第8話
放課後の旧校舎裏。ここはかつて、冷泉トオルの取り巻きたちが、僕を物理的に排除しようとした場所だ。
デジャヴのような光景。だが、目の前に立つ男は、冷泉のような知略の怪物などではなかった。
「……へえ、ここが冷泉が仕掛けた場所か。湿っぽくて、陰気臭えツラしたお前にはお似合いだな」
鬼灯ヤマト。
スカジャンを羽織り、野生動物のような鋭い眼光を放つ男が、僕の行く手を塞いでいた。
「鬼灯……。何の用だ」
「用? 決まってるだろ。俺は冷泉みたいに、チマチマした策草は弄さねえ。力で奪って、力でねじ伏せる。……まずは、お前を地獄に引きずり込んで、その澄ましたツラを拝ませてもらうぜ」
ヤマトが動く。
速い。前世の知識も、僕の運動神経も、彼の圧倒的な「暴力」の前には無力だった。
(……くそっ!)
直撃を覚悟した、その瞬間。
「――紫音くんに、触るな……ッ!!」
悲鳴のような叫びと共に、横から琴音が飛び出してきた。彼女の手には、あの果物ナイフが握られている。
「……あ?」
ヤマトが、眉をひそめる。
「紫音くんを傷つけるゴミは、私が、私が殺すの……ッ!」
琴音が、ヤマトの首元を目掛けてナイフを突き出す。NTRルートを回避するために、僕は彼女を「僕だけを信じる怪物」に変えてしまった。
彼女の狂気的な愛は、僕を守るためなら、自らの手を汚すことに躊躇がない。
――だが、鬼灯ヤマトは、冷泉トオルとは違った。
「……五月蝿え女だな」
ヤマトは、琴音のナイフを微塵も恐れることなく、逆に彼女の腕を掴み取った。
「――っ!?」
「俺は、女だからって手加減はしねえ。……特に、俺の獲物に手を出そうとする奴は、性別関係なく、蹂躙するだけだ」
ヤマトの瞳に、剥き出しの殺意が灯る。
彼は琴音の腕を力任せに捻り上げ、そのまま彼女の腹部に、えげつない膝蹴りを叩き込んだ。
「あぐっ……!?」
琴音が、苦悶の声と共に、地面に崩れ落ちる。ナイフが手から転がり落ちる。
「琴音……ッ!!」
「……あはは。次は、その生意気なツラを、ぐちゃぐちゃにしてやるよ」
ヤマトは、地面に這いつくばる琴音の髪を掴み上げると、容赦なく彼女の顔面に拳を叩きつけた。
――鈍い音。
琴音の美しい顔が、歪む。口から血が滲む。暴力。ただ、圧倒的な暴力。冷泉のような知的な駆け引きなど、ここには存在しない。
「……やめろ! 鬼灯! 彼女は関係ない!」
僕はヤマトに掴みかかろうとしたが、彼の取り巻きたちに押さえつけられた。
「……紫音、くん……。ごめん、ね。私、守れな、かった……」
琴音が、血を流しながら、僕を見て力なく微笑む。その瞳には、絶望と……そして、僕への、逃れられない狂気的な愛が宿っていた。
「……さあ、朝霧紫音。次は、お前だ」
ヤマトが、琴音を投げ捨て、僕に向かって歩き出す。
窮地。孤立無援。
――だが、その時。
「――そこまでだよ。紫音の彼女に手を出そうなんて、いい度胸してるね」
凛とした声が、蹂躙の現場を切り裂いた。
ヤマトの拳が、僕の顔面に届く直前。横から飛んできた、鋼のような鋭い蹴りが、ヤマトの腕を弾き飛ばした。
「――っ!? 誰だ!」
ヤマトが、腕を抑えながら、睨みつける。
「瀬戸内レナ。……空手部の主将として、学園の秩序を乱す暴力は、見過ごせないわ」
西日に照らされ、ショートカットの少女が、凛とした立ち姿で立っていた。レナ。彼女の瞳には、かつての尊敬と憧憬ではなく、僕を守るという、揺るぎない「覚悟」が宿っていた。
「レナ……。危ないから下がって」
「朝霧先輩。……先輩は、私が守るって決めたんです。……先輩が、私を信じてくれたから。今度は、私が、先輩の『心の強さ』に敵うくらいの、『力』を見せる番です!」
レナが、道着の裾を翻し、ヤマトに向かって構えを取る。その姿は、かつての僕を救ってくれた「騎士様」のようでもあり、そして何より、圧倒的な「強者のオーラ」を纏っていた。
「……へえ。女にしては、いい蹴りだな」
ヤマトが、不敵な笑みを浮かべる。
「瀬戸内レナ。……お前を蹂躙するのも、面白そうじゃねえか」
だがそう簡単じゃない。
鬱ルートを回避した先に待っていたのは、僕を奪い合う少女たちの戦場だったのだ。
僕は、レナが僕をガッシリと抱きしめる感触に、新たな戦乱の予兆を感じずにはいられなかった。
「……先輩、離しませんよ? 私が、一番近くで守るって決めたんですから」
◇◆◇
「女だからって手加減はしねえ」
その宣言通り、ヤマトの攻撃には一切の躊躇がなかった。旧校舎裏の砂埃を巻き上げ、獣のような突進がレナを襲う。
「――せいッ!!」
レナの気合が、空気を切り裂いた。彼女はヤマトの突進を紙一重でかわすと、その勢いを利用して、軸足に鋭いローキックを叩き込んだ。
「……あ?」
ヤマトの動きが、僅かに止まる。ボクシングのような荒々しい殴り合いを予期していた彼は、レナの正確無比な武道の技術に、意表を突かれたようだった。
「先輩を守るって……決めたんですッ!」
レナが跳躍する。
空手道着の裾が風を孕み、彼女のしなやかな体が、空中を舞った。
上段後ろ回し蹴り。その鋼のような鉄脚が、ヤマトの側頭部に直撃した。
「――ぐっ!?」
ヤマトが、大きくよろめく。
圧倒的な暴力の権化であった彼が、初めて「効く」打撃を受けた瞬間だった。
(……すごい。レナ……!)
僕は、取り巻きたちに押さえつけられながら、レナの奮闘に目を奪われていた。
正規ルートでは、紫音を物理的に守ってくれる存在など、誰もいなかった。
けれど、この世界では、僕を守るために、自らの身を挺して戦ってくれるヒロインがいる。
――だが、鬼灯ヤマトは、一度の打撃で沈むような男ではなかった。
「……へえ。いい蹴りだな。女にしては……上出来だ」
ヤマトが、口元の血を拭い、不敵な笑みを浮かべる。その瞳には、かつての蹂躙の愉悦ではなく、強者に対する剥き出しの闘志が灯っていた。
「……今度は、俺の番だ」
ヤマトが動く。
先ほどよりも、速い。そして、重い。彼はレナの懐に飛び込むと、武道の技術など無視した、圧倒的な膂力による拳を叩きつけた。
「――っ!?」
レナが、腕を交差させてガードする。
だが、ヤマトの拳は、彼女のガードごと、その体を吹き飛ばした。
「……レナッ!!」
レナが、地面に激しく叩きつけられる。
道着が土に汚れ、ショートカットの髪が乱れる。
「……まだまだぁッ!!」
レナが、痛みに耐えながら、這い上がる。
彼女の瞳には、かつての尊敬と憧憬ではなく、僕を守るという、揺るぎない「覚悟」が宿っていた。
蹂躙。ただ、圧倒的な蹂躙。
レナは、ヤマトの拳を何度も受けながら、必死に食い下がった。彼女の拳が、ヤマトの顔面を捉える。彼女の蹴りが、ヤマトの腹部を抉る。
奮闘。鋼の矜持。
レナは、ボロボロになりながらも、決して諦めなかった。
――だが、限界は訪れた。
「……そこまでだな」
ヤマトが、レナの蹴りを受け止め、そのまま彼女を地面に投げ捨てた。
レナは、意識を失い、力なく崩れ落ちた。
「……レナ……ッ!!」
僕は、取り巻きたちを振りほどき、レナのもとへ駆け寄った。彼女の体は、傷だらけで、息も絶え絶えだった。
「……朝霧先輩。……ごめん、なさい。……守れな、かった……」
レナが、僕を見て力なく微笑む。その瞳には、絶望と……そして、僕への、逃れられない狂気的な愛が宿っていた。
「……瀬戸内レナ。……お前、面白えじゃねえか」
ヤマトが、レナを見下ろし、不敵な笑みを浮かべる。
「……次は、もっともっと『殺意』を込めてかかってこい。……そうじゃねえと、蹂躙する甲斐がねえからな」
ヤマトは、それだけ言うと、取り巻きを引き連れて去っていった。
旧校舎裏の喧騒が去り、静寂が戻った。
僕は、レナを抱き抱えながら、その傷だらけの顔を見つめていた。
「……レナ。大丈夫か?」
「……朝霧先輩。……私、強かったですか? ……先輩を守る、『盾』に……なれましたか?」
レナが、僕の腕の中で、掠れた声で問う。
「……ああ。すごかったよ。君のおかげで、僕は助かった」
「……えへへ。嬉しい……。……先輩に、褒められちゃった……」
レナが、幸せそうに微笑む。
その時。
「……紫音くん。……レナちゃんを、離して」
冷え切った声。
いつの間にか、琴音がそこに立っていた。
彼女の美しい顔は、ヤマトに殴られた痕でぐちゃぐちゃになっていた。けれど、その瞳には、かつての漆黒の独占欲ではなく、どこか凛とした「覚悟」が灯っていた。
「琴音……。君も、大丈夫か?」
「……大丈夫。アイリちゃんが、手当てしてくれたから。……それよりも、紫音くん。……レナちゃんを、私に預けて」
琴音が、レナのもとへ歩み寄る。
「……レナちゃん。……君、すごいね。……紫音くんを守るために、あんなにボロボロになって……」
「……水瀬さん。……君こそ、大丈夫? ……あいつに、殴られて……」
レナが、琴音を見て、気遣わしげに問う。
「……ええ。痛かったけど……でも、君の戦いを見てたら、痛いのなんて忘れちゃった。……君は、紫音くんを守る、『盾』。……私は、紫音くんを愛する、『心』。……今度こそ二人がいれば、紫音くんは完璧に守られるでしょ?」
琴音が、レナの手を握る。
その手は、かつての敵対心などなかった。
「……ええ。そうですね。……私たちで、先輩を守りましょう。……誰にも、奪わせないように」
レナが、琴音の手を握り返す。
鋼の乙女と、狂気の幼馴染。異なる歪みを持つ二人の少女の間に、僕という存在を「守る」という、新たな絆が芽生えた瞬間だった。
「……朝霧くん。水瀬さんのバイタルは安定したわ。……瀬戸内さんも、命に別状はないわね」
アイリが、タブレットを手に歩み寄る。彼女の瞳には、かつての潔癖な管理欲ではなく、目的のためなら手段を選ばない「狂信者」の光が宿っていた。
「……図書委員。あなたも、朝霧くんに関するデータのバックアップ、完璧だったわ。……冷泉の謝罪文の拡散も、迅速で上出来よ」
「……は、はい。アイリさん。……朝霧くんのためなら、私……何でもできますから」
リュカが、僕の後ろからおずおずと姿を現す。彼女の瞳には、内気な少女の秘めたる恋心が宿っていた。




