situation.20 対峙
放課後、和田は誰よりも早く立ち上がると教室を飛び出して行った。彼が何をしているのかは知らないが、もう自分には関係ない。勝手にすればいい。ありさは柄のついた手鏡が鞄の中に入っている事を確認すると、美波と一緒にバイト先へと向かった。スタッフルームで着替え終わると、美波がトイレに向かったのをいい事に、手鏡を覗いてさりあの姿を確認する。
『大丈夫よ、ありさ。私がついているわ。怖くなったら何時でもこっちに逃げなさい』
「ありがとう。でも、本当に上手く撃退できるのかしら」
不安で何度もさりあに話しかけてしまう。
『出来るから安心して見ていて。じゃあ、また後でね』
さりあがウインクを投げかけると、通常の反射する鏡に戻った。大丈夫。怖くなんかない。もう一人の自分に、代理に任せていればいいんだ。ありさはお守り替わりに手鏡をエプロンに忍ばせると、ホールへと出向いた。怯え続ける暮らしとはこれでおさらばだ。ストーカーの正体さえ突き止めてしまえば、いくらでも対処法は考えられるだろう。正体がわからないから怖いのだ。今日こそ暴いてやる。ありさは外に睨みを効かせながらレジカウンターの前に立った。不安を煽るかのようにどんよりとした雲が空一面を覆っている。
今日の営業時間が終り、各自片付けに入る。ありさがテーブルを拭いている所でさりあと目が合った。大きな姿鏡越しに笑いかけている。この光景は自分以外の人間にも見えているのだろうか。ふと疑問に思って他のスタッフの姿を探す。皆早く片付けて帰ろうと忙しなく作業をしていた。
さりあを確認してもらうのは無意味か。ありさは視線を感じて背を向けた。もし自分だけにしか見えない幻だとしたら、他人には決して見えない。それに今までの出来事は全て幻だったのかもしれない。自分の生み出した幻覚。だったら自分はおかしくなってしまったのか。例えさりあの正体が幻覚だったとしても、ありさはその幻にすら縋り付きたい思いだった。
美波が停車駅で降りた後、ありさも最寄り駅のホームへと降り立った。鏡を握り締めながら改札をくぐる。一歩外に出ると、そこは暗闇の世界だった。住宅の明かりが乏しく点在し、ありさは鏡の中でもこのような感覚に陥ったのだと直感した。それは恐怖以外の何者でもない。空虚。失望。闇はその全てを携えているような存在に思われた。本能的に足が竦む。この先にストーカーと言う名の恐怖がそびえ立っているのだ。
『ありさ、確実に奴が現れたら交代して頂戴』
遠慮がちにさりあが声をかける。手鏡に写った自分は少し青白い光を放っていた。
「わかった。でも、さりあはどうやって退治するつもりなの?」
ありさの問いにさりあは自信満々に答えた。
『私、実は剣道を習っていたの。こう見えても三段よ、すごいでしょ。だから一刀両断にしてやるわ』
竹刀を持つ振りをして構える。いつの間に剣術を身に付けたのだろうか。ありさは曖昧に頷くと駅から歩き始めた。荷物をしっかりと抱え、すぐ交代できるように手鏡の柄を握りしめる。
かつん、かつん、かつん。
…………かつ、かつ、かつ。
遠くの方で足音が聞こえた。例のストーカーだろうか。ありさは唾を飲み込むと歩くスピードを早めた。
かつ、かつ、かつ、かつ。
かっ、かっ、かっ、かっ。
間違いない。それに足音も大きくなってきている。自分に近付いて来ている。ありさは息を切らしながら、必死に振り返るタイミングを伺った。…………今だ!
「避けろ、渡辺!」
いきなり路地裏から何者かが飛び出してきたかと思うと、手にしていた竹刀で相手の振りかざした傘を見事に受け止めた。ばしっと竹刀特有の音が響く。
「きゃっ」
その突拍子もない登場の仕方に驚き、よろめいて尻餅を付く。竹刀を構えた和田知裕が目の前に立っていた。
「和田! どうしてあんたがここに」
「渡辺、逃げろ! こいつは只者じゃない!」
和田が相手との間合いを取りながら指示した。
「へぇ、今度は最後まで付いてこられたんだね」
男が先の固そうな黒い傘を器用に振り回している。
「お前……やっぱりあの時の男か」
ありさは男の正体を暴いてやろうと目を凝らした。帽子を深く被っているため顔は判別出来ないが、ポケットからカラフルなストラップが飛び出している。ポールスミスだ。瞬時にホットコーヒーとサンドイッチを頼む彼の顔が浮かんだ。
「この人、うちの常連客の一人だわ」
「いつもコーヒーとサンドイッチ頼む奴だよな。でも店にいた時とは様子が違う。もしかしてこいつ、二重人格って奴か?」
和田が額の汗を拭った。声からして、手足も震えているのが容易に想像出来た。頼りになりそうもない。
ありさは手の平に刺さるコンクリートの感触で、手鏡を持っていない事に気付いた。和田が現れた際に落としてしまったのだ。鏡がなくてはさりあと交代出来ない。慌てて周囲を見回す。
「何してんだよ、早く逃げろって」
和田が痺れを切らして振り返った。その隙を男が見逃さず、手にしていた傘を和田目掛けて振り落とす。
「危ない!」
ありさが叫んだのも虚しく、和田が低い唸り声と共によろけた。頭を直撃したらしく、後頭部を押さえつけながら前のめりに倒れる。
「和田っ!」
嘘、あんなにあっさりやられちゃうなんて。男がありさの視界を捕らえた。やばい、殺される。
「好きだ、渡辺ありさ」
低い男の声で告白を受ける。ありさは泣きながら声にもならない悲鳴で後退った。腰が抜けて立ち上がれない。
「やっ……!」
がむしゃらに手元を探り続ける。やがて左手が固い何かを探り当てると、世界が大きく反転してありさは鏡の世界に引きずり込まれた。そのまま意識が急降下していく。




