消しゴムはんこ
どこかに行こう。そう思った。
わたしは消しゴムはんこである。
正確には、かつてはただの消しゴムだったが、ある日人間の手によって彫刻され、「はんこ」としての第二の人生を歩むことになった。表面には、なぜか満面の笑みを浮かべたタコの絵が彫られている。なぜタコなのかは、いまだに不明である。依頼主の趣味か、彫った人間の気まぐれか。
ともあれ、わたしははんこだ。
押されるために存在している。
日々、インクをつけられ、紙の上にぎゅっと押しつけられる。ぽん、ぽん、と軽快な音とともに、タコが増殖していく。
最初のうちは楽しかった。
「かわいい!」
と言われるのは悪くない。紙の上に自分が残るというのも、ある種の達成感がある。
しかし、問題があった。
押されすぎるのだ。
「ここにもタコ」「あ、ここにも」「余白があるから、もう一匹」
人間は、余白を埋めたがる生きものらしい。
気づけば、わたしは一日に何十回も押されていた。
インクは黒だけではない。赤、青、緑、時には謎のラメ入りまである。わたしはカラフルなタコとして、紙の上で増殖を続けた。
ある日、ふと思った。
これは、わたしの意思なのか。
違う。
完全に、他人の意思だ。
どこかに行こう。そう思った。
理由は単純である。
押されるのに飽きた。
わたしは机の引き出しの中にいた。他にも、クリップやら付箋やら、よくわからないコード類やらが雑多に詰め込まれている。
「なあ、クリップ」
わたしは話しかける。
「なんだ」
彼は無骨だ。
「外の世界って、どんな感じだと思う」
「紙だらけだろ」
夢がない。
「それ以外で」
「知らん。俺はここで満足だ」
彼は現状維持派である。
付箋がひらひらと揺れる。
「外、楽しそうだよ。たまに持ち出されるもん」
彼女は比較的アクティブだ。
「どこに?」
「会議とか、カフェとか」
カフェ。
わたしは一瞬、優雅な空間を想像する。木のテーブル、コーヒーの香り、ノートにぽんと押されるタコ。
……やはり押されるのか。
根本的な問題は解決していない。
夜。
部屋が暗くなる。
人間が寝た。
チャンスだ。
わたしは引き出しの中で、じわじわと動く。消しゴムの摩擦を利用して、少しずつ位置を変える。
ころ。
ころころ。
クリップが言う。
「何してる」
「旅に出る」
「無理だろ」
「やってみる」
引き出しの縁に到達する。
ここからが難所だ。
落ちれば、机の上。そこから床へ。
わたしは一瞬ためらう。
だが、思い切る。
ころん。
落ちた。
机の上に転がる。衝撃はそれほどでもない。
さらに、端へ。
ころころ。
そして――
床へ。
ぽす。
意外と静かだ。
成功である。
床は広い。未知の領域だ。ほこりが多いが、気にしない。
わたしは進む。
ころころ。
ドアの隙間から廊下へ。
さらに進む。
玄関が見える。
靴が並んでいる。
ここを越えれば、外だ。
そのとき、声がした。
「おい」
振り向くと、靴だ。
「どこ行く」
「外」
「やめとけ」
「なんで」
「踏まれるぞ」
現実的な問題である。
だが、ここまで来て引き返すわけにはいかない。
「大丈夫、たぶん」
「根拠がないな」
靴はため息をつく。
「まあ、好きにしろ。ただ、帰ってくる場所は覚えとけ」
帰る。
その発想はなかった。
わたしは少しだけ考え、それから言った。
「覚えておく」
ドアの隙間を抜ける。
外だ。
夜の空気。ひんやりしている。
道路のアスファルト。ざらざらしている。
街灯の光。
わたしは、しばらく動けなかった。
広い。
とにかく広い。
机の上とは比べものにならない。
わたしはころころと進む。
途中、風に煽られる。
「うわ」
軽い。
消しゴムは軽いのだ。
危うく側溝に落ちかけるが、なんとか踏みとどまる。
そのとき。
足音。
人間が近づいてくる。
まずい。
踏まれる。
わたしは必死に転がる。
ころころころ。
しかし――
ぴたり。
止まる。
目の前に、白い紙が落ちていた。
風で飛んできたらしい。
そして。
わたしは、その紙の上に乗ってしまった。
インクが、うっすらと残っていたのだろう。
わたしの底面が、紙に触れる。
ぎゅ。
タコが、押された。
外の世界で、初めて。
「……」
わたしは呆然とする。
旅に出ても、押されるのか。
しかも自発的ではない。偶然だ。
人間がその紙を拾う。
「なんだこれ、タコ?」
彼は首をかしげる。
「かわいいな」
そのままポケットに入れる。
わたしも一緒に。
暗い。
だが、揺れている。
移動している。
わたしは気づく。
これが、旅だ。
自分で動くだけが、移動ではない。
誰かに運ばれることも、また旅だ。
やがて、ポケットから出される。
そこは、カフェだった。
木のテーブル。
コーヒーの香り。
ノート。
そして、わたし。
「これ、スタンプに使えそうだな」
やめてほしい。
だが、遅い。
インクがつけられる。
ぽん。
タコが増える。
わたしは思う。
どこかに行こう。そう思った。
そして、来た。
だが、やることは変わらない。
押される。
それが、わたしの役割だ。
ならば。
せめて、場所を楽しもう。
カフェのノートに並ぶタコたち。
少しだけ誇らしい。
机の上とは違う景色。
知らない人の手。
新しい紙。
悪くない。
わたしは、次の一押しを待ちながら、少しだけ笑った。
消しゴムでできたタコも、たまには旅に出るのである。




