宿る。
続いて、恋人を抱きすくめるかのような極めて自然な動きで距離を詰めると、彼は私の瞳を間近で見つめた。
「……えっ?」
「『何故か?』と問うたか?」
最初に感じたのは強烈な熱、腹部を中心にそれがじんわり広がったかと思うと、生暖かいものが口腔いっぱいにこみ上げてくる。
「がはっ!」
口から血を吐く段階になって、ようやく私は彼に腹部を刺されたのだと気付かされた。
そして彼は血に塗れた手を私の腰に回すと、顔を寄せ、至近距離で言葉を紡ぐ。
「何故かと問うならば、必要であったから、とそう答えよう」
「ひつ、よう……?」
「破壊は必然、再生を夢見て眠れ」
そうして私は血溜まりの中に沈んで行く、同志の流した血で出来た深く、暗い闇の中へ。
私の血に濡れた真紅の刀を握る殺人者、最後に見た彼の顔は飛び散った血が頬を伝っており、まるで泣いているかのように見えた。
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_
随分昔、邯鄲の夢と言う故事を聞いたことがある。
戦国の頃、盧生と言う若者が趙の都、邯鄲に行った際、そこで出会った仙人から何でも願いが叶う枕を貰うと言う話しだ。
盧生が栗粥の煮えるを待ちながら枕を使ってみれば、信じられない速度で出世して行き、時には困難に遭いながらも成功、人にも恵まれ、幸せな生涯を終える。
そこで目を覚ます盧生。見ればまだ眠る前に煮ていた栗粥が炊けてすらいない、全ては一瞬の間に見た長大な夢であったのだ。
夢の中でこの世における栄枯盛衰の全てを見た盧生は全ての欲望を断ち切り、故郷へ帰って行くというのが結末である。
所詮この世は一夜の夢、この世における名声も富も夢から覚めるまでの儚いもの、死ぬときには何一つ持ってはいけない。
そして「邯鄲の夢」から覚めた後でも、ひどく残忍で、わずかな救いのある人生は続くのだ。
さて、前置きが長くなったが、そもそも私は何か特別な才能があるわけでもなければ、人並み外れた力があるわけではない。
それは私がどんな人生を送ってきたのか、とこの先どんな人生を送るのかを見てもらえれば一目瞭然であろう。
小中高と内向的で大人しい人間として過ごし、ようやく就職出来た中小企業でも『真面目で良い人だけど面白味にかける』と言う表現がピッタリ当て嵌まる地味な人生を送るのが私と言う人間だ。
平々凡々、凡百な人生、面白味も頭を悩ませるような問題も必要ない道、ただただ地味な人生、それが一番尊く、得難いものである。
その日も私は残業を終え、家賃四万円のボロアパートに帰ると手早くシャワーを浴びてジャージに着替えた。
「今日も生き延びることが出来たな」
毎日一番の楽しみはこの眠る前の数分、こうしてベッドに横たわっていると不思議と心が落ち着いてくる。
「……(おやすみ地球、おやすみ、自分)」
そして私は明日の業務に備えて、安らかな眠りへとつくのであった。
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_
『やあ、久しぶり、やっと見つけたよ?』
奇妙な夢を見た。どことも知らぬ空間に横たわり、私のすぐ枕元に一人の少女が立っている。
私の姿を楽しげな、ある種無邪気で、同時に残忍極まりない笑みを浮かべながら眺めていた。
『君のことをずっと探していたんだ。まさか『霊廟』にいるなんて思わなかったよ』
こちらに話しかける少女は褐色の肌に長い黒髪、首からは十字とYの字を重ねたような奇妙な首飾りを下げている。
『こっちは随分盛り上がってるよ。でも、君がいなきゃ何も始まらないんだからね』
少女がこちらに手を上げた瞬間、私の意識は急速に覚醒へと向かっていった。
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_
「……さい、目覚めなさい亀童丸?!」
「う、ん……?」
自分を呼ぶ鋭い声、聞き覚えのない人物のものだったが呼ばれている以上は返事をせねばなるまいと青年は目を開く。
「ようやく目を覚ましたようですわね」
すぐ近くから聞こえる女性の声にその青年は急速に意識を覚醒させていった。
まず身体全体に感じたのはひんやりとした空気、まるで早朝の山中を思わせる静謐であり清浄な気運である。
「本当に、ようやく……」
「……こ、ここは? 貴女は……?!」
予想だにしない、と言うよりも理解できないような状況に青年は頭がおかしくなりそうになっていた。
何もかもがおかしい。現代日本に生まれ、令和の世界で過ごしていた彼の中に残る最後の記憶は、その日の仕事を終え帰宅、シャワーを浴び、疲れからそのまま着替えて眠った記憶。
すなわち普通に考えるならば次の日目を覚まし、また変わらぬ日常を送る未来が来るはずである。
それがどう言うわけだか自分は祭壇のような場所に横たわっており、知らない空を見上げているのだ。
冷静に状況を見極めろと言う方が無理な話しであろう。
誘拐、あるいは夢遊病、混乱しながらも身体を起こしてより詳しく状況を把握しようとした青年だったが、すぐ近くに立っている女性の姿を見て慌てて目をそらした。
「……なぜ目を背けるのですか?」
心底行動の理由がわからないと言わんばかりにこちらの顔を覗き込むその女性は信じられないほどに整った顔立ちをしている。
日に焼けた褐色の肌、紅玉の如き赤く美しい瞳に月光を思わせる長い銀髪は後ろで流されており、その色合いもあってか光の帯のようだ。
「い、いや、何という格好をしているのですか!」
そんな美しい女性を前にして青年は慌てて目をそらしたわけだが、その理由は彼女の服装に問題がある。
「妙なことを言いますわね。我が鍛え抜かれた肉身に恥ずべき箇所はありません。晒したとて何も問題はないでしょう?」
堂々とした動作で豊かな胸を張り二メートルはあろうかと言う長身を誇示するように背筋を伸ばす美女。
そんな彼女の服装は青年が目をそらしたくなるほどに、信じられないほど露出過多なものであった。
鍛え抜かれた上半身を隠すものは首輪のような装飾とそこから伸びる二房の布切れのみで結果、豊かな褐色の胸の先端をどうにか隠すと言う恐ろしく扇情的な装束となっている。
さすがに下半身は地に先端がつきそうな長い前掛けのようなもので隠されているがそれ以外の箇所、例えば鍛え抜かれた四肢や両の乳房の大半、見事に割れた腹筋などは完全に晒されていた。
あらゆる意味で浮世離れした姿、令和日本に生きる青年がこれまで一度として見たことがないような姿である。
「何をしているのですか? 早く直視なさい」
「いや、それは……」
全く声音は変わっていないながらも、何となく不機嫌になったかのような、そんな気配に青年は微かに頭を振った。
「それとも卿は我が身を醜いものと判断したのですか?」
「いや、むしろ洗練され過ぎている気がするのですが……」
「ならばそのような不敬な態度は改めるべきです。我が身を直視なさい」
確かに目を逸らしたまま会話することは礼節にもとる。正直見ることすら難しいもののそんなことを考えていては前に進むことなぞ出来はしない。
努めて平常心を保つことを強く心に念じると青年はその場で立ち上がり、見上げるような形で褐色の女性と目を合わせる。
「……結構、これでようやく本題に入れます」
にこりともしない怜悧冷徹そのものといった風貌だが青年が顔を向けた瞬間、微かに笑みを浮かべたかのように見えた。
単に感情が顔に出にくいと言うだけで冷たい人間と言うわけではないと彼はそう判断する。
「わたくしの名は瀛洲寺凍子、貴方の師であり姉であり、また伴侶でもある者の名前です。もし忘れたと言うつもりならば、今一度しかと胸に刻むように」
右手を自分の胸に当てて自身の名を名乗る瀛洲寺凍子。どうにもどさくさに紛れてとんでもないことを言われた気がするのだが、そこに言及する前に凍子は左手を青年に差し出した。
「……久坂亀童丸わたくしが名乗ったのです。貴方も早く名乗りなさい」
「亀童、丸?」
どういう訳かは知らないものの凍子は青年のことを久坂亀童丸と言う名前で呼んでいる。
名前の訂正をしようとして青年は信じられないことに気がついた。
「……(名前が思い出せない!?)」
そう、先程まで使われていた名前を何故か思い出せないのである。
ちょうど夢の中で得た知識が現実には一切持ち込めないような、そんな感覚に少なからず戸惑う青年。
しかし名を求められている以上は名乗られねばならない。
礼節に悖るというのもそうだが、ただでさえ目の前に立つ人物は青年が無言でいる時間が長ければ長いほどに、身に纏う冷たい気配を強めているのだから。
「……久坂亀童丸です。ええっと、よろしくお願いします?」
関係ない人間の名前かと思ったが、意外と馴染む呼称、まるで随分前に失っていたものを取り返したかのような感覚だ。
少なからず狼狽する青年を見て、彼の言い方が気に食わなかったのか、凍子は瞳を閉じて静かに首を振る。
「男児たるものそのような迷った物言いはするものではありません。しかしまあ、今日は新たな旅立ちと言う記念の日、大目に見るといたしましょう」
付いて来いと言わんばかりに踵を返して歩き始める凍子、いきなり歩き始めたために青年、亀童丸は彼女を見失わないようにやや小走りで後を追いかけた。
「あの、瀛州寺さん……」
「凍子です。名を明かしたのですから下の名で呼びなさい、それとわたくしの名は呼び捨てになさい」
「では凍子、ここは一体どこですか? 見慣れぬ場所なのですが……」
周囲には霧が立ち込めているためあまり詳しい景色を窺い知ることは出来ないが、うっすらと見える樹木に霧の彼方にいくつも見える苔むした巌、どう考えても令和の日本ではない。
「ここは我が霊場にして本性たる場所、蓬莱島、仙道の集う仙境です」
凍子の説明にまたしても亀童丸の中で疑念が広がる。蓬莱島と言えば古い伝説に登場する不老不死を得た人間、仙人がいる島のことだ。
令和の日本にいた自分が何故そのような得体の知れない場所にいるのかさっぱりわからず、いよいよ頭の中が混乱し始める。
ふとそこで、亀童丸は自分が見たこともない服を着ていることに気づいた。
眠る際に着ていた安いジャージではなく、紙で作られた質素な紙衣に白い袴と脇差、感覚から鑑みるに額には鉢巻とまるで修行中の仙人を思わせる服装をしている。
「さて、着きましたわよ?」
あまりにも色々な事象が起きた上に自分の服装も気にしていたためにどこを歩いているのかも、凍子が足を止めたことにも亀童丸は気づいていなかった。
「こ、これは……」
絶句する彼が現在立っているのは冷たい空気に満たされた洞穴、しかし一般的に想定されるような無骨な洞窟ではなく、かなり整備された場所である。
広々とした空間には石畳が敷かれており、洞内に規則正しく置かれた灯篭からは不思議な青白い光が発せられ、穴の中を優美に照らしていた。
まさに仙人が暮らす洞府と呼ぶにふさわしい場所である。
「さて、時間がもったいないので早速最終試験と参りましょう」
洞内に設えられた畳の上に正座しつつ、こともなさげにそのようなことを言う凍子。「準備は出来ているはず」と言わんばかりの態度に亀童丸は素早く首を振った。
「っ! いやいや、待って下さい!」
「時間がもったいないと言っているでしょう?」
急がせるように自分の隣を指し示す凍子、対して亀童丸の方はほとんど説明らしい説明もされないままにここまで来てしまったために自分の周りで何が起きているのかを把握出来ていないため混乱の真っ只中にいる。
「いや、そうは言われても全く状況がわからないのですが……」
こちらをじっと眺める凍子に対して微かに唇を尖らせる亀童丸。
こんな奇妙な状況の中で錯乱することもなくここまで比較的冷静に振る舞えたのは彼自身の精神力に依るものが大きく、本来ならばとっくの昔におかしくなっていても不思議ではない。
そんな精神状態を察したのか亀童丸を見て微かに顎を上げる凍子。相変わらず何の意思も感じさせない無機質な瞳の中に、微かに憐れむようなそんな気配が混じった。
「……ふむ、そう言えばなんの説明もしていませんでしたね」
凍子の言葉にようやく自分の置かれた状況を説明してもらえるのかと思い、亀童丸は彼女に乞われるままに隣に座る。これがいけなかった。
「では最終試験をしながら話しをするとしましょう」
こともなさげにそう告げると、凍子は恐ろしい速度で手枷のようなものを取り出して亀童丸の両手を拘束する。
「は? え?」
「座禅を組んで下さい。結跏趺坐です。組めますね?」
どうやらもう従うしかないらしい、彼は一旦思考を停止させると微かに頷いてみせた。
「は、はい……」
とりあえず両足をクロスさせて結跏趺坐を組むと凍子は満足そうに頷く。
「よろしい、では瞳を閉じて下さい」
どうやら瞑想をさせるつもりらしい。もうここまで来たならば腹を括り状況に身を任せる他ない、覚悟を決めると亀童丸はゆっくりと目を閉じた。




