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帰れない部屋 ※ホラー

 どこかに行こう。そう思った。


 それは衝動ではなかった。かといって、計画でもなかった。


 ただ、今いるこの場所から、ほんの少しでも離れたくなったのだ。


 わたしは六畳一間のアパートに住んでいる。築年数は古いが、家賃は安い。駅からは少し遠いが、静かな住宅街だ。隣室の物音もほとんどしない。


 静かすぎる、という以外は。


 引っ越してきたのは、三か月前だった。


 理由は特にない。転職を機に、なんとなく環境を変えたくなっただけだ。荷物は少なく、生活も質素で、部屋はすぐに「わたしの場所」になった。


 なるはずだった。


 最初に違和感を覚えたのは、入居から一週間ほど経った夜だ。


 玄関の鍵を閉め、電気を消し、布団に入った。


 眠りかけたとき。


 かすかに、音がした。


 かり。


 と。


 壁の向こうから、何かを引っかくような音。


 最初は、隣人だと思った。


 だが、この部屋は角部屋で、隣は一室だけだ。音がした方向は、外廊下側ではなく、外壁側だった。


 外。


 二階。


 かり。


 もう一度。


 わたしは布団の中で息をひそめる。


 音は、数秒おきに繰り返された。


 かり。


 かり。


 規則的ではない。だが、意思を感じる。


 やがて、音は止んだ。


 翌朝、壁を確かめたが、何もない。傷もない。異常もない。


 気のせいだと思うことにした。


 それから数日、何も起きなかった。


 だが、ある夜。


 また音がした。


 今度は、はっきりと。


 かり、かり、かり。


 連続する。


 しかも、壁だけではない。


 天井からも。


 畳の下からも。


 わたしは電気をつけた。


 音は止む。


 消すと、再開する。


 まるで、暗闇を待っているかのように。


 その夜、わたしはほとんど眠れなかった。


 翌日、管理会社に連絡した。


「ネズミかもしれませんね」


 担当者は軽く言った。


「古い建物ですし」


 駆除業者が来た。


 床下も、天井裏も調べた。


「痕跡はありませんね」


 業者は首をかしげる。


「ネズミなら、フンや足跡があるはずですが」


 何もない。


 音だけがある。


 それから、音は毎晩続いた。


 かり。


 かり。


 ときどき、ずる。


 何かが、這うような音。


 わたしは次第に、電気を消せなくなった。


 常に明るい部屋で、浅い眠りを繰り返す。


 ある夜。


 ふと、思った。


 どこかに行こう。


 ここから離れよう。


 ホテルでも、友人の家でもいい。


 この部屋で眠るのは、もう限界だった。


 わたしは荷物をまとめる。


 財布とスマートフォン。


 最低限でいい。


 玄関へ向かう。


 そのとき。


 かり。


 音がした。


 今度は、玄関のドアから。


 わたしは凍りつく。


 ドアの向こう。


 廊下側。


 二階の共用廊下。


 誰かが、外から、ドアを引っかいている。


 かり。


 ゆっくりと、長く。


 わたしはドアスコープをのぞく。


 誰もいない。


 廊下は無人だ。


 だが、音は続く。


 かり。


 視界の端で、何かが動いた気がした。


 ドアのすぐ足元。


 見えない。


 角度が足りない。


 わたしは息を止める。


 すると。


 かり、が、止まった。


 代わりに。


 とん。


 軽い衝撃。


 何かが、ドアに寄りかかった。


 重くはない。


 だが、確かに、そこに「ある」。


 わたしは、そっとドアノブに手をかける。


 開けるべきではない。


 わかっている。


 だが、ここから出るには、開けるしかない。


 ゆっくりと、回す。


 かちゃ。


 その瞬間。


 内側から、強く叩かれた。


 ばん。


 わたしは悲鳴を飲み込む。


 内側。


 ドアの、内側。


 つまり、わたしのいる側から、叩かれたのだ。


 ありえない。


 わたしは、ドアの前に立っている。


 他には、誰もいない。


 ばん。


 もう一度。


 ドアの内側が、内側から叩かれる。


 木が震える。


 わたしは後ずさる。


 そのとき、背後で。


 かり。


 音がした。


 今度は、部屋の中央。


 畳の上。


 わたしは振り向く。


 何もない。


 だが、畳が、わずかに波打っている。


 下から、何かが押し上げている。


 ゆっくりと。


 畳の縁が、持ち上がる。


 黒い隙間。


 そこから、何かが覗く。


 目ではない。


 手でもない。


 形が、定まらない。


 ただ、暗い。


 暗闇そのもののようなものが、隙間から、にじみ出る。


 わたしは動けない。


 それは、ゆっくりと広がる。


 畳の上に、影が落ちる。


 だが、電気はついている。


 影のはずがない。


 暗闇が、形を持っている。


 それは、壁へと這い上がる。


 天井へ。


 そして。


 かり。


 天井を、内側から引っかく。


 わたしは理解する。


 音は、外からではなかった。


 最初から。


 この部屋の中からだった。


 わたしは後ずさり、壁に背をつける。


 どこかに行こう。


 そう思った。


 だが、どこへ。


 ドアは叩かれ、床は開き、天井は引っかかれる。


 逃げ場がない。


 暗闇が、ゆっくりと近づく。


 形を持たないそれは、やがて、人の輪郭を取る。


 わたしと、同じ背丈。


 同じ輪郭。


 顔はない。


 だが、わたしを向いているのがわかる。


 音が止む。


 静寂。


 それは、ゆっくりと口を開く。


 口はないはずなのに。


 声が、直接、頭に響く。


『どこへ』


 問いかけ。


 わたしは答えられない。


 どこかに行こうと思った。


 だが、ここがどこかも、もう曖昧だ。


 暗闇が、わたしの足元に絡みつく。


 冷たい。


 だが、温度ではない。


 存在そのものが、冷たい。


 わたしは、最後の力で叫ぶ。


「出ていけ」


 声は、震える。


 暗闇は、動きを止める。


 しばらくの沈黙。


 やがて。


 かり。


 小さな音。


 今度は、遠い。


 壁の向こう。


 天井の上。


 畳の下。


 音は、ゆっくりと遠ざかる。


 暗闇は、床へと溶けていく。


 畳の隙間が閉じる。


 何事もなかったかのように。


 部屋は、元通りだ。


 電気の白い光。


 静かな六畳一間。


 わたしは、その場に崩れ落ちる。


 どこかに行こう。


 そう思った。


 だが。


 翌朝、わたしはまだこの部屋にいた。


 荷物は玄関に置いたまま。


 ドアには、内側から、無数の細い傷がついている。


 わたしの爪ではない。


 記憶もない。


 それでも、確かに、ある。


 夜になれば、また音がするだろう。


 かり。


 かり。


 どこかに行こう。


 そう思うたびに。


 この部屋は、わたしを見つめ返している。

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