表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/26

私は自分の順番を失った

 どこかに行こう。そう思った。

 それは朝でも夜でもなく、時間としては一日の中で最も説明しづらい瞬間だった。起きてはいるが、始まってはいない。眠ってはいないが、終わってもいない。私はその曖昧な場所に立ったまま、しばらく動けずにいた。


 カレンダーを見ると、何の印もついていない日だった。祝日でもなく、誰かの誕生日でもなく、締切からも微妙に外れている。そういう日は、だいたい無事に過ぎていく。無事すぎて、後から思い出せない。


 私はその日を、思い出せないまま終わらせたくなかった。


 だから「どこかに行こう」と思ったのだと思う。

 行き先が欲しかったわけではない。理由が欲しかったわけでもない。ただ、今日という日を、今日として成立させるための行動が必要だった。


 シャワーを浴び、服を着替え、財布と鍵を持つ。スマートフォンを手に取って、机に置き直す。今日は連絡を受け取らない日にしたかった。世界からの通知を遮断することで、自分の輪郭が少しだけ濃くなる気がした。


 外に出ると、空気が思ったよりも冷たかった。季節は移ろっているはずなのに、街はまだそれを受け入れていないようだった。人々の服装も、歩く速さも、昨日と同じだ。


 私は歩き始めた。

 目的地はない。

 だが、方向は決めた。


 「普段なら行かない方角」。


 それだけで十分だった。


 しばらく歩くと、街の表情が変わり始めた。建物の高さが揃わなくなり、看板のフォントが統一されなくなる。チェーン店が減り、個人名のついた店が増える。だが、どの店も開いていない。開店時間を過ぎているはずなのに、シャッターは閉じたままだ。


 通り過ぎるとき、シャッターの内側から視線を感じた。

 誰かが見ている、という確信だけがあり、根拠はなかった。


 私は歩調を落とした。

 ここで引き返すこともできた。

 だが、引き返す理由もなかった。


 気づくと、駅に出ていた。

 見覚えはある。何度も使った駅だ。だが、今日の駅は少し違った。案内板の色が薄く、音が遠い。構内アナウンスが、言葉としてではなく、意味の塊として流れてくる。


 改札の前で立ち止まった。

 行こうと思えば、どこへでも行ける。

 だが、行きたい場所は相変わらず浮かばない。


 そのとき、背後から声をかけられた。


「並ばないんですか」


 振り返ると、係員らしき人が立っていた。制服は着ているが、駅名も会社名も書かれていない。名札もない。代わりに、胸元に小さな番号が付いていた。


「何の、ですか」


「順番です」


「順番?」


「ええ。どこかに行く人の順番」


 私は、思わず笑いそうになった。

 冗談にしては表情が真剣すぎる。


「順番を取っていない人は、行けません」


「どこへ」


「どこかへ」


 私は何も言えなかった。

 代わりに、周囲を見回した。


 確かに、人が並んでいる。

 切符売り場でも、改札でもない場所に、列ができている。誰も喋らない。誰もスマートフォンを見ていない。ただ、静かに立っている。


「最後尾は、あちらです」


 係員は、指差した。

 その先は、駅の外だった。


 私は迷った。

 だが、どこかに行こうと思った以上、並ばないという選択肢はなかった。


 列の最後に立つ。

 前の人との距離は、妙に近い。近すぎて、呼吸のリズムが分かる。


「どのくらい待つんですか」


 前の人に聞いてみた。


「さあ」


「目的地は?」


「決まっていません」


 私たちは、少しだけ笑った。

 それ以上、会話は続かなかった。


 列は、ゆっくり進んだ。

 進んでいるのか、世界の方が後退しているのか、分からない速さだった。


 途中で、何人かが列を抜けた。

 理由は分からない。

 ただ、抜けた瞬間、彼らは駅から消えた。


 不安はなかった。

 怖さもなかった。

 ただ、「自分の順番がどこかで間違っている」という感覚だけがあった。


 やがて、私の前に係員が立った。


「番号をどうぞ」


「持っていません」


「そうですか」


 係員は、少しだけ困った顔をした。


「順番を失っていますね」


「失う?」


「ええ。どこかに行こうと思ったとき、人は順番を一つ持ちます。でも、途中で迷うと、落とすことがある」


「落としたら、どうなるんですか」


「行けなくなります」


 私は考えた。

 確かに私は、どこかに行こうと思った。

 だが、並ぶことまでは想定していなかった。


「取り戻せますか」


「時間をかければ」


「どれくらい」


「その人次第です」


 私は、列の外に出された。

 駅の片隅にある、誰も使わないベンチに座らされる。


 列は進み続けている。

 私だけが、そこから外れている。


 時間が過ぎた。

 あるいは、過ぎなかった。


 周囲の景色が少しずつ変わる。人が減り、音が消え、駅はただの構造物になっていく。私は、自分がここに座っている理由を、何度も思い出そうとした。


 どこかに行こう。

 そう思ったはずだ。


 だが、その「どこか」が、次第に曖昧になる。

 代わりに、「ここではない」という感覚だけが残る。


 係員が戻ってきた。


「どうしますか」


「何が」


「順番を、探しますか」


 私は立ち上がった。


「探します」


「では、戻ってください」


「どこへ」


「思った場所へ」


 次の瞬間、私は駅の外に立っていた。

 朝と同じ場所。

 同じ道。


 だが、世界は少しだけ違っていた。

 人々は相変わらず歩いている。

 だが、全員が自分の順番を持っているように見えた。


 私は歩き出した。

 普段なら行かない方角へ。


 今度は、急がなかった。

 迷うことも、恐れなかった。


 どこかに行こうと思った日。

 私は、どこにも行かなかった。


 だが、自分の順番を失ったことで、世界の見え方が、少しだけ変わった。


 次に「どこかに行こう」と思ったとき。

 私はきっと、列のどこかに戻る。


 それが、いつになるかは分からない。

 だが、順番は、失われたままではいない。


 そう信じて、今日はここにいる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ