しっぽで測る遠い空
どこかに行こう。そう思った。
そう思ったのは、まだ冬の匂いが森に残っている朝だった。地面は固く、霜が葉の上で小さく光っている。木々の間をすり抜ける風は冷たく、息を吐くと白くなる。
ぼくは一匹の狐だった。
この森で生まれ、この森で育った。狩りの仕方も、隠れ場所も、危険の匂いも、すべて知っている。知っているはずだった。
それでも、最近は何かが違っていた。
同じ道を歩いても、同じ匂いを嗅いでも、胸の奥に小さな違和感が残る。それは空腹とは違うし、恐れとも違う。
しいて言えば、“足りない”という感覚だった。
何が足りないのかは、わからない。
けれど、それを探しに行かなければならない気がした。
ぼくは巣穴の前に立ち、振り返った。
暗くて、暖かくて、安心できる場所。
でも、そこに戻る自分を思い浮かべたとき、なぜか少しだけ息苦しくなった。
だから、歩き出した。
森の奥へではなく、外へ向かって。
森の境界には、大きな倒木がある。その向こうは、あまり近づいてはいけない場所だと教えられてきた。
理由は、知らない。
ただ、「危ないから」とだけ。
ぼくはその倒木の前で立ち止まった。
鼻をひくつかせる。
知らない匂いがする。
乾いた土の匂い。遠くの水の匂い。森にはない、広がった空気の匂い。
「行くのかい」
声がした。
横を見ると、古い亀がいた。甲羅には苔が生え、長い時間を生きてきたことがわかる。
「うん」
ぼくは答えた。
「どこへ?」
「わからない」
亀はゆっくりと瞬きをした。
「それは、いいね」
「いいの?」
「行き先が決まっている旅は、ただの移動だよ」
亀はそう言って、小さく笑った。
「気をつけるんだ。外は広い」
「うん」
「そして、広いものは、やさしいだけじゃない」
その言葉を胸に、ぼくは倒木を越えた。
そこから先は、まるで別の世界だった。
木はまばらになり、空が大きく見える。風は強く、匂いが混ざり合っている。
足元の土も違う。柔らかく、時々沈む。
ぼくは一歩一歩、確かめるように進んだ。
やがて、小さな川に出た。
森の中の川よりも広く、水の流れが速い。
どうやって渡ろうかと考えていると、上から声がした。
「跳べばいいよ」
見上げると、一羽の鳥が枝にとまっていた。
白い羽に、黒い縁取り。鋭い目をしている。
「落ちたら?」
「泳げばいい」
鳥はあっさりと言う。
「できないなら、覚えるしかない」
ぼくは少し考えた。
森では、危ないことは避けるのが当たり前だった。
でも、ここでは違うのかもしれない。
ぼくは後ろに下がり、助走をつけた。
跳ぶ。
一瞬、空に浮く。
次の瞬間、前足が岸に届いた。
だが、後ろ足が滑る。
体が傾く。
水に落ちた。
冷たい。
流れが強い。
息が詰まる。
もがく。
足を動かす。
必死に。
やがて、なんとか岸にたどり着いた。
全身が濡れて、震えが止まらない。
「ほら、できた」
鳥が言う。
ぼくは息を切らしながら、顔を上げた。
「……怖かった」
「うん」
「でも、ちょっとだけ」
言葉を探す。
「ちょっとだけ、楽しかった」
鳥は満足そうに頷いた。
「それが外の世界だよ」
ぼくは体を振って水を飛ばした。
心臓はまだ速く打っている。
でも、その音は嫌じゃなかった。
それから、ぼくは歩き続けた。
草原を抜け、小さな丘を越え、知らない動物たちの匂いを追い、時には逃げた。
夜になると、空には無数の星が広がった。
森の中では見えなかった光。
ぼくはその下で丸くなり、眠った。
夢を見た。
走る夢だった。
どこまでも、どこまでも走る。
追われるのではなく、ただ前へ進むために。
目が覚めると、朝だった。
風が吹く。
その風は、森で感じていたものとはまったく違っていた。
強くて、冷たくて、でもどこか澄んでいる。
ぼくは立ち上がった。
体はまだ少し疲れている。
でも、足は軽かった。
振り返る。
遠くに、森が見える。
あの中に、ぼくの知っている世界がある。
帰ろうと思えば、帰れる。
でも――
ぼくは前を向いた。
知らない匂いがする方へ。
知らない風が吹く方へ。
しっぽが、ゆっくりと揺れる。
それは、森にいたときよりも少しだけ高く、少しだけ軽い。
ぼくは気づいた。
足りなかったものは、ここにあるわけじゃない。
探し続けること、そのものだったのだと。
どこかに行こう。そう思った。
その先がどこであっても、もう怖くはなかった。
ぼくは走り出した。
しっぽで風を測りながら、遠い空へ向かって。




