雪に咲く紅
そのまま奥様は、床に就いたきりとなりました。旦那様は沈み込んだ面持ちで、
「どうして、知らせてくれなかった」
と呟かれ、私は俯いてお詫びするよりありませんでした。
「貴、方…八重さんを 叱、らないで…私が、うぅッ…――!」
ッ――ゼほ、ぅゥ…ゴホゴホゴホ…――ゼィ、ゼィ、ゼィゼェェェィ…――
「彩乃!」
言葉はそれきり、紡がれることはできませんでした。
一年以上もの無理がたたり、奥様は胸だけでなく心の臓までが蝕まれてしまったのです。
発作止めを使い過ぎ、心臓に穴が空いている。
そうお医者様はため息をつかれました。
心臓から逆流した血が肺に溜まり、咳が絶え間無くこみ上げ、気道を塞ぐ発作を引き起こされ、血に溺れる思いで喀血を繰り返す……
奥様は横になることも出来ず、日夜力無く咳き入り続けるばかりでした。眠ることさえできず、意識を手放せるのは、儚くも烈しい咳に失神した時だけ…。奥様の意識は混濁し、時の流れは曖昧になりました。
征司さまが咳き入り喀血を押し殺しながら絵筆を走らせ、そして最期まで逃れようとした、サナトリウムの白い小部屋。
主を失ったばかりの病室。
そこが奥様の終の住処となりました。
旦那様は奥様のために特注の寝台や調度を誂え、舶来の医療器具を取り寄せ、お仕事を投げ出して奥様を見舞ってくださいました。
必ず良くなるから、と励ます旦那様に、奥様は熱と喘ぎに咽びながらも離縁を申し出ました。
旦那様が叱りつけると、奥様ははらはらと涙にくれながら
「いいえ、私のことより、征司のことを…
あの子、本当に才能があるのです。ただ、胸が少し弱いだけで…
私の分まで、養生させて下さいませ、ね…」
旦那さまはその度に征司さまの後見を約束され、咳き咽ぶ奥様の背を擦り続けるのです。
征司さまはもう、いないのに。
季節は再び、お屋敷とサナトリウムを白く閉ざし始めました。
白い花の化生のような奥様が、旦那様に手を取られ、降りて来られたあの日のように。
たったひととせで、花は既に吹き散らされ踏みにじられて、しきりにしわぶきの花弁を散らすばかりでした。
ゼッ、ふゼふっゼッふゼフ…ッ、、ぐ、ッぅゥ―……ッ!ふゼフッ、
うッぅゥ…ゼィゼィゼィ――…ゼィゼィゼェェ…ッご、ゴボゴホゴホゴぼ…ッぐ…!うゥゥ……
胸を掻き毟るように押さえ、咽ぶように身をよじって咳き入る奥様の口元に、私は厚手の布を宛がいます。
ばたばた、ばた、、
赤い花弁が白布を染め、私はどうすることもできず、骨ばっていく背を擦るばかりでした。
奥様の命の欠片が散っていくというのに。
「ぐ、ッうぅゥ―……ッ!あ、あァ…ッう、ぐゥう…ぅ・・!」
ゼビュぅぅぅぅ――…ゼィゼィゼェェェ…、ゼゴ、ゼビュぅゥゥ――…っ、
病んだ血が気道を塞ぎ、ぜご、ぜびゅう、と肺が痙攣する音ばかりが響き…
「あ、あァ…っ、うゥ――…!ごホ,ぉッ…!」
ゼゴ、ゼボごッ、、
ばたばた、びしゃっ、、
まるで肺からの嘔吐のように、赤い華が白い部屋を染めました。
「彩乃!!」
奥様の咳が止まらない、喀血が続いている、との知らせを受けたのでしょう、駆け込んで来た旦那様が見たのは、喀血にくずおれていく奥様の姿でした。
「嫌…っ、」
奥様は微かに旦那様から身をそむけます。まるでやつれ血を吐く姿を恥らうかのように。
その仕草にさえも、奥様の胸は酷く爆ぜて
――ッぜほ、ゼぇェェ…ッ!うぁ―…ッ、
ゼビュぅぅゥゥ――…ッ、ゼェェェィゼィゼィゼィゼィ…
幾重にも綾を成した喘鳴が、儚い身を打ち据えました。とっさに抱きとめた旦那様の腕の中で、奥様は両の手で胸を押さえ、かは、げほ、と全身で喘がれます。
ゼひゅぉォォォ――、ぜぼっ、ゼヒぃぃィィ――、
胸をゼイゼイと鳴らすばかりの咳は、口からはいくばくも出て行かず、奥様の瞳からは窒息の苦しみにぼろぼろと涙が零れました。
胸からは濁った笛の音がなるばかりで、胸を塞ぐ病は微動だにせず、青ざめて力尽きそうになった途端
「うぅ――…ッゼぉ、ゼぼゴホッ…!!」
ぜひゅぅぅゥゥ――…ッゼぉォォォ――…ッ、、
柘榴が爆ぜるような音と共に、深く濁った喘鳴が溢れます。最早咳と呼ぶ余地の無い、病みきって尾を引く肺の音。
胸の痛みに、うぅ、うぐ、と咽び、旦那様の腕に縋りながら喘ぐ奥様。
ゼイゼイと必死に喘いで喘いで、破裂するような喘鳴と、胸を裏返す咳に襲われると、奥様は必死に口元を押さえ咳を殺そうとなさるのです。
「しっかり咳いて、血で窒息する、」
「い、いや…ッ、、ゥうぐ…――ッ!」
ゼぉンゼほゼホゼホゼホ…うゥ、ッぜほっ、ゼッ、、ゼッほゼッふゼフ…ッ、
背をさする旦那様に、奥様はいや、嫌、と魘されるように首を振り、ゼィゼィと喘ぎ続けます。
「うぅ―…っ!ぅ、え゛ほっ、ゼほぉッッ!! ぁッ…ぐうゥ…ぅ!」
努力も虚しく、ほとばしる咳が奥様の声を裏返しました。ぜふごふと弱々しくも濁り烈しい咳が肺を裏返し、嘔吐のような喀血がせり上がる度、奥様は涙と汗を流して必死で口を押さえます。
苦悶と羞恥になぶられ続ける、やつれた奥様の姿。それは艶めかしくさえありました。
「彩乃!」
「いいえ、こんな、に血を…ッ吐、いたら、ッ」
ゼぃッゼぃッゼぃッゼ…ゼフぅ、ゼふ、うゥ…っ…!!
――征司の絵を見届けられませんものーー
込み上げる血に途切れる言葉は、そう紡がれました。
しかし、咳は更に濁りを増し、
ゼぼっ、、ぉッ…!!
鮮やかなほどい赤い喀血が、崩れ落ちる奥様の腕を伝います。
「あやの…!!」
「奥様!!」
「あ、あぐ…ッ」
ぐらり、と奥様の身体が力を失い、夜着の袖が弧を描きました。
「この冬を越せるかどうか……」
旦那さまは悲痛なため息を吐かれ、意識を失った奥様の手を、祈るように握られました。
眠る奥様の目元には、病が色濃く縁取られ、黒真珠を抱いた貝の内側のように青褪めていました。
ゼィ、ゼェェェイ……
やつれ薄くなった胸からは、絶え間ない肺の悲鳴のような吐息が鳴り響き、その度に長い睫毛がうなされるように震え、旦那様はいたたまれずに目を伏せて、こう呟かれたのです。
「彩乃は、征司くんの下に逝きたいのかもしれない」




