30:甘くて苦い紅茶の味
カグヤは病院の屋上に着地した。
つい先日、ここで富岡の最後を見届けようとあの部屋に帰るのを思いとどまったのに、簡単に帰ってしまった、と反省する。
だが、シムルはいつでも待ってると言ってくれた。
カグヤがいなければシムルはあの部屋から出ることはできない。だから待たざるを得ないのだが、シムルの言葉はカグヤの心を温かくする。
「色んな事が終わったら、シムルと一緒にお散歩するのもいいわね」
コウキにも会わせてみたいと思う。どんな反応をするだろうか。
「コウキ……」
まだ、カグヤの事を怒っているだろうか。
あれから、コウキの事を覗くのが怖くて、その姿を見てはいない。
けれど、向き合わなければ、と思う。
カグヤの思いをきちんと伝えなければ、と。
屋上からゆっくりとコウキの病室まで降りる。
そして、病室の様子を覗き、一瞬思考が停止した。
見知らぬ老人がベッドに座っていた。
その隣には、妻なのか老婆も座っている。
「入院日がお天気で良かったですね」
「そうだな、手術もうまくいきそうだ」
その話を聞いて、思い出した。
「今日、コウキは退院だったわね……」
壁を抜けて外へ飛び出して、ふわりと一回転する。
柔らかな日差しを浴びながら、笑った。
「ああ、愚かだわ。自分の恐れが先行して、相手の位置を把握しないなんて」
ここ数日で、コウキの居場所があの病室であることを当たり前に思うようになっていた。
だから今日も、ここまで来たのだ。
ここにいるのが当たり前だと思うほどに、毎日この場所で会っていたから。
空高く飛び上がる。
探して、向き合って……その後のことは、その後考えればいい。
上空から町の中を探すと、あの喫茶店にコウキがいるのを見つけた。
一気に加速して店の前に降りると、ひとつ、深呼吸をする。
そしてドアを開けた。
カランカラン、と小気味よいベルの音がする。
「いらっしゃいませ……あ」
工藤がカウンターからこちらを向いた。
その向かいに頭を抱えたコウキが座っている。店内に他に客はいなかった。
コウキはカグヤには気づいていないようだ。ゆっくりと近づくと、隣の椅子に座った。
「オリジナルティーをお願いできるかしら」
工藤を見て言うと、渋々といった様子で注文を受けてくれた。
「カグヤさん……」
隣からコウキの声が聞こえたので、そちらへ向き直る。
「コウキ、あなたに話したいことがあって来たの」
カグヤの真剣な様子に、コウキも背筋を伸ばす。
一つ一つ言葉を選びながら、カグヤは話し始めた。
富岡と小さな嘘の約束をしてから、心がざわついて仕方なかったこと。
コウキ様子が少しでも変われば、顔を見に行くのも勇気が必要だったこと。
けれど、その約束を守ることが、富岡にとってはとても大切なことで、破ることはできなかったこと。
そして、ちゃんと向き合って話そう、そう思ってから長くかかったこと。
「あなたを傷つけてしまったのは申し訳ないと思っている。けれど、私は富岡の意思を尊重したかったの。だから、教えることはできなかった。けれど、約束を果たした後に、こうしてあなたと話すことから逃げ出してしまったことも、不甲斐ないと思っているわ」
コウキは黙って聞いていた。
話の途中でカグヤの前にティーセットを置いてから、工藤も店から姿を消していた。
カグヤはぬるくなった紅茶を口元に運ぶ。
香りは少し減ってしまったが、甘みとほんの少しの苦みが口の中に広がった。
「俺……」
コウキが口を開く。カグヤはティーカップを置いた。
「俺の方こそ、不甲斐ないです……。ばあちゃんの希望を叶えただけなのに、カグヤさんに怒鳴って……。俺の方がばあちゃんにもっとひどいことしてきたのに。もう二十六なのに、中身がお子様で、本当にどうしようもないです。カグヤさんが、こうやって来てくれて本当に良かった。もう、会えないかもしれないと思ってました」
そしてカグヤをまっすぐ見て、言った。
「カグヤさん、本当にすみませんでした! ばあちゃんはカグヤさんに感謝してました。自分の口から俺に伝えられたって。ありがとうございました!」
そうして、頭を下げた。
コウキの頭を見ながら、シムルに言われたことを思い出した。
「本当に、大丈夫だったわ……」
「え、なんですか?」
コウキが顔を上げて、こちらを見た。
「いえ、知り合いに言われたの。あなたと話してダメだったらどうしようと不安になる私に、大丈夫だと言ってくれたのよ。だから、ほっとしたの」
「そりゃそうですよ」
コウキは困ったように笑った。
「カグヤさんとの付き合いは短いですけど、濃い時間過ごしてますからね。信頼を裏切るようなことした俺が言うのもなんですけど、あんなプライベートなこととか自分の隠してた感情とかたくさん話して、いきなり絶交だ!とはなりませんよ。……俺がもう一回カグヤさんに会えたから、の話ですけど」
「……こちらに戻ってきて、良かったわ」
「そうっすよ。俺に謝るチャンスをくれて、ありがとうございました」
コウキはもう一度頭を下げた。
「私も、またあなたからたくさん学ばせてもらったわ。人と向き合うのは難しくて大変だけれど、それも悪くはないと思えるもの」
「難しくさせてすみません……」
コウキが隣でシュンとしている。
カグヤはその様子に少し笑って、紅茶をもう一口、口に含んだ。




