一話
扉の前で男はコートのポケットを弄った。
かじかんだ指先が鍵を弾き、それがキーホルダーを擦る。
甲高いその金属音に、ふと昔行った海を思い出した。
……海で死ぬのも良いかもしれない。
その男、鴨居は鍵を捻りながら考えた。
「ただいま」
玄関で靴を脱ぎながら、鴨居は部屋に向かって呼びかけた。
廊下と部屋を仕切るドアのすりガラスから見える室内は暗い。
鴨居はドアをゆっくり開く。
キィと小さく響いた先には、明かりがつけられていない薄暗い、殺風景な部屋。
置いてあるシンプルなベッドの上には影が一つ。
「……寝てた?」
鴨居は影に問いかける。
「いやぁ? 寧ろ起きてた。」
鴨居が、パチンとスイッチをつけると部屋が明るくなる。
姿を現した影は、あどけない黒髪の少年で、鴨居に「おかえり」と言いながら体を伸ばしていた。
「今日、遅かったな」
ふぅ、と体勢を整えながら少年は言う。
「会社でちょっと。待たせて悪いね」
鴨居は部屋の真ん中にあるテーブルに、持っていたコンビニの袋と鞄を置く。
少年は、力なく置かれたそれを一瞥した。
「とりあえず風呂入ってこいよ」
「まだそこまでだと思うんだけど、くさかったり?」
鴨居は自分の背広の臭いをクンクン嗅いだ。
「違くて。お前鏡見たことある? ぐったりした顔しやがって。いくら俺が捕食者だって、今のお前みたいなの獲物にしたら、いじめてるみたいだろうが」
「注文の多い吸血鬼だなぁ」
「ハイハイ、それでいいから。さっさと風呂入ってこいや」
少年は、その細足で鴨居をげしげし蹴って風呂に促した。
当の鴨居は渋々と言った様子で、力なく笑いながら風呂場に向かう。
その少しだけ、猫背気味の背中を見届けた少年は、立てた片足に肘をついた。
「俺もなかなかだが、鴨居は年齢以上にジジイだな」
少年は、ため息をついた。
***
――数ヶ月前のある日。
玄関前で見知らぬ十代前半といった少年が、息をあららげながら言った。
「悪い鴨居、俺もよくわからないんだが、助けてくれ」
表情が乏しいことに定評のある鴨居でも、その状況には狼狽した。
半ば無理やり家に入ってきた少年の話を聞けば、自分は幼馴染の荒野であると言う。
鴨居は久しぶりに聞いたその名前と同時に、最後に見た彼の姿を思い出した。
(確かに黒髪だったけど、荒野は同い年だったはずだぞ)
小学校から高校まで、なんだかんだ鴨居と一緒だった荒野と言う男は、いわゆる陽キャという人種だった。
だが、自分のような暗めの人間にも分け隔てなく接する良い男だったと思い返す。
鴨居は腕を組み、目の前の少年を見た。
明らかにサイズが大きい、まるで入院患者が着る様な服を着ている。
――とりあえず、それは置いておく。
確かに自称するだけあって少年の容姿は、薄らと記憶にある荒野の姿に似ていた。
黒の短髪、切れ長の黒目。
ぼやっとした記憶の中にあった、ほくろの場所も合っているかもしれない。
しかしそれも、年齢が違う。の一言で別人だと断言できた。
(辛うじて最後に見たのは、数年前の年賀状の写真だったか?)
あまりにも希薄な自分の交友関係に顔を覆った。
うんうん唸りながら、搾り出した鴨居の言葉は。
「……お父さん、元気?」
言った瞬間、少年は細足で鴨居を蹴った。
痛くもないのに、反射的に「痛っ」と声を上げた鴨居は、そういえば荒野は気安い人間には、よく突っ込み混じりに手を出していたという事を思い出した。




