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1.目玉焼きのせキムチ丼

 帰宅して、靴を脱いだだけの姿でそのまま人をダメにするソファに倒れこんだ。


 転職してからこんなに残業したのは初めてだ。

 前職のベンタブラックぶりに比べれば今の職場は驚きの白さではあるが、繁忙期となるとやはり忙しい。


 それに加えて今日は会議で4時間拘束された。

 いや4時間て。就業時間8時間のうち、半分会議って。

 ていうか24時間のうちの4時間だって6分の1だぞ。睡眠時間5時間としたら、19分の4でほぼ5分の1だぞ。やってられるか。


 しかもそれだけの時間を費やした挙句、有意義な議論の時間は10分あればいい方だ。コスパが悪すぎる。

 他はお偉くて時間に余裕がおありのお歴々のご高説を賜る時間と、そう言ったお歴々が謎に「そもそも」とか言って前提をお覆しになる神々の遊びにお付き合いして右往左往する様をお見せして楽しませて差し上げる時間だ。

 賽の河原の鬼はあんな気分で働いているのかもしれない。


 それでもって、会議が1時間で終われば1~2時間残業したら帰れるかな、と言う程度の仕事量がじゃあ会議が4時間だったからその分減るかと言うとそういうわけにもいかないので、会議4時間プラスその日の業務をこなす9時間で合計13時間労働。


 いや、分かる。前職ならこの残業時間であれば「おっ今日は早く帰れるぞ!」となっていただろう。

 だが転職して8~10時間労働に慣らされてすっかりたるみ切った体にはキツすぎる。


 あと当然のことながら、あの時より年を重ねている。20代前半に耐えられたことがアラサーに耐えられるかと言うと、悲しいがそうではないのが実情だ。

 加えて今日は水曜。普通に明日も仕事がある。


 虚ろな目でスマホを確認する。23時半を回ったところだ。

 このままここで寝落ちる前に、シャワーだけでも。


 そう思ったのも一瞬のことで、というかもはやそれはフラグに過ぎず……瞬きで瞼を下ろした隙を突かれて、あっという間に眠りに落ちた。



 〇 〇 〇



「ふがっ」


 目が覚めた。

 煌々と電気がついた部屋を見回す。手からぽろりとこぼれていたスマホを拾い上げた。

 2時、丑三つ時だ。


 やらかした。完全に寝落ちた。

 もうこのまま寝てしまえという悪魔のささやきが聞こえたが、それを振り払って何とか立ち上がる。


 シャワー。とにかくシャワー。それでもう一回寝る。即、寝る。



 シャワーを浴びると眠気がどこかに行くのは何故なのだろう。


 さっきまであんなに、地獄のように眠かったのに。こんなにあっさりどこかに行くなら、最初から来ないで欲しい。

 ベッドに入ってさあおいでと言った時しか来ないようなシステムを導入して欲しい。

 もう令和なんだからそのくらいの機能は実装してくれたっていいだろう。


 そしてシャワーで体が温まったからか、途端に腹が減ってきた。

 何ならぐうと鳴った。


 目も冴えてしまったし、これでは空腹が気になってとても寝付かれない。

 目先の空腹と深夜の食事による将来の不健康を天秤にかけて、あっさり目先の欲に敗北した。


 もういいや。酒をほとんど飲まないから、痛風にはならない。痛風にさえならないなら何も怖くない。

 それだけで酒飲みより連中もよっぽど健康体のはずだ。

 この時間の飯くらい、誤差だ、誤差。


 冷蔵庫を開ける。何とも心もとない中身だ。生鮮食品がほとんど入っていない。

 本当は今日買い物に行こうと思っていたのに、残業のせいでそれもままならなかったのだから仕方ない。

 まぁ入っていたとて、今から何かを作って食べようという気はイマイチ起きないが。


 冷凍してあった白米をレンジに入れて、解凍モードで温める。

 電気ケトルに水を入れて、スイッチを下ろした。


 ふりかけご飯とインスタント味噌汁でいいか、と思ったところで、先日スーパーで激推しされていたから買った韓国海苔のふりかけが目についた。

 そうだ。これにしよう。


 主軸が韓国海苔なら、脇もそれ系で固めたい。冷蔵庫の隅に小分けパックのキムチが残っていたので、それを食べよう。

 賞味期限が少々過ぎていたが、見ないふりをする。大丈夫。漬物だから、大丈夫。

 どうせ食べるのは自分なのだから、最悪当たったとて苦しむのも自分だけだ。


 チン、と音がした。温め終わった米を取り出す。

 米を丼に盛って、キムチを載せる。上から韓国海苔をかけたそれを手に持って、もうひと声、と思った。

 コンロ下の収納から小さい方のフライパンを取り出して、火にかける。


 ごま油を適当にひと回しした後、冷蔵庫にかろうじて1つ残っていた卵を取り出して割り入れた。

 じゅぅう、とフライパンに載った卵から断末魔が聞こえる。


 目玉焼きは半熟どころか、じゅくじゅくぐらいが好きだ。白身だけが固まって、黄身はドロドロなぐらいがいい。

 このあたりの好みは本当に人それぞれ、千差万別なので、どれが正しいとか、どれがいいというものではない。

 みんな違って、みんないい。卵は我々に多様性を教えてくれる。


 ごま油の香りが立ってくる。空腹がさらに加速したころ、ちりちりと音がして、白身のふちが浮き出した。うん、頃合いだ。

 キムチと海苔を載せた丼に、目玉焼きをスライドさせる。


 目玉焼きに全神経を集中しているうちに、ポットにお湯が沸いていた。

 冷蔵庫から取り出したチューブ式の中華調味料をうにゅっと気が済むまでお椀に入れて、乾燥わかめをぱらりと入れる。


 乾燥わかめ、何度も使っているはずなのにいまだに適量が分からない。

 まぁ、足りなかったら足せばいいのだが。


 中華調味料は赤い缶の物も好きだが、量らなくていい、スプーンがいらないという点でチューブ式に軍配が上がる。

 洗いたくない。スプーン1本たりとも、無駄なものは洗いたくないのだ。


 ズボラなので、あれ使おうかな、いやでもスプーンいるしな、で、結局使うのを諦めて賞味期限を大幅にオーバーさせるのが目に見えている。

 ていうか実際やった。


 冷凍庫にパックごと突っ込んである刻み葱をひとつかみスープに散らし、ついでにいりごまもパラリ。

 わー、売り物(※インスタントのわかめスープ)みたーい。すごーい。


 丼とお椀を持って、座卓に運ぶ。

 深夜に丼、罪深い。

 決して豪華でなくていい。手の込んだものでなくていい。

 こういう雑な飯をおいしいと思える感性……のようなものを愛して、生きていきたい。


 食卓を見回して、野菜が足りない、と思ったが……うん、キムチは、白菜だから野菜。わかめも海苔も、シーウィードだから、野菜。

 そういうことにしよう。深夜の男飯に栄養バランスなど求めてはいけない。


 手を合わせて、箸を取る。

 まずはキムチと韓国海苔のふりかけがかかったご飯を、一口。


 まだザクザク感が残った海苔の食感が楽しい。

 そしてそこに、キムチのシャキシャキした食感と、辛さと酸っぱさ。

 どちらも韓国出身なのだから、合わないわけがない。


 アツアツのご飯とひんやりとしたキムチの温度差もいい。

 最後にすべてを包み込むように残るごま油の風味も絶妙だ。


 ごま油というのは、どうしてこんなに食欲をそそるんだろうか。

 それとも、この感情を持つのはアジア圏の人間だけなのか。ぜひとも科学的に検証していただきたい。


 合間に挟むわかめスープもいい。安定の鶏がらスープと焦がし醤油の味わい、さすが大手企業、間違いのない味だ。

 わかめの量は、うん。まぁ、ちょっと足りなかったか。


 丼を3分の1ほど食べ進めたところで、台所から醤油を取ってきた。

 卓上醤油などという洒落たものは我が家にはもちろん存在しないので、1リットルのボトルを慎重に傾けて、しょうゆをほんの少ーし、垂らす。


 さて、ここからが今日のメインイベントだ。


 箸を握りなおして、揃えたその切っ先を、つぷりと黄身に差し入れる。

 そのまま黄身を一直線に割るように箸を動かすと、鮮やかなオレンジ色の黄身がとろりとあふれ出した。


 そうそう、これこれ。これが見たくて人生やってるんだよ。

 自分で焼くと好みの焼き具合に調節できるのが良い。フライパンという洗い物をひとつ増やしてでも、焼く価値がある。


 先ほどあんなにスプーンを洗うのを拒否していたくせに、我ながらものすごいダブルスタンダードっぷりだが、仕方ない。

 裏面が少しパリっとした白身と、トロットロの黄身。電子レンジではこうはいかない。

 これのためならフライパンくらい洗いましょう。ええ、謹んで洗わせていただきますとも。


 流れ出た黄身の跡地を残した白身と、ごはんをまとめて頬張る。

 ああ、至福。これこそが至福だ。


 目玉焼きをご飯に載せただけでこんなにもおいしいなんて、人生ってイージーモードなんじゃないかと勘違いしそうになる。

 ぷりぷりとやわらかい白身の表側、ぱりぱりと香ばしい裏側、その食感と、黄身から香る卵の味わい。

 垂らしたしょうゆもいい仕事をしている。


 わかめスープで一度リセットしてから、お次は黄身のたっぷり絡んだご飯と、キムチと韓国海苔を一気にかき込んだ。

 濃厚な黄身が少々パンチのあるキムチの味をまろやかにして、安定感のある万人ウケしそうな味に落ち着けている。

 卵の包容力、半端ない。これがバブみというやつか。


 ご飯と卵も鉄板だし、キムチと卵も鉄板だ。海苔とご飯、キムチとご飯だってそれぞれ黄金タッグだ。

 それらが一堂に会して、うまくないわけがない。夢中になってがつがつと食べ進めた。


 瞬く間に丼の中が空になった。箸を置き、手を合わせる。

 ありがとう、母なる卵よ、名もなき鶏よ。ごちそうさまでした。


 腹が満たされて、丼に視線を落とす。卵のこびりついた食器は洗うのに難儀する。早めにシンクに運んで、水につけなければ。


 しかし空腹なところに炭水化物を入れたせいで血糖値が急上昇したのか、頭がぼんやりしてしまって体が動かない。

 何だろう。ある種の賢者タイムなのかもしれない。

 いかん、また寝落ちる。


 鉛のように重たい体に鞭打って、何とか丼と椀をシンクに運び、水を張る。

 しかし洗うところまでは到底到達できず、そのままふらふらとベッドに倒れこんだ。


 まぁいいや。明日の朝の自分が洗えばいい。さもなくば、明日の夜の自分が洗うだけだ。


 目先の睡魔と食事の直後の睡眠による将来の不健康を天秤にかけて、あっさり目先の欲に敗北した。


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