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29:帰る場所

「おかえりやでー。意外と早かったなぁ」


 久々に見る愛猫は、窓から部屋に降りたったカグヤに顔を向けた。

 まるで満月のような、金色の瞳がきらりと光る。


「しばらく帰っていなかったから、あなたが寂しくなったらいけないと思ったのよ」

「はあ、そうかいな」


 シムルは大きくあくびをする。


「カグヤに永遠の命をもろてから、もう五十年超えとんねんで。二週間とちょっと、長いけどそんな寂しなるほどのもんでもないわ。それにわいにはこの目があるからなあ。カグヤほどちゃうけど、だいたいのもんは見えるし、寝るのは好きやし、久しぶりの一匹暮らし満喫しとったわ」


 カグヤは無言でシムルを抱きしめる。

 久しぶりに触れる毛は、しっとりと柔らかかった。その首元に顔をうずめる。


「シムル」

「なんや」

「……私は、どうしてしまったのかしら」


 シムルは顔をこちらに向けたようだ。カグヤの頬に、チクチクとひげが当たった。


「地上に降りて、ヒトの死を見たわ。悲しくて苦しいだけのものではなかった。何人かとも話したわ。それぞれが、一生懸命生きていた。そして色んなヒトを見て、私が認識してないヒト達もきっと、日々一生懸命生きてるのだと思えたの。人がいる世界も美しいと、そう思えたの。だからヒトを滅ぼそうなんて、もう思わないわ……シムル、あなたが言ったことは正しかった」


 シムルは黙ったまま、何も言わない。頬に触れるひげだけがピクリと動いた。


「人と関われば関わるほど、私の『心』が存在を主張する。今まで何とも思わなかったことに、心を揺さぶられる。まるで、ヒトと同じような感情を持ってしまったみたいに、心が痛むの。誰かのために何かしたいと思ってしまうし、拒絶されたことがとても辛いと思ってしまう」


 カグヤは柔らかな毛に顔をうずめたまま、シムルをぎゅっと抱きしめた。


「私は、まるで人になってしまったみたい。自分に帰る場所があることが、あなたが待っていてくれることが……自分が当然だと思っていたことが、崩れていくのが怖い」


 シムルは、何も言わずに聞いていた。

 きっと、カグヤの様子も見ていただろうから、起こったことは知っているのだろう。

 何と言われるか、わからない。

 今さらと呆れられるか、そんなこともわかっていなかったのかと失望されるのか。

 それとも、もう永遠の命はいらないと、カグヤの側から離れたいと、言うかもしれない。


 そんなカグヤの心の葛藤を知ってか知らずか、シムルは前を向いたようだ。

 頬のひげの感覚がなくなる。


「カグヤ、前にわいのひげ引っ張ったことあったやろ? それでわい、めっちゃ怒ったやん?」


 カグヤは無言で頷く。


「それで、ええんや。腹立つ時は怒って、悲しい時には泣けばええんや。嬉しい時には笑えばええ。だってな、カグヤ。カグヤが感情持ったらあかんって、誰が決めたんや? そないなこと、誰も決められへん。嬉しい思って何が悪いねん。悲しい思って、何が悪いんや」


 シムルの首元の毛が逆立ってきた。興奮しているようだ。


「カグヤがそういう特殊な力を持っとるから、わいが助かったんは自分でようわかっとる。けどな、それ抜きにしたら、カグヤはちょっとべっぴんな、普通の女の子や。ほんまはめっちゃ寂しがりで、優しい奴やってのは、わいはわかっとる」


 カグヤは顔を上げた。シムルはカグヤの顔を見ない。


「不安になっても、ちゃんと向き合えばええ。カグヤはそれを学んで、ちゃんと向きおうてたやんか。それで、ええんや。人の感情は変わっていくもんや。確かに悪い方にも変わるけど、良い方にも変わるんやから」


 そしてカグヤの顔を見上げた。黄金の瞳と目が合った。


「誰やって、怒りの感情ぶつけられたら怖い。カグヤが不安になるんもわかる。あの小僧がカグヤのこと信頼してたみたいに、カグヤも小僧のこと信頼してたんや。その信頼関係が揺らいで、他の事も不安になってしゃあないから、戻ってきたんやろ? でもな、カグヤはまだちゃんと小僧に言うとらんやんか。小僧の気持ちも大事にしたかったけど、それよりもばあちゃんの気持ちを大事にしたかったんやって。ただ謝るだけが向き合うことちゃうんや。なんで、自分がそないなことしたんか、ちゃんと言わなあかん」


 カグヤはシムルから目を逸らしながら言った。


「それでもし、受け入れてもらえなかったらどうしたらいいの……?」

「そん時はそん時や。潔く一歩引いたらええねん。自分にとっては大事なことも、相手にとっては違うことなんてざらにある。そういう時は分かり合えんもんや。だから、自分がやった側やったら謝って、一歩引けばええねん」

「そう……」

「でもな、カグヤ。今まで関わってきた人に、カグヤの価値観全否定する奴なんておったんか? おらんやろ? やから、きっと大丈夫や。それに、もしもあの坊主と分かり合えんかったとしても、わいはここでカグヤのこと待っとる。それだけは忘れたらあかんで」


 言われたことをゆっくりと飲み込んでから、カグヤはシムルをぎゅっと抱きしめ、再び首元に顔をうずめた。


「ありがとう、シムル……」

「おうよ」


 そうしてしばらく、シムルの柔らかく温かな毛に癒されることにする。

 シムルは嫌がらず、時折しっぽがパタリ、と揺れるのだけ感じていた。




「カグヤ」


 どれくらいそうしていただろうか。

 シムルが呼ぶ声に顔を上げた。


「地上ではもう一日経っとるで。そろそろ戻るか?」

「……ええ、そうね。そうするわ。ありがとう」


 シムルを離し、カグヤは窓の枠に立つ。


「もし、コウキと仲直り出来たら、いつか会ってくれるかしら?」

「まあ、気が向いたら。ねこは気まぐれなんや」

「そう」


 カグヤは思わず微笑んだ。気のない態度もまた、ねこの(さが)


「行ってくるわ」

「ああ、気いつけてな」


 そしてカグヤは地上に向かって飛び降りた。




 長く美しい黒髪が窓の外に消えるのを、シムルは見送った。

 石造りの窓のため、窓自体に奥行がある。シムルは軽やかに飛び上がると、外が見えやすい所に陣取る。


 五十年とちょっと前にカグヤに拾われてから、ずっと地上を見ているが、今回ほど詳しく見ようと思ったことはなかった。

 カグヤが葛藤しているのにも気づいていたし、その度ソワソワして部屋の中をうろうろしてしまった。

 シムルだけではこの部屋からは出られない。この世界の理の外にいる存在だから、窓にガラスがあるように、先に行けないのだ。

 今回だって、あの小僧の顔面に必殺ねこパンチを喰らわせたいと思ったのに、もどかしい思いをした。

 なんだかんだ、カグヤのことが大切なのだ。


 地上では一日経って、あの小僧は病院を退院して家に帰った後だった。

 退院までカグヤが来ないことを気にしているようだ。

 シムルはだいぶ前に気づいていた。だからもっと早くにカグヤを向かわせることはできた。


「ちょっとは自分のしたこと、後悔すればええんや」


 カグヤを不安にさせた罰である。

 そう思いながら、シムルはいつもの定位置から地上を眺め始めた。




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