5.気遣いが嬉しくて
「……黙れと、言ったはずだ」
少しの間をおいて発されたオルビスの声は低く、これまでの不愛想さとは異なる剣呑さを孕んでいた。
顔を上げてガルドと話していてもも【シトロン】の機器から離れなかった右手は、今はガルドに向けられており、その五指はそこにはない"何か"を鷲掴みにするような形をとっている。
しかし、その手は今しがた起きた事象が起きた場所には届いていないし、壁の抉られた部分は手に収めるには大きすぎる。
手甲に覆われた手にそれだけの力があるのか、という疑問の前に、距離も、抉られた規模もまるで理に合っていなかった。
――なにが、起きたの?
状況についていけていないアイリスが抱けたのは、恐怖と、疑問符だけだった。
ガルドという男がからかって、オルビスが怒って、それでもやめなかったから、"何か"が起きた。
辛うじて理解できるのは、それだけだ。
軽快な口から紡ぎだされた何が彼を怒らせたのか、目の前で起きた現象が-―おそらくオルビスが起こしたのだろうが――何なのか、分からない。
ただ、それを尋ねる間もなく、ガルドがその顔に変わらぬ笑みを張り付けたまま肩をすくめてみせる。
「あーあ、おっかねえ――あとで、修理代よこせよ」
「……分かってる」
不機嫌そうに応えると、オルビスは口を挟む前と同じく【シトロン】に向き直り、作業の続きへと戻る。カチャカチャと、心なしか操作する音が少しばかり乱雑になった気がする。
集中するその姿をガルドは眺めつつ、ったく、と愚痴を洩らす。
「冗談も通じやしねえ。
ルイちゃんも、こんな野郎と一緒でよく飽きねえもんだな?」
「……今回は、あなたも悪い。
それとちゃん付けはやめてって、前も言ったはず」
「へぇへぇ。
ま、オレも言い過ぎたかね……最近、厄介ごとが多くてな。
どうにも、気が立ってたんだろうな」
笑みを崩さず、しかしそれを苦々しげなそれに変えるガルドに、ルイは首を傾げる。
「……やっかい、ごと?」
「おたくらがいない間に、ちょっとな。
まあ……アレだ、後でギースの旦那にでも聞きゃいい」
ちら、とアイリスを見ながらガルドは言葉を濁した。
意図を察したのか、ルイはそれ以上追及せずにわかったと頷く。
「あ、あのっ」
そこで口を開いたのは、完全に置いてけぼりにされていたアイリスだ。
「えっと、その、なにがなんだかついていけないんですけど……教えてもらっても、いいですか……?」
おどおどと気弱気にアイリスは尋ねるが、それは仕方ないことだ。
なにか真面目な話をされていたような気がするが、気がしただけ。どこがどう真面目なのか、アイリスにはさっぱりわかっていない。
勝手に物騒なことになって、勝手に静まって、なんだか反省したようなそうでないような雰囲気になっているが、アイリスはそれを眺めているだけで終わった。
あわわあわわと、ただ目の前の事態に戸惑ったり怯えたりしていただけであった。
対するガルドは、ばつの悪そうな顔をして、
「すまん、お嬢ちゃん。
粗方しゃべっちまってから言うのもなんだが、あとはルイちゃんたちに聞いてくれ」
それを聞いてルイに縋るような眼差しを向けても、首を横に振られる。
「……ごめんなさい。
あとで、ぜんぶ話すから」
「い、いえ。謝るようなことじゃ……その、助けてもらえただけで、うれしいですし」
他に行き場もないのだ。
何も知らずに放り出され、荒野を歩いていた時とは違う。
待つべきだということはアイリス自身も分かっていたことだし、信じたい、信じようと【シトロン】に上で決めていたはずだ。
――少しだけ、
――ほんの少しだけ、待ち遠しくはあるけれど。
そう思いながら、曖昧な笑みを浮かべていると、オルビスが作業を終えて準備ができたのか【シトロン】が低く、重い駆動の音を発する。
「そろそろ行くぞ」
「……ん」
「は、はいっ」
オルビスの呼びかけに、ルイは控えめに頷きながら座席に座り直し、アイリスはこれからへの緊張に声を上ずらせながら、そういえば縛られずにどう乗ればいいんだろうかと慌てる。
「……わたしに捕まってて」
「はいっ……えっと、失礼しますっ」
ルイに背後から抱き着こうとして、しかし直前にふと思い出したことがあって、アイリスは機体の傍らに立つガルドを見る。
「ガルドさんっ」
「ん?
どうした、お嬢ちゃん」
声をかけられると思っていなかったのか、やや驚いたそぶりを見せながらもガルドはにこやかに応じる。
「えっと……まず、"お嬢ちゃん"じゃありませんっ。
アイリスっていう名前があります」
「そうかい、悪かったねアイリスちゃん」
――ちゃんづけ、ですか
アイリスはなにか言い返したい衝動にかられたが、出発する直前の今じゃないと喉の奥にしまいこむ。
「んで、用は何だい? 自己紹介だけ、ってわけでもないだろう」
「はい。少し……少しだけ、伝えたいことがあって」
「伝えたいこと?」
怪訝そうな顔をするガルドに、すぅ、とアイリスは小さく息を吸い込んで、意を決し口にする。
「――ありがとうございます。
いろいろと、気を遣ってくれて」
"それ"を口にした時、ガルドの表情が変わった。
口元は笑みのままだが、目はアイリスの意図を探るような――観察するようなそれへと歪む。
ぞわりと、背筋に寒気を感じたアイリスは目をそらしたくなるが、ぐっと堪えた。
「……どういうことか、訊いてみてもいいかな?
まさか、さっき言ったことをそのままに受け取ったわけでもないだろう」
「最初は私も、からかわれたかなって思ったんですけど……なんとなく、ですね」
不安でいる自分に。
言葉でだけでも、紛らわせようとしてくれているような。
「"なんとなく"?」
「なんとなく、です」
問われ、返すと、そこから還ってきたのは、
「ふっ、くくっ……」
笑み、だった。
「なるほど、なるほど。ははっ、そうか、そういう子か、ははははははははっ」
「あ、あのう……?」
「はははははっ……ああ、すまん。だけど、だけどよぉ、ははっ、はははははははははっ」
笑み。
心の底から生まれたモノを抑えきれず、とでもいった風に溢れだしたそれは、すぐに収まるものでもなく。
なにごとかとオルビスやルイも振り向くが、構わずにガルドは笑い、落ち着いたのはしばらく経ってからのことで、
「わかった、わかった」
目元にわずかに涙を拭いながら話しだしたガルドは、まだ口端を笑みで痙攣させたままだった。
「オレが、間違ってた。
大丈夫だ……ああ、俺が保証しよう。おたくは大丈夫だ」
「なにが、ですか……?」
問いにガルドは答えず、ぽんぽんとアイリスの背中を軽く叩く。
「いつもなら、こんなことを言わないんだが――がんばりな。
なにかあったら、そこのオルビスや、なんならオレなんかを頼ってもいい」
「はぁ……?」
わけがわからない、という目を向けるも、ガルドは意に介さずにオルビス、と呼ぶ。
「せっかく拾ったんだ、それなりに世話してやれよ?
まあ、多少は、苦労しそうだが」
多少は、という部分に妙な含みを持たせながら、ちら、とガルドはアイリスを見る。
その意図が分からずに当の少女は首をかしげるが、それについて説明されることはなさそうだった。
「わかってる。最初からそのつもりだ」
オルビスは何をわかっているつもりなのか頷いて見せ、すぐにガルドから視線を外し、手元にあった操縦桿のレバーを押し込む。
「えっ、何をはなしわぷっ」
追求しようとしたアイリスはしかし突如走り出した【シトロン】に遮られる。
振り落とされかけ、しかしなんとかルイの腰にしがみつきながら、車体の進む先を覗く。
閉じられた空間、そのうちの【シトロン】の進む方向にある壁が、ゴリゴリと削るような音を立てながら下から上へと引き上げられる。
何の力が働いてか、自分たちが通り抜けられる高さで停止し、それによって生まれた隙間を抜けて車体は加速していく。
石の壁を抜ければ、そこには光がある。
外の光だ。
人工的なものとは違うそれに目を眩ませながら、ドクンと鼓動が高鳴る。
『――そう言えば、忘れていたな』
通信機からオルビスの声が聞こえる。
本当に、今しがた思い出したような口調で、そう言ってきた。
「なんですか?」
『一つ、言っていなかったことがあってな』
「それって……教えてもらいたいこととは、別の話ですか?」
尋ねると、ああ、と肯定が返ってくる。
その声は、これまでに聞いた寒々しい、こちらを突き放すのとは違う、優しさのようなものを含んでいて。
『別に、大したことじゃない。
あんたみたいに初めてここに来る奴に言ってる言葉で……まあ、歓迎の挨拶みたいなものだと思ってくれればいい』
「はぁ……」
そして。
知らない土地に迷い込んだ少女は。
微笑みを携えたような口調の男の"それ"を聞いた。
『ようこそ、<来訪者>。
この、終わりかけの世界へ。
流れ着き、どこへも行けなくなった世界へ。
俺たちは、あんたを歓迎する』
「それは、」
どういうことですか、と。
尋ねようとしたアイリスは、しかしそれを口にできなかった。
自分たちを乗せた【シトロン】が石の壁でできた建物を出た先――人工のそれではない、自然の光が照らす外の光景を、目にしたからだ。