32:次の約束と異変
帰り道。手を握ったまま空を飛んでいると、コウキが呟く。
「ばあちゃん、富士山好きだったなあ……」
「そうなのね」
「さすがのカグヤさんでもばあちゃんを連れてくるのは無理っすか?」
「連れてきても良いけれど、やはり負担はかかるわね。それよりもっといい方法があるわ」
カグヤはゆっくりと減速すると、止まった。
「カグヤさん……?」
「前を見ていて」
カグヤは目を閉じ、記憶の中にある映像をピックアップして一つの映像を創り出すと、コウキの目に映るように映像を展開した。
「うわっ」
桜吹雪舞う、桜並木。
奥に大きく富士山が見える。
「こういう風に、あなたにだけ知覚させるように映像を流すことはできるわ」
「びっくりした……でも、いいっすね、これ。その、カグヤさんが良ければ、ばあちゃんに見せてあげてくれませんか? お礼に、マスターんとこのケーキセットおごります」
「それならあと五日くらいで中庭の桜が満開になるでしょうから、富岡の状態を見ながらだけれど、お花見でもしましょうか」
「ほんとっすか! ありがとうございます!」
そうして再び動き出し、コウキの家の前にたどり着いた。
コウキとカグヤは音もたてず、同時に着地する。
「今日はありがとうございました。すっごく楽しかったです」
「飛んでる実感はあったかしら?」
「めちゃくちゃありました! カグヤさんのお陰で安心して初フライトを終えた感じっす」
「それなら良かったわ。ああ、そうだ、言い忘れていたけど、今日のことは他のヒトに言わないように。あまりに知れてしまうと、あなたを理から外れた存在として扱わなくてはならないから」
「……なんか難しいからよくわからないですけど、とにかく誰にも言っちゃだめってことっすね?」
「そういうことよ」
「わかりました」
「よろしくね。では、私は行くわ」
カグヤは握っていたコウキの手を離し、ふわりと空へ飛びあがった。
「カグヤさん!」
コウキの声に振り返る。不安げな瞳と目が合った。
「……五日後、ばあちゃんの所で会えますよね?」
確認するような、何かを恐れているような、そんな声色。
「ええ。五日後、富岡の病室に行くわ。そこで会いましょう」
「そうっすよね……手、離した瞬間、カグヤさんともう会えない気がしちゃって。ちゃんと約束できて良かったです。呼び止めてすみません」
そう言うコウキの瞳はまだ不安に揺れていた。
カグヤはコウキの目線まで降りると、その頬に手を当てる。膜を張っていたとはいえ、その頬はひんやりと冷たかった。
「私はあなたと富岡に会いに行くわ。私がそう決めたのだから、必ず。けれど、何かあれば呼びなさい。私の話し相手になってくれているのに免じて、行ってあげるから」
「すっごく遠い所にカグヤさんがいてもですか?」
「私の耳はどこにいても聞きたいことが聞こえるの。普通のヒトとは違うのよ」
「そう、そうですよね。カグヤさんですもんね。なんだろ、なんかすっごく不安になって。俺、昔からこういう変な勘当たるから、気になっちゃって。カグヤさんが言うなら間違いないっすよね」
まだ不安が残る様子だが、なんとか笑ったのを見て、カグヤは頷いた。
「ええ、今度こそ私を信じてちょうだい」
じっとカグヤを見つめてから、コウキもゆっくりと頷いた。
コウキと別れ、空を飛ぶ。
久々に工藤の母親の様子を見に行った。ICUから元の病棟に移動しており、状態は安定しているようだ。担当している看護師後ろから記録を覗くと、昼間にはリハビリがてら看護師と歩いているようだ。
順調に回復していることに安心し、再び空に戻る。
あと五日。
何をして過ごそうか。
そう考えてすぐ、部屋に置いてきたシムルに会いたいと思った。
こうしてカグヤが一歩踏み出せたのは、シムルのお陰だ。
カグヤはふわりと高度を上げ、月に向かって飛び始めた。
「おかえり、カグヤ。今回はえらい早かったなあ」
窓の側で大きなあくびをしながら、シムルはカグヤを迎えた。
そんな愛猫を思い切り抱きしめる。
「ぐにゃあ!」と声が聞こえたが、気にしないことにした。
「大丈夫だったわ、シムルの言った通り。ちゃんと話もできて約束も守れたし、次の約束もできた」
「そ、そうかいな……」
絞り出すような返事を聞いて、腕の力を緩める。窓の淵に腰かけて、シムルを膝の上に乗せると、彼は荒い息を吐いた。
「死なへんけど、死ぬかと思ったで……」
「あら、ごめんなさい。感謝と愛情が溢れすぎたみたいね」
「まあ、ええわ。そうやって笑ってるとこ見たら、わいも嬉しいし」
頬に手を当てる。カグヤが気づかない間に、顔には笑みが浮かんでいたようだ。
「……こんなに笑えるようになるなんて、思わなかったわ」
「せやな。けど、笑っとる方がわいは好きやで」
「ありがとう。……私も、笑ってる自分の方が好きだわ」
コウキたちと過ごした日々が脳裏をよぎった。
とても、楽しかった。
カグヤはシムルを膝の上に乗せたまま、窓の外を見る。
今は見たいものを思い描いていないため、窓からは青い地球が見えた。
ここは月に開いた窓なのだ。
「ここに来てからずっと、窓から眺めるだけだった。あなたを見つけた時も、人を消滅させる前にちょっと見ておこうくらいな気持ちだった。今回だってそう。だけど」
するりとシムルの頭を撫でた。シムルは何も答えない。
「人の終焉を願っていたのにおかしなことだけれど……今は人が愛おしくて仕方がない。いつかは終わってしまう命だと知っていても、悩み苦しみながら生きている姿が、私にはとても眩しかった。私は彼らが最後まで生きていく姿を、見ていたい」
カグヤがそういった瞬間、部屋空気が変わった。
窓から部屋に目を向けると、クリーム色だった壁の一部分が、黒を混ぜて波打たせたようにグニャグニャと形を変えている。
シムルが膝の上から降り、背中の毛を逆立てうなり声をあげた。カグヤも立ち上がる。
歪んだ壁は徐々に色を変え、形を変え、簡素な木製のドアを創り出した。
そのドアが、コンコンコン、と小気味よい音を立て、カチャリとドアノブが回る。
この場には相応しくないほどの、軽い音だった。




