町内会に捕まった
どこかに行こう。そう思った。
思っただけで、口には出していない。にもかかわらず、この決意は、なぜか玄関を出た瞬間から裏切られ始めた。
まず、ドアを開けたところで、鉢合わせた。
「あら」
声の主は、同じアパートの一階に住んでいる佐藤さんだった。年齢は七十代後半。小柄で、いつも妙に機敏だ。町内の出来事をすべて把握していることで有名で、私の生活リズムも例外ではない。
「今日はお休み?」
「ええ、まあ……」
この「まあ」が命取りだった。
「ちょうどよかったわ」
そう言った瞬間、佐藤さんの背後から、見覚えのある人物が二人現れた。町内会長と、その補佐。補佐はなぜか常にクリップボードを持っている。
「若い人がいて助かる」
私はまだ何も承諾していない。
だが、話はもう始まっていた。
「今日ね、掲示板の張り替えがあるの」
「あと、防災倉庫の点検」
「それから、迷い猫のチラシ配り」
なぜそれらが一日にまとめられるのか、誰も説明しない。町内会とはそういうものだ。
どこかに行こう。
その「どこか」は、今やアパートの敷地内に限定されつつあった。
「すぐ終わるから」
この言葉を信じてはいけないと、私は過去の経験から学んでいる。だが、人は同じ失敗を繰り返す生き物だ。
まず掲示板。
古いポスターを剥がす作業から始まった。
「これ、いつの?」
「三年前の夏祭りね」
「もう存在しないイベントだ……」
剥がしても剥がしても、過去が出てくる。町内会の掲示板は、時間の地層だった。私は途中から、自分がどの年に生きているのか分からなくなっていた。
次に防災倉庫。
鍵が見つからない。
「前はここにあったのよ」
「前っていつですか」
「前よ」
十分後、鍵は会長のポケットから出てきた。誰も責めない。町内会では、責任の所在を追及しない。それが平和の条件だ。
倉庫の中には、使われた形跡のないヘルメット、賞味期限が三回くらい切れていそうな非常食、そして謎のロープがあった。
「これ何に使うんですか」
「何かあったとき」
「何があっても、これ使います?」
「使うわよ」
説得力はないが、断定力はある。
迷い猫のチラシ配りは、さらに過酷だった。
なぜなら、その猫の特徴があまりにも曖昧だったからだ。
「白っぽい」
「白っぽい……?」
「たぶん」
写真はピンボケしている。
これで見つかる猫は、相当協力的だ。
私は町内を歩きながら、何度も思った。
どこかに行こうと思っただけなのに、なぜ私は町内を一周しているのか。
昼過ぎ、ようやく解放された。
「助かったわ」
「若い人がいると違う」
私はもう若さだけを消費された気がした。
さて、ここからだ。
今からなら、まだどこかに行ける。
問題は、体力と気力が、すでに午前中で八割削られていることだった。
私は駅に向かった。
しかし、途中で財布を忘れたことに気づいた。
家に戻る。
戻った瞬間、佐藤さんがまたいた。
「あ、これ」
手渡されたのは、チラシの束だった。
「配り忘れ」
私は無言で受け取った。
もう、逆らう気力はない。
すべてを配り終えた頃には、夕方になっていた。
空はきれいだった。皮肉なほどに。
私は結局、駅へは行かなかった。
どこかに行こうと思った日は、どこにも行かないことで終わった。
だが、不思議と嫌な気分ではなかった。
町内会の人たちは、私の名前をちゃんと覚えてくれた。
猫は見つからなかったが、誰も私を責めなかった。
私は一日中、予定外のことをして、予定通りに疲れた。
家に戻り、靴を脱ぎ、床に座る。
どこかに行こう。
そう思った結果、私はここにいた。
世界には、遠くへ行く日も必要だが、
どうしようもなく近くで終わる日も、たぶん必要なのだ。
次にどこかに行こうと思ったときは、
玄関を出る前に、周囲をよく確認しようと思う。
佐藤さんがいないかどうかを。




