私は自分の順番を失った
どこかに行こう。そう思った。
それは朝でも夜でもなく、時間としては一日の中で最も説明しづらい瞬間だった。起きてはいるが、始まってはいない。眠ってはいないが、終わってもいない。私はその曖昧な場所に立ったまま、しばらく動けずにいた。
カレンダーを見ると、何の印もついていない日だった。祝日でもなく、誰かの誕生日でもなく、締切からも微妙に外れている。そういう日は、だいたい無事に過ぎていく。無事すぎて、後から思い出せない。
私はその日を、思い出せないまま終わらせたくなかった。
だから「どこかに行こう」と思ったのだと思う。
行き先が欲しかったわけではない。理由が欲しかったわけでもない。ただ、今日という日を、今日として成立させるための行動が必要だった。
シャワーを浴び、服を着替え、財布と鍵を持つ。スマートフォンを手に取って、机に置き直す。今日は連絡を受け取らない日にしたかった。世界からの通知を遮断することで、自分の輪郭が少しだけ濃くなる気がした。
外に出ると、空気が思ったよりも冷たかった。季節は移ろっているはずなのに、街はまだそれを受け入れていないようだった。人々の服装も、歩く速さも、昨日と同じだ。
私は歩き始めた。
目的地はない。
だが、方向は決めた。
「普段なら行かない方角」。
それだけで十分だった。
しばらく歩くと、街の表情が変わり始めた。建物の高さが揃わなくなり、看板のフォントが統一されなくなる。チェーン店が減り、個人名のついた店が増える。だが、どの店も開いていない。開店時間を過ぎているはずなのに、シャッターは閉じたままだ。
通り過ぎるとき、シャッターの内側から視線を感じた。
誰かが見ている、という確信だけがあり、根拠はなかった。
私は歩調を落とした。
ここで引き返すこともできた。
だが、引き返す理由もなかった。
気づくと、駅に出ていた。
見覚えはある。何度も使った駅だ。だが、今日の駅は少し違った。案内板の色が薄く、音が遠い。構内アナウンスが、言葉としてではなく、意味の塊として流れてくる。
改札の前で立ち止まった。
行こうと思えば、どこへでも行ける。
だが、行きたい場所は相変わらず浮かばない。
そのとき、背後から声をかけられた。
「並ばないんですか」
振り返ると、係員らしき人が立っていた。制服は着ているが、駅名も会社名も書かれていない。名札もない。代わりに、胸元に小さな番号が付いていた。
「何の、ですか」
「順番です」
「順番?」
「ええ。どこかに行く人の順番」
私は、思わず笑いそうになった。
冗談にしては表情が真剣すぎる。
「順番を取っていない人は、行けません」
「どこへ」
「どこかへ」
私は何も言えなかった。
代わりに、周囲を見回した。
確かに、人が並んでいる。
切符売り場でも、改札でもない場所に、列ができている。誰も喋らない。誰もスマートフォンを見ていない。ただ、静かに立っている。
「最後尾は、あちらです」
係員は、指差した。
その先は、駅の外だった。
私は迷った。
だが、どこかに行こうと思った以上、並ばないという選択肢はなかった。
列の最後に立つ。
前の人との距離は、妙に近い。近すぎて、呼吸のリズムが分かる。
「どのくらい待つんですか」
前の人に聞いてみた。
「さあ」
「目的地は?」
「決まっていません」
私たちは、少しだけ笑った。
それ以上、会話は続かなかった。
列は、ゆっくり進んだ。
進んでいるのか、世界の方が後退しているのか、分からない速さだった。
途中で、何人かが列を抜けた。
理由は分からない。
ただ、抜けた瞬間、彼らは駅から消えた。
不安はなかった。
怖さもなかった。
ただ、「自分の順番がどこかで間違っている」という感覚だけがあった。
やがて、私の前に係員が立った。
「番号をどうぞ」
「持っていません」
「そうですか」
係員は、少しだけ困った顔をした。
「順番を失っていますね」
「失う?」
「ええ。どこかに行こうと思ったとき、人は順番を一つ持ちます。でも、途中で迷うと、落とすことがある」
「落としたら、どうなるんですか」
「行けなくなります」
私は考えた。
確かに私は、どこかに行こうと思った。
だが、並ぶことまでは想定していなかった。
「取り戻せますか」
「時間をかければ」
「どれくらい」
「その人次第です」
私は、列の外に出された。
駅の片隅にある、誰も使わないベンチに座らされる。
列は進み続けている。
私だけが、そこから外れている。
時間が過ぎた。
あるいは、過ぎなかった。
周囲の景色が少しずつ変わる。人が減り、音が消え、駅はただの構造物になっていく。私は、自分がここに座っている理由を、何度も思い出そうとした。
どこかに行こう。
そう思ったはずだ。
だが、その「どこか」が、次第に曖昧になる。
代わりに、「ここではない」という感覚だけが残る。
係員が戻ってきた。
「どうしますか」
「何が」
「順番を、探しますか」
私は立ち上がった。
「探します」
「では、戻ってください」
「どこへ」
「思った場所へ」
次の瞬間、私は駅の外に立っていた。
朝と同じ場所。
同じ道。
だが、世界は少しだけ違っていた。
人々は相変わらず歩いている。
だが、全員が自分の順番を持っているように見えた。
私は歩き出した。
普段なら行かない方角へ。
今度は、急がなかった。
迷うことも、恐れなかった。
どこかに行こうと思った日。
私は、どこにも行かなかった。
だが、自分の順番を失ったことで、世界の見え方が、少しだけ変わった。
次に「どこかに行こう」と思ったとき。
私はきっと、列のどこかに戻る。
それが、いつになるかは分からない。
だが、順番は、失われたままではいない。
そう信じて、今日はここにいる。




