ずっと、これからは……
放課後の図書室。窓から差し込む夕日は、あの夢の中の警告灯よりもずっと優しく、教室の埃を黄金色に輝かせていた。
「ねえ、陽太くん。また寝てるでしょ?」
耳元で聞こえる、少し呆れたような、でもどこか嬉しそうな声。陽太がまどろみから視界を開けると、そこには教科書で顔を隠しながらこちらを覗き込むヒナタの顔があった。
「……寝てない。……考えてただけだ」
「はいはい。またあのゲームのこと? もうそのゲームのソフト、陽太くん自分でゴミ箱に捨てたじゃん」
ヒナタがクスクスと笑う。陽太は気まずそうに目を逸らし、机の上に置かれた半分このメロンパンに視線を落とした。
あの夢の中で、紫音が命を懸けて守り抜いた「日常」。それは、今こうしてヒナタとメロンパンを半分こし、他愛のない冗談を言い合う、何でもない時間のことだった。
「……時々、思い出すんだ。……自分じゃない誰かの、すごく暗くて、すごく甘い夢を」
陽太が独り言のように呟くと、ヒナタは少しだけ表情を真剣にした。彼女は陽太の隣に座り込み、その肩に自分の頭をそっと預けた。
「……私もね、たまに夢を見るよ。陽太くんが、どこか遠くで誰かに囲まれて、息もできなくなるくらい大切にされてる夢」
「……ヒナタ?」
「でもね、そんなのダメだから。陽太くんは、私がいなきゃ本当ダメダメで私がいないとすぐ図書室で死んだ魚の目になるんだもん。……だから、私が必ず迎えに行くの」
ヒナタはそう言って、自分の鞄についている「猫のチャーム」を、陽太の鞄についているものとカチリとぶつけた。
「このストラップが、私たちが『現実』にいる証拠だよ。……何があっても、陽太くんはここから動いちゃダメだからね」
「……ああ。……どこにも行かないよ」
陽太は、ヒナタの手を握りしめた。その掌は、夢の中で触れたどの冷たい金属や、支配的な熱よりも、ずっと温かく、頼りなかった。
彼女は、自分を「神様」として崇めたりはしない。陽太のダメなところを笑い、叱り、時に無理やりメロンパンを押し付け、泥臭い現実を一緒に歩いてくれる。
もし、あの「Ifの世界」の紫音が、五人の少女たちとの歪な楽園の中で、最期に願ったことが「人間としての自由」だったのだとしたら。
今、陽太が噛み締めているこの平凡な一時は、彼が命を懸けて辿り着いた、唯一無二の正解なのだ。
「……ねえ、陽太くん。今度の休み、映画行こうよ。……あ、でも陽太くんのことだから、どうせまた『現実の人間関係は理解不能だ』とか言って渋るんでしょ?」
「……それは……」
「ダメ。強制連行。……陽太くんが一人になりたいって言っても、私がその分、二倍喋ってやるから!」
ヒナタが、屈託のない笑顔で笑う。
図書室の扉が開き、生徒たちが帰る気配が聞こえる。陽太は、自分の鞄に揺れる猫のチャームを握りしめ、小さく笑った。もう、支配されることも、救済を求めることもない。
「……分かったよ。……行くよ、ヒナタ」
「よろしい! じゃあ、帰りにまたメロンパン買っていこ。今度は私が奢ってあげる!」
夕焼けの廊下を歩く二人の影が、長く、一つに重なって伸びていく。それは、どんな運命のダイスよりも確かな、二人が共に歩む「続き」の始まりだった。
◇◆◇
図書室の窓からは、一日を終えた太陽が、世界を琥珀色に染め上げていた。舞い上がる埃さえもが、まるで二人を祝福する金粉のように揺らめいている。
「ねえ、陽太くん」
ヒナタが、ふと呼びかけた。
先ほどまで映画の話をしていた彼女は、今は少しだけ大人びた、切実な眼差しで陽太を見つめていた。
「……ん?」
陽太が視線を向けると、ヒナタは少しだけ頬を染め、所在なげに猫のチャームを弄んだ。
「さっきから、映画の話ばっかりしちゃってるけどさ。……実は、今日という日が、私にとってはすっごく特別な日なんだ」
「特別な日……? 今日は、何かの記念日か?」
首を傾げる陽太に、ヒナタは「もう!」と小さく膨れて、けれどすぐに、とろけるような笑顔を向けた。
「あのね、今日でちょうど一年なんだよ。……陽太くんが私を、初めて『面白い奴だな』って笑ってくれた日から。初めて恋したあの日から!」
陽太は、息を呑んだ。
そんな些細な記憶まで、彼女は大切に仕舞い込んでいたのか。
「……ごめん。僕は全然……」
「いいよ。陽太くんはそういう人だもん。……でもね、私にとっては、その一言が、陽太くんと私の全てを動かしたの。……ずっと、言いたかったこと、言ってもいい?」
ヒナタが、ゆっくりと陽太に近づく。
彼女の髪から漂う、わずかなメロンパンの甘い香りと、シャンプーの香り、夕風の匂い。陽太は、鼓動が耳元で激しく鳴り響くのを感じた。
「……陽太くん。……私のこと、ちゃんと見ててくれる?」
ヒナタの指先が、陽太のネクタイをそっと掴む。陽太は何も言えず、ただ彼女の瞳を見つめ返すことしかできなかった。そこには、かつてのゲームのヒロインたちが持っていた「狂気」も「設定」も存在しない。あるのは、一人の少女が、同じ時間を生きる一人の少年に向ける、無垢で純粋な「今」だけだった。
ヒナタが、ゆっくりと背伸びをする。
重なった吐息は、夕暮れよりも熱く、そして何よりも切なかった。触れ合う唇は、図書室の静寂を吸い込むように、淡く、溶けるほどに柔らかかった。
それは、暴力的な所有でも、一方的な崇拝でもない。互いの孤独を癒し、明日へ歩むための、ささやかな誓い。
陽太の腕の中で、ヒナタの身体が小さく震える。それは、彼女が夢にまで見た、けれど現実の陽太くんでしかありえなかった、確かな温度だった。
キスは短く、けれど永遠のように長かった。離れた唇から、ヒナタが少しだけ上気した顔で、幸せそうに微笑む。
「……ねえ、陽太くん。……今の、夢じゃないよね?」
「……夢じゃないよ。……現実だ」
陽太は、ヒナタの背中に手を回し、二度と離さないように強く抱きしめた。
窓の外では、夜の帳が静かに降り始めている。かつて彼が辿った、あまりに過酷で、美しすぎた「運命のセレナーデ」は、もうどこにもない。
あるのは、今日という平凡な一日を、明日という未知へ繋いでいく、二人のための静かな調べだけ。
陽太は、ヒナタの肩に顔を埋め、小さく呟いた。
「……愛してる。……僕の世界で、一番大切な現実」
図書室の時計が、静かに時を刻む。
二人の影は重なり合い、夕闇の中に溶けていった。
それが、春野陽太と暁月ヒナタが、ようやく手に入れた、傷つくことのない「終わりなき始まり」であり、「始まりを知らない終わりを解いた」物語だった。




