名前のない地図
どこかに行こう。そう思った。
理由はなかった。理由がないこと自体が理由になるくらい、ここにいることが長く続いていた。朝起きて、顔を洗い、窓の外を見て、同じ角度で空を眺め、同じように一日を終える。変わらないというより、変わる必要がないふりをすることに慣れてしまった日々だった。
玄関の靴箱を開けると、いつ買ったのか覚えていないスニーカーが目に入った。底はまだ減っていない。つまり、あまり遠くへ行っていない証拠だ。私はそれを引っ張り出し、紐を結びながら、これからどこへ行くのかを考えようとしてやめた。決めてしまったら、そこへ行く義務が生まれてしまう気がしたからだ。
ポケットに財布と鍵だけを入れて外に出る。スマートフォンは机の上に置いてきた。連絡が取れないというだけで、世界は少し広くなる。逆に言えば、普段はどれほど狭い場所に閉じ込められていたのだろう。
駅へ向かう道を歩きながら、私は自分の足音を数えた。一、二、三。リズムが乱れると、無意味に不安になる。子どもの頃からの癖だ。何かを数えていないと、今がどこにあるのか分からなくなる。
「どこまで行くんですか」
不意に声をかけられて、足を止めた。振り返ると、配達用の自転車にまたがった青年がこちらを見ていた。知らない顔だった。
「どこって?」
「さっき、独り言が聞こえた気がして。どこかに行こう、って」
私は少し驚いた。声に出していた覚えはなかったが、否定するほどの自信もない。
「分からないんです」
正直にそう答えると、青年はへえ、と言って笑った。
「いいですね。分からないまま出かけるの」
「そうですか?」
「ええ。行き先が決まってる配達より、ずっと自由だ」
彼はそう言って、ペダルを踏んだ。去っていく背中を見送りながら、私はその言葉を反芻した。自由。簡単に使われるけれど、いつも重たい。
駅に着くと、改札前で立ち止まった。切符売り場の路線図を見上げる。色とりどりの線が絡まり、無数の駅名が並んでいる。どれもが具体的で、どれもが他人事だった。
結局、一番端にある駅を選んだ。名前が気に入ったとか、景色が良さそうだとか、そういう理由は後付けだ。ただ、端という言葉に惹かれた。これ以上先がない場所なら、迷いようがないと思った。
電車は昼間のわりに空いていた。窓際の席に座り、流れていく街並みを眺める。知らない建物、知らない看板、知らない生活。どれもが確かに存在しているのに、私とは関係がないように見えた。
ふと、隣の席に座った老女が話しかけてきた。
「遠足?」
「いえ、ただのお出かけです」
「それが一番いいわね」
老女はそう言って、小さな紙袋から飴を取り出した。
「目的があると疲れるでしょう。若い人は特に」
私は礼を言って受け取った。包装紙を剥がすと、甘い匂いが広がる。口に入れると、思っていたよりもずっと懐かしい味がした。
「どこまで?」
「終点までです」
「あら。じゃあ、景色が変わるのをちゃんと見なきゃ」
老女はそれだけ言って、次の駅で降りていった。私は飴を舐めながら、窓の外をより注意深く見た。確かに、少しずつ街の表情が変わっていく。ビルが低くなり、空が広くなり、人の歩く速さが遅くなる。
終点に着いたとき、私は少しだけ拍子抜けした。端まで来たはずなのに、そこには普通の町があった。商店街があり、住宅が並び、子どもが走っている。世界は端でも、途切れたりはしないらしい。
駅前のベンチに座り、深く息を吸う。ここまで来て、さてどうしよう、と初めて考えた。戻ることもできるし、さらに歩くこともできる。
「迷ってる顔だね」
声の方を見ると、ベンチの反対側に中年の男性が座っていた。いつからいたのか分からない。
「分かりますか」
「分かるよ。私も昔、同じ顔してた」
「昔?」
「どこかに行きたくて、でもどこでもよくて、それが一番困る時期」
私は黙って頷いた。
「答えが出た?」
「まだです」
「じゃあ、まだ来た意味がある」
男性は立ち上がり、軽く手を振った。
「答えが出たら、帰ればいい。それまでは、少し歩いてみなさい」
彼はそれだけ言って、商店街の方へ消えていった。私はその背中を見送りながら、立ち上がった。歩く。とりあえず、それでいい。
町を歩き、知らない店に入り、知らない道を曲がり、知らない公園で休む。時間はゆっくりと、しかし確実に流れていった。夕方になり、空がオレンジ色に染まる。
そのとき、ようやく気づいた。私はどこかへ行きたかったのではなく、**どこにいてもいいと思える場所**が欲しかったのだと。
それがここかどうかは、まだ分からない。けれど、分からないままで立っていられる場所に来たのは、確かだった。
日が沈み始め、私は駅へ戻る道を歩き出した。帰る場所があることは、逃げではない。行って、戻る。その往復の中にしか、自分の輪郭は生まれない。
どこかに行こう。そう思ったあの日のことを、いつか私は思い出すだろう。
そしてまた、同じように立ち上がるのだ。名前のない地図を胸にしまって。




