13.暴力反対じゃないけどよくないかもしれない
遅れて聞こえた破砕の音と、壁に散らばった残骸が、テーブルが殴り飛ばされて壁に叩きつけられたのだと知った時には既に遅く、顔を上げたアイリスが見たのは、すぐそばまでやってきてこちらを見下ろす異形の巨漢の姿だった。
「いちいち叫ぶなよ。
十分聞こえてる」
これ見よがしに耳をふさぐ動作をしながらオルビスは立ち上がる。
その顔に先ほどの笑みはなく、かといって恐怖の感情もない。
先ほどと同じ仏頂面に戻っていて、巨漢へと向ける目は、仕草も相まって、見方によっては蔑んでいるようにもとれた。
そしてそれは巨漢には当てはまったようで、結果として怒りを一層煽り立てられる形になる。
「テめェが、【ミスマス】のニンゲンかァ!?」
「いいや、俺はここでメシ食ってた客の一人だよ。
ここには世話になっちゃいるが、店員ってわけじゃない」
威嚇のつもりだろうか、グイと顔を近づけて叫ぶ巨漢に、涼しい顔をしながらオルビスは答える。
「そういうアンタは、ここに何しに来たんだ?」
問い返しに、巨漢は大仰に答える。
「あァ、おレはよォ、ここをぶっこわしにきたんだよォ!!」
言いながら、肥大化した拳を横に薙ぐ。
轟音が、響いた。
傍らにあった木のテーブルが、素手の一撃で砕かれ、破片がまき散らされ、周りから動揺の声が漏れる。
対するオルビスは僅かな動作で破片を避けながら、目は巨漢へと向けたままだ。
それを見て、不敵な態度が気に入ったのか、巨漢が少しずつ饒舌になっていく。
「そのへんのヤツにきイたらよぉ、このへんをしきってるのが、このミセだってはなしじゃァねェか。
だったら、てはじメにココをぶっこわしてやろうってかんがえたわけよ」
「壊して、どうするんだ?」
「そりゃァ、きまってる!
ネジロにしテ、このマチをノットってやるンだよォ!!」
巨漢のその言葉に虚勢はなく、自分ならできるという自信に満ち溢れていた。
「これまで、ずっとそうだった! そうしてきた!
ここにトばされたリユウはしらねェが、やることはカわらねぇ!」
大胆に。不敵に。
語調に呼応するように巨体を脈動させた叫び。
皮膚が文字通り泡立ち、合一した無機物が蠢いては形状を変える。
異様な光景に客が恐怖の視線を向け、しかし注意をひかないよう口をつぐむ中で、
「はぁ……まぁ、分かりやすいというか、なんというか」
オルビスが返した反応は、呆れたようなため息一つだった。
それを見咎めた巨漢が、眉をひそめて問いかける。
「テメェは、どうなンだ?」
言葉と同時に、巨漢は右腕をオルビスに突きつける。
否。店に足を踏み入れた時とはまた異なる変貌を遂げたそれは、腕と呼ぶべきかすら疑わしい形状をしていた。
オルビスの胴を容易く上回る太さのそれは、先端にあった五指すらも放棄した更なる異形。
肌から突き出た無数の突起は、あと一歩でも動けばその肉をえぐり取れるようなほどの至近にあった。
「つえェのか? よえェのに、おレのマエにたつのか?
ボウっきれみてぇにホソいカラダで、テメェはよォ!」
僅かな動作で傷をつけられる距離で、それでも飄々としたオルビスの態度に巨漢は憤る。
怯える、なら分かる。
敵意を持ち、相対するのも分かる。
しかし、目の前の男は、そのどちらでもないのだ。
自分の意思次第で傷つけられかねない状況で、恐れもせず、抗いもしない。
その違和感がある故に、巨漢はその右腕を振るうのを躊躇っていた。
「まぁ……俺は、弱くはない」
オルビスは言った。
「戦う力は、ある。
振るおうと思えば、振るえる力がある」
だが、と。
「今の俺には、そのつもりはない。
そのために、こうして立ち上がったわけじゃない」
「……どウイう、コトだ?」
向かい合う相手が、何を言っているのか、何が言いたいのか理解できていない様子に、オルビスは淡い笑みを浮かべる。
「簡単なことだ」
一歩、後ろへを下がりながら、
「俺がやらなくても、他のヤツがやってくれるってだけだよ」
「テメェ……ッ!」
あからさまな挑発。
一瞬で沸騰した思考で巨漢は前に踏みこみ、異形の腕を振りかぶり、、
「なニ、ナメたコトいって」
――しかし。
巨漢が最後まで言い切ることはできなかった。
言葉と、表情と、動作と。
巨漢の両手と両足が粉々に砕け散るのが、ほぼ同時だったからだ。
「ァ……?」
自分以外が音を出さない、自分が止まった以上何も聞こえない空間に、辛うじて絞り出した声が、間抜けに響く。
前触れの無かった出来事に重力までも気づかなかったように、一拍遅れて取り残された胴体が、砕けた手足でできた血溜まりに落ちた。
重い水音と、底の床にぶつかるくぐもった音が鈍く漏れ、しかしそれらを受けてもなお、巨漢だった男の表情に苦悶の表情は無い。
ただただ、驚いていたのだろう。事態を、感覚が認識していても、思考は追いつかなかったのだろう。
身をもって知らされた情報が、目の前の自身による血の海が、信じられなくて。
濁った瞳が、動揺に揺れる。
血の気の失せていく唇が震え、
「どウいウ」
最期の言葉すらも許されず、残った胴が、首が、後を追うように砕けた。
後に残ったのは、人一人分の血と肉の山で。
加えて、壊れたテーブルと椅子が、その痕跡を示すばかりで。
しばらく、誰も声を出さなかったし、物音の一つも立てなかった。
終息の安堵も、惨劇の悲鳴さえも、無かった。
「――いやー、助かりましたよオルビスさん」
静寂を最初に破ったのは、空々しい拍手と、軽薄な男声だった。




