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音の降る場所

 どこかに行こう。そう思った。


 その思いは、まだ形にならない震えのように、ぼくの中でかすかに鳴っていた。


 ぼくには足がない。羽もない。流れることはできても、自分の意志で進むことはできない。


 ぼくは、音だった。


 正確には、まだ誰にも聴かれていない音だった。


 空気の奥、目にも見えない揺らぎの中で、ぼくは生まれた。何かが触れ合った瞬間に、ほんの一瞬だけ現れる振動。その余韻のようなものが、ぼくだ。


 けれど、ぼくはまだ誰の耳にも届いていない。


 だから、ぼくは存在しているのかどうかも、あいまいだった。


 ただ、ある、という感覚だけがある。


 それでも、ぼくは思った。


 どこかへ行きたい、と。


 それは、誰かに届きたい、という願いに似ていた。


 ぼくは、空気の流れに乗って、ゆっくりと漂う。


 見えない波のように、壁をかすめ、床をなぞり、天井へと広がる。


 そこは、暗い部屋だった。


 窓は閉ざされ、光はほとんど入ってこない。


 けれど、静寂ではなかった。


 いくつもの音が、そこにいた。


 小さく鳴る機械の音。


 遠くから聞こえる車の音。


 どこかで揺れる何かの、かすかなきしみ。


 それらはすべて、すでに誰かに届いた音たちだった。


 ぼくは、その中に混じろうとした。


 けれど、うまくいかなかった。


 ぼくは弱すぎる。


 他の音にかき消されて、形を保つことができない。


「新入りかい」


 低く、丸い音がした。


 それは、古い木のきしみのような響きだった。


「……うん」


 ぼくは、どうにか返す。


「まだ、誰にも聴かれてないんだね」


「そうみたい」


 木の音は、ゆっくりと揺れた。


「じゃあ、ここにいるのはつらいだろう」


 その言葉は、やさしかった。


 ぼくは、少しだけ沈んだ。


「どうすれば、届くのかな」


 問いは、自然にこぼれた。


 木の音は、しばらく黙っていた。


「強くなればいい」


「強く?」


「そう。はっきりとした形を持てば、消えにくくなる」


 ぼくは、自分を見つめる。


 けれど、ぼくは形を持たない。


「どうやって?」


「繰り返すんだよ」


 木の音は言った。


「同じ揺れを、何度も」


 ぼくは試してみた。


 同じ震えを、何度も、何度も。


 けれど、うまくいかない。


 ぼくはすぐにほどけてしまう。


「……できない」


「最初はね」


 木の音は、変わらず穏やかだった。


「でも、きみはもう思ってる」


「何を?」


「どこかへ行きたいって」


 その言葉に、ぼくは少しだけ震えた。


 それは、確かにぼくの中にある。


「それがあれば、きっと形になる」


 ぼくは、もう一度試した。


 どこかへ行きたい。


 誰かに届きたい。


 その思いを、震えに乗せる。


 すると、ほんのわずかに、ぼくの輪郭がはっきりした気がした。


「いいね」


 木の音が、わずかに深く鳴る。


「その調子だ」


 ぼくは続けた。


 震える。


 繰り返す。


 少しずつ、少しずつ。


 ぼくは、自分が強くなっていくのを感じた。


 そのときだった。


 扉が開く音がした。


 外の空気が流れ込む。


 それは、今までとは違う流れだった。


「行くかい」


 木の音が言う。


 ぼくは、迷わなかった。


「うん」


 風に乗る。


 外へ。


 世界は、広かった。


 いくつもの音が、交差している。


 人の声。


 靴の音。


 遠くのサイレン。


 それらすべてが、誰かに届いている。


 ぼくは、その中を進む。


 まだ弱いけれど、消えないように、形を保ちながら。


 やがて、ぼくはある場所にたどり着いた。


 それは、小さな公園だった。


 夜で、ほとんど誰もいない。


 ただ、一人だけ、ベンチに座っている影があった。


 その人は、うつむいていた。


 何もしていない。


 ただ、そこにいる。


 ぼくは、なぜかその人に引き寄せられた。


 近づく。


 そっと、触れる。


 ぼくは、震えた。


 ほんの小さな音として。


 それは、ほとんど聞こえないほどの、かすかな音だった。


 けれど。


 その人の肩が、わずかに動いた。


 顔が上がる。


 耳が、こちらに向く。


 ぼくは、もう一度震えた。


 今度は、少しだけ強く。


 その人は、周りを見渡す。


 誰もいない。


 それでも、何かを感じたように、空を見上げた。


 ぼくは、その瞬間、はじめて理解した。


 届いたのだ。


 ぼくは、誰かに届いた。


 それは、とても小さな出来事だった。


 けれど、ぼくにとっては、世界が変わるほどのことだった。


 その人は、しばらく空を見上げていた。


 やがて、ゆっくりと立ち上がる。


 そして、歩き出した。


 さっきよりも、少しだけ軽い足取りで。


 ぼくは、そのあとを追うことはできなかった。


 ぼくは、そこでほどけていく。


 形が崩れ、また空気に溶けていく。


 けれど、もう怖くなかった。


 ぼくは、確かにそこにいた。


 誰かに触れた。


 それで、十分だった。


 ほどけながら、ぼくは思う。


 どこかに行こう。そう思った。


 その思いは、もう、ただの震えではなかった。


 次に生まれるとき、ぼくはまた、どこかへ行くだろう。


 そして、また誰かに届く。


 音は、そうやって、世界を渡っていくのだから。

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