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8.絶対悪の慟哭

『ですが、それだけの犠牲を払ったにも関わらず、八尋と早苗は普通の人生を、真っ当で穏やかで特別な事件のない平穏な人生を歩むことはできませんでした』


 アンリの話の時系列が、八年前から現代へと戻る。


 その瞬間、アンジェリカの表情がハッと再び引き締まった。


 アンリの話を聞いていなかったわけではない。逆に、アンリの話に集中し過ぎたがために、まるで自分がその現場にいたような、そんな錯覚に陥ってしまっていたのだ。


『私と契約したおかげで八尋と早苗はあの地獄でなんとか生還することができました。しかし、そのときになんとか逃げ遂せた狂信者達の誰かに、あるいはあの地獄にいた誰かに見られていたのでしょう。八尋が〝絶対悪〟と契約したということはいつしか、裏社会に広まってしまいました。〝絶対悪〟との契約。それが意味するところは、あなたも理解できるでしょう?』


 どこか責め立てるような棘のある声色に、アンジェリカは黙って頷いた。


 策略や陰謀というものに疎いが、それが意味するところくらいは理解ができる。


 それはつい先ほど、アンジェリカが八尋に向けていたものと同じなのだから。


『この家に再び帰って来れたその日から八尋と早苗の、正義の味方との戦いが始まりました。問答無用でしたよ。〝絶対悪〟に貶められた(・・・・・)八尋を本当の意味で救おうとする正義の味方は存在しませんでした。当時八歳の子供だった八尋がどうやって私と契約を結べたのか、どのような悪を為してきたのか、その理由に興味を持とうとした正義の味方すらいませんでした。絶対悪と契約を交わした存在そのものが悪である。八尋は八年間そう言われ、襲われ続けました』


 それは例えるならば、ゲームやファンタジーの中で勇者が魔王を倒すことと本質的に良く似ている行為だった。討伐される側の存在である魔王や魔族がなにをしたのか、ということではない。なにをしていなくても、なにを考えていても関係がない。彼らが彼らという存在であるからこそ、彼らは討伐されるのだ。


「話し合いで和解できなかったのですか?」


『話が通じる相手も稀にいましたが、最終的には同じでした。第一〝絶対悪〟と契約しているというだけで、基本的には平凡に暮らしていた八尋をわざわざ探して『討伐』しに来るような連中ですよ? そんな正義の味方が悪人の話に応じると思いますか? ……と言うか、カトリックの聖人ならばあなたもご存じなのではないですか? それほどまでに自らの信仰を振り撒く人間に話が通じるのかどうか、なんてこと』


「それは……」


『自分は絶対に正しいと、そこで思考停止した人間は下手な悪人よりも厄介な存在です』


 アンリの言葉に、アンジェリカは答えることができなかった。


 自らが信じる神を崇拝し、それを他人にも強要する。信仰を持つ人間には大なり小なりそういう傾向がある。ただ、それは例えば趣味や信条、経済や教育の在り方など他の分野にも似通ったところがあり、なにも宗教だけが特別というわけではない。人間誰しも他人から共感を得られたいのだ。あるいは純然たる善意から、自分が正しいと思うことを、素晴らしいと信じることを他人にも知ってもらいたいのだ。


 それは常人であっても狂人であっても変わらない、人間が持つ自然な感情。


 逆に言えば人間は誰もが持つそういった感情に囲われ、周囲の意見と自分の意見に適度な折り合いをつけながら生きているのだ。


 だがときに、他人の意見と適度な折り合いをつけられない人間が存在する。


 彼らにとっては自分の考えこそが絶対なのだ。自分こそが正しくて、それ以外の考えは間違っているという妄執に近い思想。言うなればそれは〝絶対正義〟。自分のそれと一致しない思想には憎しみすら抱くほどの、正気とは思えないほどの自己肯定。


 だが、自分の行いこそが〝正義〟だと信じ込んだ信仰など、害悪以外のなにものでもない。


 そこには他人の心を慮る意志も自身を省みる気持ちも存在しないのだ。その考えが他人を不幸に追いやるものであったとしても関係がない。根本的に、他人の意志や都合など考慮に入っていない。自分が正しいと思い込んだ人間が、他人の意見に耳を貸すものか。


 だから八尋は、自分を襲った正義の味方を例外なく殺してきた。


 わざわざ八尋の下にやってくる正義の味方は、つまりそういう人間達なのだから。


 それが分かっていても、アンジェリカは問わずにはいられなかった。


「どうして、そんな……」


『おかしいと思いませんか? 八尋と早苗が、親もなく二人暮らしを維持できることを』


 しかし、アンリは唐突にアンジェリカに逆に問いかけた。


 再び答えに困窮したアンジェリカは、考えると共に八尋と早苗に視線を向けた。


 唇を噛み締めるように表情を引き絞ったままの八尋と、俯いたままの早苗。


 アンリが話す間、一言も発しなかった二人を心配しつつも、八年前に神楽威一家が為したことへの衝撃にひとまず蓋をし、アンジェリカはアンリに答えた。


「それは、薄々思っていました。ですが、誰かが後見人になって……」


『そんなわけないでしょう。私と契約したとはいえ、両親を失った当時八歳と四歳の子供ですよ? いくら被害者が多くて行政が対応に追われていたとしても、保護されない子供がいて周囲の人間が黙っているわけがない。だから八尋は、ドゥルジと契約したのですよ』


「……つまり、どういうことなのですか?」


『八尋の両親が八尋達を守るために他を犠牲にしたように、八尋も平穏な毎日を生きるために、私の〝無知〟と、ドゥルジの〝虚偽〟の識能を手に入れざるを得なかったのです』


 そもそも、平穏な日常とはなにか。人並みの人生とはどんなものなのか。


 それを考えたときに誰もが思う生活は、ある程度の違いはあれど極めて地面に地に足のついたものになるだろう。


 つまり、労働によって平均的な収入が得られ、誰一人欠けることなく家族がいて、五体満足の健康体で、卒業や就職、試験などそういった日常にありえる事柄以外の特異な行事や事件が起こらない人生。特筆することもない、日本中で有り触れたなんの変哲もない、物語としてわざわざ語るべくもない、誰でも実現が可能なものだ。


 それが〝絶対悪〟と契約することで地獄を乗り越えた八尋達にとってどれだけ矛盾した願いだったのか、あの土壇場で八尋の両親は気付いていたのだろうか。


 残された子供二人だけで平凡な日常を歩むなど、到底不可能なことだ。


 だから八尋はあの地獄の中で願い、実行したのだ。


 他でもない。ただ両親が自分達に願ったような、有り触れた人生を生きるために。


『子供の二人暮らしが破綻しないように、ドゥルジと契約した八尋はまず自分と関わる街中の人間の認識を変えました。〝神楽威家が子供二人だけで暮らしているのは、なんらおかしいことではない〟とね。他にも細かい条件は色々付けましたが……これでこの街にいる限り、人々は八尋の身になにが起こってもそれは日常起こりえる、特別ではないことだと認識するようになりました』


 それは即ち〝無知〟。八尋の身になにが起こっても彼らはそれを知らないし、そもそもそれが異常なことだと知らない、分からない。両親がいないことを理解できず、八尋の身に起こった特異なことをすぐに忘れてしまう。


 それは即ち〝虚偽〟。認識を変えられた彼らが八尋の情報を得ても、脳内での認識を変えられているため正確な情報が得られず、正しい判断を下すことができない。仮に実体化したアンリが街中を歩き暴れまわろうとも、彼女が〝絶対悪〟の神様であるということを認識できない。


 言うなればそれば、鳴田市民総白痴化計画。


 この街に住む人間は誰一人として、八尋達の特異性を認識することができないのだ。


『それは対契約者用のステルスでもあります。目で見える情報ではなく認識そのものが偽られるわけですから、私の正体をこの街で看破することは難しいでしょう。それでも、高位の存在や虚偽を看破する類の識能を使われた場合には通用しないのですが』


「それはっ……!」


 アンリが話す八尋の悪行に、アンジェリカは思わずソファーから立ち上がりそうになる。


 自分の都合の良いように街中の人々の認識を弄るなんて、どの観点から見ても許される行為ではない。例えその願いがどれほど無害なものであったとしても、〝正義〟の立場にある者達に討伐されて然るべき、明らかな悪行である。


 そう主張しようとしたアンジェリカは、しかし。


『八尋の寿命二十年分。それが、八尋がドゥルジに支払った対価です』


 アンリが被せるようにして続けた言葉に、アンジェリカは再び言葉を失った。


「二十年分の寿命って……」


『街中の人々の認識を偽り、さらに早苗を護るために長期契約を結んでいますからね。そのくらい払わないと契約の維持は出来ないでしょう。追加対価として八尋がこれまで始末してきた正義の味方も生贄として払っていますが、契約の根幹は八尋の命そのものです』


 他にも正義の味方が持っていた法具や触媒なども売り払って生活費に変えていますが、とアンリは続けたが、その説明はアンジェリカの頭にはあまり入っていなかった。


 自然と、考えてしまったのだ。


 二十年分の寿命――普通に生きたとして、残りの人生の三割近くを対価に奉げるということの意味を。


 それは間違いなく、なんの変哲もない平穏な日常を生きる大多数の常人には理解のできない異常な行為。一歩間違えれば異常者の側に転がり落ちてしまいそうなほどに危うい意志。


 普通に生きるためにはまず必要のない対価を奉げなければ普通に生きることすらできないとは、どのような皮肉なのか。


 平穏な日常を生きるために凡庸な意志を捨てた八尋の精神は、果たして尋常なのか。


 それは、やむを得ない緊急回避に近い行いだったのではないか。


 だが、それでも。


「それでも……私は、神楽威さんのことを肯定することができません。理由があったのは分かります。ですが人を殺し続けることを……悪で在り続けることを、私は許すことができません」


 それでもアンジェリカは、八尋を肯定することができなかった。


 どう取り繕うとも、事情を考慮に入れようと、八尋の行いは間違いなく悪いことだ。


 八尋が有するそれは、アンジェリカの持つ意志とはまったく正反対の思想。


 どのような理由があろうとも、どれほどの決意があろうとも、到底肯定することなどできない悪の行い。八尋が出会ってきた正義の味方の性質如何に関わらず、今すぐ止めるべき所業。


『だったら、どうすれば良いのですか?』


「心さえあれば人はやり直すことができます。わざわざ悪に傾倒して自分達を守ることもありません。これからは私達カトリック教会に任せてください。迷える子羊を救うことが我々の本来の努め。私達に任せてくだされば、苦しみの続く〝絶対悪〟で在り続ける必要なんて――」


「アンジェ。お兄ちゃんはね。きっと生き残ったのが自分一人だったら、そんなことはしなかったんだよ」


 不意に、それまで俯いたまま黙っていた早苗が顔を上げ、口を開いた。


「私達を襲った正義の味方を全員殺したのもそうだよ。お兄ちゃんは殺すことが好きでそんなことをしたんじゃない。悪いことをしたいからそうなったんじゃない。殺さないといけないって痛いほど理解したから、それが絶対に必要なことだって思い知らされたから、殺したんだよ」


 そう語り始めた早苗の浮かべる表情に、アンジェリカは悲しみに表情を歪めた。


 アンジェリカのことを見つめるその瞳に同居する、確かな怒りと悲しみ。


 それは、悲痛な叫びのようだった。


「私の両脚は八年前の事故が原因じゃない。一番最初……お兄ちゃんがまだ殺しきれなかった相手の逆恨みで、こうなったんだ」


 言い、早苗は視線を自分の両脚に落とした。


 常に膝掛けが欠かせない、今にも折れそうなほどに細い下肢。車椅子生活を余儀なくされた足は動かすことができないため筋肉が発達せず、健常者に比べてひどく冷えやすいのだ。


「呪いなんだって。下肢の末端からダメになっていって、それが最後には内臓に到達して死に至る、相手を可能な限り苦しめて殺すための呪い。お兄ちゃんとアンリのおかげでなんとか両足だけで呪いは止まったけど、多分この足はもう動かない。だから、お兄ちゃんも私も理解したんだ。あの人達には話なんて通じない。殺さないとダメなんだって」


 訥々と語る早苗の言葉に、アンジェリカは泣きそうなほどの悲しみを覚えた。


 その声は決して、早苗のようななんの罪もない少女が出してはいけない声だと思わされた。


 どうしてなにも悪くない彼女が、これほどまでに悲痛な表情を浮かべなければならないのか。


「私は、文字通りの足手まといなんだ。私がいたから、お兄ちゃんはドゥルジと契約して、相手を殺さないといけないようになったんだ」


「早苗!」


 早苗の言葉を遮るように、八尋が初めて口を開いた。


 閉じた網戸が震えるほどの怒声。


 しかし俯いたまま放たれたその怒鳴り声に、早苗は少しも怯んでいなかった。


 事実を伝えなければならないと、八尋を無視して声を張り上げ続けた。


「私がいなければお兄ちゃんはこんなに苦しまなくて済んだ。人を殺さなくても済んだかもしれない。自分の命の一部を奉げてまでドゥルジと契約しなくて良かったのかもしれない。だから、本当に悪いのは私。本当の〝絶対悪〟はアンリでもお兄ちゃんでもなくて、お兄ちゃんにそんな決断を強いた私なんだよ」


「違う! 全部、俺が悪いんだ! 人を殺すのも、早苗が傷付いたのも〝絶対〟〝悪〟いのは、全部俺の方なんだ!」


 早苗の言葉をかき消さんばかりに、八尋は叫ぶ。


 それはひどく、乾いた叫び声だった。


 そうでなければならないと、泣き喚く子供のようだった。


「他人なんてどうなっても構わない! 必要なら何人だって殺してやる! 俺は、俺の周りの世界だけを守るために、〝絶対悪〟で在り続けるんだ!」


「そこに……」


 感情を爆発させて叫ぶ八尋の本質を垣間見たような気がしたから、なのだろうか。


「あなたが守りたい世界の中心に、あなたは存在しているのですか?」


 自然と、そんな言葉が零れていた。


 八尋の両親が願ったことも、八尋が今願っていることも、本質は同じなのだ。


 ただ、平穏な日常を守るためだけに。


 ただ、自分の世界を守りたいがために。


 彼らの中心にいるのは自分ではなく、自分の世界を構成する大切な人達なのだと。


 ひどく自己中心的なのに肝心の自己が中心にいない、憐れなほどに悲しい想いだとアンジェリカは感じた。


「目的のために必要ならば、自分だってくれてやる!」


 必要だったから、八尋は二十年もの寿命を対価に捧げたのだと八尋は叫ぶ。


 おそらくそこに、躊躇いなど微塵も存在しなかったのだろう。


 自身の目的のためならば、自身ですらも迷いなく切り捨てることができる。


 神楽威八尋とは、そういう人間なのだ。


 あまりに歪んだ神楽威八尋という個人の在り方に、アンジェリカは戸惑いを覚えた。


 彼は大きな罪を背負った咎人であり、同時に悪に取り憑かれた迷える子羊でもある。きっと自分は聖人として、正義の使者として、神の使途として、救世主として、八尋を断罪し救うべきなのだろう。これまで自分はそうしてきた。多くの悪を裁き、多くの人を救ってきたと思う。これからも自分は罪を裁き、多くの人を救うべきなのだと思う。


 そんな自分は、一体どうやって八尋の罪を裁き、八尋を救うべきなのだろうか。


 彼を今この場で責めることが正義の行いだとは少なくてもアンジェリカには到底思えなかった。八尋は間違いなく倒されるべき悪側の存在である。しかし、あまりに歪な八尋の在り方にアンジェリカ自身が強い戸惑いを覚えていた。なにより、八尋は自身が救われないことを望んでいるような、そんな気がしたのだ。


 その戸惑いが、八尋がアンジェリカに覚えたそれと良く似ている感情だということは、どのような皮肉なのだろうか。


 その立ち位置も、願いも、意思も、まったくの正反対。


 ただ、二人の在り方そのものが尋常ではないという点においてのみ、二人は似通っている。


 始まりの位置が同じでありながら、どうしてこれほどまでに二人は異なっているのか。


 対極にある二人にとって。


 相手の心は、完全に理解の範疇を超えていることだった。


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