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4.正義の味方が大嫌い

「はぁ……クソ、どうして買い物だけでこうなるんだよ……」


 満身創痍。疲労困憊。


 肩で息をし、両手に大量の買い物袋を下げて帰路につく八尋の姿は、正にその言葉が相応しいほどに疲弊しきっていた。


「神楽威さん達は、随分と商店街の人達に好かれているのですね?」


「好かれているって言うか……俺は子供の頃からこの街に住んでいるし、アンリは商店街の人達にも人気だからな。親もいないし、子供の二人暮らしってことで特に目にかけてくれてるんだよ」


 問題は、商店街の人達は年配の人が――肉屋の主人のような人間が多かったということだろう。あの後、他の店の前を通りかかるたびに声をかけられ、アンリは可愛がられ、勝手に傍を歩くアンジェリカとの関係を勘違いされてサービスをされて……といったことをひたすら繰り返して、その対応に終始八尋は追われ続けたのだ。


『いやぁ、これだから商店街の偶像(アイドル)は止められませんねぇ』


「アイドル……ですか」


「俺は偶像(アイドル)と言うよりは詐欺師だと思うがな」


『失礼ですねぇ。人聞きの悪い』


「事実お前は絶対悪だろうが」


『少なくとも、私が人間のアイドルのように可愛いことは事実ですよ』


「自分で言ってりゃ世話ないな」


 そしてアンリはといえば商店街の人達への対応に追われる八尋に対して一切の助け船を出さず、満面の笑みでもらったものを受け取り、制止も聞かず食べ続けていた。今もこうして自宅に向かいながら、八百屋のおじさんからもらったリンゴを齧りつつ歩いているところなのだ。


「大体な、アンリ。お前も少しは助けろよ」


『今自分で言ったではありませんか。あなたは絶対悪に一体なにを期待しているのですか? アホですか? 私と八年間も契約を維持しておいて、なにも学んでいなのですか?』


 半ば呆れたような視線を向けて、アンリはリンゴを齧りながら八尋を詰る。


 だが、その口元が愉悦に歪んでいることに気付かないほど、八尋は間抜けではなかった。


「まぁ、そういうフォローをお前には期待してないけどさ……」


 分かっていても、そう言わずにはいられないほどに。


 正に悪神の手も借りたいほどに、八尋は苦労していたのだ。


「私が言うのもアレですが……あなたは仮にもゾロアスター教の主神格である〝最高善〟アフラ・マズダーと対を為す世界最古の〝絶対悪〟アンリ・マユなのでしょう? かつて隆盛を誇った一宗教の最上位の一柱として、それで良いのですか?」


『では逆に尋ねますが、意図的に人々の期待を裏切ることは良いことですか? それとも悪いことですか?』


 咀嚼したリンゴを呑み込んでから、アンリはアンジェリカに逆に問いかけた。


「悪いことだと思いますが……それは屁理屈です」


『屁理屈こねて誤魔化すことも、悪いことでしょう?』


「む……」


「諦めろ、アンジェリカ。その手の口の巧さで、人間は悪神には絶対に敵わない」


『いえいえ。そうでもありませんよ』


 世界最悪の悪意を持つ神だからこそ、絶対悪と呼ばれているのだと。


 その言葉を否定したのは、他でもないアンリ自身だった。


『確かに私は〝絶対悪〟この世の悪なるものを司る存在ですが、こと悪意というものにおいては、我々のような悪魔・悪神に分類される存在は、人間には絶対に敵いませんよ』


「……ああ、そういえばそうだったな」


 目の前の〝絶対悪〟の存在に囚われてつい忘れがちなことではあるが、その事実を八尋は痛いほどに知っている。


 アンリ・マユは間違いなく絶対悪を司る存在だ。


 だが、こと『悪意』と呼ばれるものにおいて、悪魔も悪神も人間には絶対に敵わない。


 それはこの八年間で八尋が学んだ、世界の真理のひとつだった。


「そう、なのですか?」


 しかしその言葉に、アンジェリカはきょとんとした表情を浮かべている。


 それは無理のないことなのだろう。


 彼女は人の悪意とは対極にいる存在。


 人の善意を信じることに特化した、ある意味で究極の善人なのだから。


 確かに彼女が現代社会においてそれほどの善性を保有していられるのは、そういう教育を彼女が受けていたためではある。彼女のような人間に求められるのは教徒を含んだ一般大衆に対する象徴としての神聖さであって、現実的な思考や俗世に毒された趣向ではない。なにより、彼女を天使と契約させ続けるためには、彼女の善性を維持し続けなければならないのだ。下手にひとの汚い部分に毒されないためにも、彼女が所属するバチカンが彼女に対してそう教育するのは妥当な話ではあるのだ。


 だがそのような教育を受けたからといって、果たして人間はこれほどまでの善性を維持し続けることができるのだろうか。


 混じり気のない、嘘偽りも脚色もない、本物の善性を持つ聖人。


 天使の側から契約を請われた聖人だからだとか、現代の救世主に一番近い存在であるからだとか、そんなことはおそらく関係なく。まるで物語上の天使のように神聖な、理想的な人間足る存在を、心のどこかで誰もが求めた結果なのではないか。


 そんな彼女と、わずかな間とはいえ同じ時間を過ごしたから、なのだろうか。


 それとも、彼女のような人間が奇跡に近いほどの存在だと分かるからだろうか。


 これまで人間の悪意というものに多く触れてきたハズなのに。だからこそ、人間は悪意なしでは生きられない存在なのだと分かっているハズなのに。〝絶対悪〟と契約をした自分にとって、彼女のような〝正義の味方〟は敵であるハズなのに。


 アンジェリカはそのままで在るべきなのだろうと、そんな勝手なことを八尋は思っていた。


「ま、お前には分からないだろうなぁ」


『ええ。天使に見込まれるほどの善性を持った人間には、人間の悪の深さなど理解できないでしょうね』


 もっとも、そう思っていたところで、対応を変えるわけではないのであるが。


「……二人して、私のこと馬鹿にしてませんか?」


『商店街のキャッチに全部引っ掛かるような間抜けがなにを言いますか』


「商店街のおじさん達の質問に全部馬鹿正直に答える人間が、馬鹿でなかったなら一体なんなんだ?」


 何故なら八尋は、どうしようもない『悪人』なのだから。


「……ひどいです」


「俺は悪人だしな」


『私は悪神ですから』


 そう答えた八尋とアンリに、悪びれる様子は少しもない。


「ところで、アンジェリカ。そろそろ家に着くんだが、お前はまさか監視と称して俺の家に泊まる気じゃないだろうな?」


「その点は問題ありません! そこを忘れるほど、私は愚かではありませんよ」


 八尋の追及に、胸を張って自慢げに答えるアンジェリカ。


 名誉挽回のチャンス、とでも思っているのだろうか。


『おお、素晴らしいまでのドヤ顔ですね。そんなに自信があるのですか』


 しかしその自信満々な仕草に、八尋はむしろ嫌な予感を覚えていた。


「ちなみに、どうする気なんだ?」


「はい。あれからラジエルに調べてもらったのですが、八尋さんの御住居の隣の家は空家ですよね」


「ああ。確かに八年前から誰も住んでないが」


 そこまで話して、はたと八尋は言葉を止めた。


 彼女が何を言い出すのか、その嫌な予感に検討がついてしまったのだ。


「まさか、空家を押さえたとか言わないよな?」


「押さえましたが」


 さも当然のように、アンジェリカは確かにそう言った。


 しっかりと、はっきりと、聞き逃せないほどに丁寧な言葉で。


「……その予算はどこから出たんだ?」


「私、一応バチカンの祓魔師(エクソシスト)ですので毎月お給金をもらっているのですが、寮では食事も出ていたので使い道がなくて、ずっと貯めていたんですよ。ですので、ラジエルに頼んで現金で、即決で不動産屋さんにお願いしたのです」


「しかも自腹かよ!?」


『これは……少々、我々の予想の斜め上をいく答えでしたね……』


 八尋どころかさしものアンリも、アンジェリカの答えには耳を疑わずにはいられなかった。


「そういうわけなので、今日からお隣さんですね。宜しくお願いします、八尋さん」


「あ……ああ、よろしく?」


 ペコリと頭を下げたアンジェリカに釣られて、八尋も頭を下げる。


 まさに電撃戦。電光石火のような手際の良さだった。


「清掃業者さん達に掃除はしてもらいましたが、家財道具や私物を運ぶのは明日になりそうです。今日は最低限の荷物だけ、ガブリエルに運んで来てもらいました。そういえば日本では引っ越したとき、隣近所にヒッコシソバなるものをお渡しするんでしたよね?」


『そうですね。てんぷらも付けていただけると私は嬉しいです』


「相変わらず順応早いな、お前は」


『速さが足りませんよ、八尋』


「意味が違うよな、それ」


 このわずかな時間の間に判明したアンジェリカの行動に対する突っ込み所があまりに多すぎて、八尋は目眩を覚えるほどだった。


 本当に、善意のみに突き動かされた行動でそこまでやってのけるとは。


 しかもただの考えなしではなく、基本的な部分で有能だから却ってタチが悪い。


 大物か、あるいは紙一重のアホの子なのか。


 その判断を下すには、彼女の言動はあまりに八尋の常識からかけ離れ過ぎていた。


『私は八割がた、ただのアホの子だと思いますが』


「さらっと人の心を読むな」


 契約の(パス)を繋いでいるために、八尋の考えは基本的にはアンリに筒抜けである。


 その辺りのプライバシーは各々の契約主の良心に任されているのだが、そのような気遣いや『良心』などというものをよりにもよってアンリに期待できないため、八尋も半ば諦めている。


「誰がアホの子ですか。私だってやるときはやるんですよ!」


「確かにお前は頭は良いし、生物としての基本能力も高いのかもしれないが……」


 その突飛な行動につい忘れがちになってしまうが、実際、このアンジェリカという名の聖少女はとても優れた人間なのだ。


 それまで住んでいたバチカン市国の公用語であるイタリア語とラテン語の他にも外交用語のフランス語、ドイツ語、英語、日本語の六ヶ国語を扱うマルチリンガルであり、日本では現地の年代にあわせて高校に留学しているだけで、すでにイタリアの大学を卒業している。


 また、契約の副産物として発生する魔法の才能においても彼女はずば抜けているのだ。


 人間と天魔や悪魔が契約することで、双方には(パス)と呼ばれる霊的な繋がりが生まれる。


 この繋がりを介して、双方の存在は命持つ者のみが生成することのできる精気(オド)と、天魔や悪魔といった概念存在のみが生成することのできる魔力(マナ)をそれぞれやり取りすることができるようになる。そのやりとりにより人間が(パス)を通して精気(オド)を送ることで天魔や悪魔といった概念存在は(エーテル)体から(アストラル)体となり、初めて世界に物理的に干渉することができるようになる。


 それと同様に、概念存在が(パス)を通して魔力(マナ)を人間に送ることで人間は魔法と呼称されるような超常現象を引き起こすことができるようになる。だが、人間が受け取ることのできる魔力(マナ)の量には個人差があり、魔力(マナ)許容量を超えて魔力(マナ)を受け取ると肉体や精神が耐えられずに崩壊してしまう。また、精気(オド)と異なり魔力(マナ)には個性のようなものがあるため、使用できる魔法は契約した概念存在の識能や神格、位階といった要素に大きく左右されてしまうことが多い。


 そのため、仮に同様の対価によって契約を結んだとしても、使える魔法の強度や種類などは契約を結んだ人間や契約側の存在の違いによってまったく変わったものになるのだ。


 そしてアンジェリカは魔法が碌に使えないほどに許容量の低い八尋とは対照的に、その魔力(マナ)許容量が人間としてはずば抜けて大きい。例え天使四柱から同時に魔力(マナ)の供給を受けてもしばらくは自我を保っていられるほど、平均的な聖職者と比較しても魔法に対する才能が桁違いなのだ。

天使の識能や契約の恩恵もあるとはいえ、同じ人類とは思えないほどに優れた彼女の才能もまた、彼女が聖人として世界中に知られている要因のひとつであるだろう。


「だが、それにしてはやってることが常識離れ過ぎていてなー」


「た、確かに私は少し世間知らずかもしれませんが、それでも――」


 顔を赤くして弁明する、彼女の言葉を遮るようにして。


 くぅ、と可愛らしい腹の音が、八尋とアンリの耳に届いた。

『あっはっはっは! これは愉快ですねぇ! 齢十五にして六の言語を操り、大学を卒業し、魔法の才能は人類最強クラスで、世界中で崇め奉られる側の聖女が、救世主(メシア)が、腹を空かせて子供のように腹を鳴らしますか!』


「う、ううー……」


 見る見るうちに顔を真っ赤にして涙目で唸るアンジェリカと、それをニヤニヤと笑うアンリ。


 聖人としての彼女の威厳は、二人の前では最早残っていないに等しかった。


「はぁー。仕方ない。どうせこれだけの材料を俺達だけじゃ消費しきれないし、お前達の分も作ってやるよ」


 わざとらしいため息ひとつ。


 それから、両手に持った袋を少しあげてみせる。


 八尋の言う通りその袋に入った食材の量はかなりのもので、痛みが早いものが混じっているというのにすべて消費しきるには時間を要しそうだった。

「え……でも、良いのですか?」


「いや。良くはない。良くはないが、今日の昼からお前を見ていて思ったんだ。お前みたいな人間は、見ていないところでなにをしでかすか分からない。だから、俺の目の届く範囲にいてもらわないと心臓に悪くてな」


 アンジェリカの行動は悉く八尋の想像の範疇を超えるものだった。そんな彼女が八尋の目の届かないところでなにをするのか、放っておく方が危険だと八尋は思ったのだ――アンジェリカに説明したその言葉が実際には建前に過ぎないことに、おそらく彼女は気付けないだろう。


 確かにアンジェリカ自身はありえないほどの善人だが、だからといって全面的に信じて良いわけではない。なにせ、彼女のバックにいるのはあのバチカンなのだ。アンジェリカが主張する「八尋の潔白を証明する必要がある」という言葉からも、アンジェリカが元々はバチカンの命令で八尋に接触したことが伺える。


 ローマ教皇から連なるカトリック教会の総本山が実際には自分のような存在にどういったスタンスを貫いているのかは分からないが、警戒するに越したことはない。


 極端な話、絶対悪と契約した異教徒として問答無用で殺されることもあり得ない話ではない。


 故に、八尋自身がアンジェリカを監視する意味でも、なるべく彼女の様子や言動を観察しておこうと八尋は思ったのだ。


 幸いにして、アンジェリカ自身は基本能力的には有能ではあるものの駆け引きや腹芸ができるほどの経験が少なく、ハッキリ言ってアホの子だ。これならば会話から情報を得ることは比較的容易であり、親交をある程度深めておけば色々と対処もしやすくなるだろう。


 これはそんな未熟な少女に常に傍で監視されていることを逆手に取った、八尋なりの防衛手段なのだ。


「しかし、施しの精神は善のもので、悪の原理……あなたの神格に反するのでは?」


『なにを言いますか。食料を無闇に無駄にすることは悪ではなくて醜悪です。人が数多持つ悪の中でも最も下劣で愚かな行為のひとつです。〝絶対悪〟の誇りにかけて、そのような醜い悪を許すわけにはいきません』


「捉えようによっては、俺達の都合の良いようにお前を使っているようにも見えるしな」


「……やはり屁理屈では、私はあなた方に敵いそうにありません」


 その発言はおそらく、彼女なりの皮肉だったのだろう。


 日常会話の範疇とはいえ、その程度なのだ。


 普段の何気ない会話ひとつから漏れた情報が原因で危機に陥ることもあるということをアンジェリカは知らないし、まだ理解もできていない。本来敵であるハズの自分がそういうことを考えているということにすら、彼女は気付いていないだろう。


 この期に及んで自分達に悪意が向けられていないことからも、それは容易に理解できた。


「……分かりました。あなたの人となりをより知るためには都合の良いことですし、私個人としても、夕飯を用意していただけるのは助かります」


「ああ。やっぱり料理はできないのか」


「し、仕方なかったじゃないですか! 料理なんてする暇もなかったんですから!」


「落ち着け。日本語がおかしくなってるぞ」


『まぁ、これだけの抜け作が料理上手なんて想像できませんし。ねぇ?』


 無論、彼女の未熟をわざわざ教えてやる理由も義理も無い。


 何故なら八尋もアンリも、悪側の存在。


 自分達の目的のために他人を利用することを厭わない、彼女とは対極の存在なのだから。


「アレだ。最近はコンビニとかあるし、料理できなくてもそんなに問題ないから……健康に気を使うように心掛けた食生活さえ送れればいいと思うぞ?」


「そんなフォローはいりませんよぉ!」


 そう叫ぶアンジェリカの声は、微妙に涙声になっていた。


 どうやら、料理ができないことを気にしているらしい。


 弱ったアンジェリカの表情を見て、さすがに弄り過ぎたかな、と八尋は少しだけ思うが、反省などしないし自身の行いを省みることもない。


 何故ならこの、アンジェリカという少女は不思議と、つい、苛めたくなってしまうのだ。


『ついムラッときてやった。今は反省している。だが、後悔はしていない。……と、そういうことですか、八尋?』


「……さて、なんのことやら」


「わ、私だってその気になれば、料理くらい……!」


「気にしなくていいと言ってるだろうに」


 表情がコロコロと変わるアンジェリカを適当に宥めすかしながら、八尋達は自宅に辿り着く。


 いつの間にかアンジェリカの所有物になっていた隣家に視線と共に複雑な感情を向けながら、八尋はポケットから取り出した鍵で玄関の固定を解除した。


「ただいまー」


 家の扉を開け、家中どころか隣の家にまでに届きそうな大声を出す。


 それは、幼少期から自然と身についた八尋の習慣のひとつ。


 アンリと契約するはるか以前から、八尋にとってそうすることは当たり前のことであり。


 日常の行為(ルーチンワーク)すぎて、思考が半ば停止してしまっていた。


『ところで、八尋』


「なんだ?」


『この頭の中が天使娘を連れて帰ること……早苗にはどう説明するのですか?』


「……あ」


 しまったと、そう思った頃にはもう遅かった。


 慌てた八尋が一瞬にして嫌な汗の滲んだ手に力を込めて再び扉を閉めようとするよりも早く、これまた隣家にも届きそうなほどに元気な声が家の中から返ってきた。


「おかえり、お兄ちゃん!」


 直後に神楽威家のリビングから玄関に続く廊下へと出てきたのは、八尋と似た髪の色をした中学生くらいの少女だった。八尋が帰ってきたことがよほど嬉しいのか、子犬を彷彿とさせる人懐っこい笑顔を浮かべている。その身体は小柄で、並んで立つと八尋より頭ふたつ分は小さいのだが、しかし初対面であるアンジェリカにはその差は直感的に分からないだろう。


 何故なら少女は車椅子に座っているのだ。身長差など分かるハズもない。


 神楽威八尋の妹であり、今年中学一年生になったばかりの少女、神楽威早苗。


 とある事情により車椅子生活を余儀なくされているが、それでも笑顔を忘れない健気な妹の、八尋にとっては良く見慣れた太陽のように明るい笑顔が、今日に限ってはまるでビックリ箱のように感じられた。


「あ、ああ、ただいま、早苗」


「お兄ちゃん、どうしてそんなに青い顔してるの? ……あれ、そっちの人は?」


「初めまして、神楽威早苗さん……で、いいのですよね? 私は神楽威さんのクラスメートであり、今日から隣に引っ越してきたアンジェリカ・癒泉・ミナルディです。どうか、よろしくお願いしますね」


 車椅子に座っている早苗に対して、アンジェリカは自然と膝を軽く曲げ視線の高さを合わせてから挨拶をした。十人が見れば十人、彼女に第一印象で好意を抱いてしまうほどの素敵な微笑みをたたえた、まるでお手本のような自己紹介。


 だが、彼女の名前を認識した早苗が浮かべた表情は、人好きのしそうな笑顔に対する好意でも、世界的な有名人が目の前に突然現れたことに対する素直な驚きでもなく。


「アンジェリカ……聖人!?」


 焦りと、異常なまでの警戒心。


 流れるような動作で下駄箱を開け、靴の空き箱の中に隠してあった拳銃を取り出し、アンジェリカに向かって構えた。それは八尋ですら対応しきれないほどの早業。時間にして一秒にも満たない一瞬で早苗は、車椅子に座ったままにして防衛体勢を取っていた。


「……」


 その反応があまりに早すぎたためか、それとも突然の危機に経験不足の頭が働いていないのか、アンジェリカは銃口を向けられてなお早苗の動きを認識できていない。自衛のために天使を召喚することもなく、なにもできずその場に立ち尽くしている。


 ……いや。違う。


 違うのだと、八尋は反射的にアンジェリカに視線を向けて、気付いた。


 初対面である車椅子の少女に拳銃を向けられ、剥き出しの敵意と殺意を向けられて。


 それでもなお笑顔を浮かべたまま、アンジェリカは敢えてなにもしようとしなかったのだ。


「ストップだ、早苗! そいつは敵じゃない!」


 アンジェリカがなにを考えているのか、この一瞬では判断ができない。


 そして、それとこれとは話が別だ。


 下手に事態を起こしては不味いと、咄嗟に庇うようにしてアンジェリカの前に立つ八尋。


 迂闊だったと、八尋は自分の判断の甘さを後悔していた。


 こうなることなど――早苗が〝正義の味方〟を見た瞬間に敵意を爆発させることなど、少し考えてみれば分かり切っていたことだったのに。


「だけど、お兄ちゃん!」


「今のそいつはただのクラスメートで、本当に隣の家に越してきたアホの子だ!」


「……本当? 私達の生活を壊したりしない?」


 尋ねながらも、早苗は銃を両手で構えたまま下ろそうとしない。


 だが、その震えを押し殺した声は、今にも泣き出しそうなほどにか弱いものだった。


「ああ。仮にそうだったとしても、俺とアンリがいる。……だから、銃をこっちに渡すんだ」


 優しい声で、目線の高さを合わせてから、八尋はじっと早苗の目を見つめて話しかける。


「大丈夫。今日は、こいつはただの客人だ」


「客人……お客様、なの?」


「そうだ。こいつは未だに料理ができないらしくてな。色々あって、俺が夕飯を作ることになったんだ」


「そっか……本当に〝正義の味方〟じゃないんだね」


 早苗の全身から緊張が解け、銃口が下がる。


 素直に言うことを聞いてくれたことに安堵のため息を漏らしつつも、早苗から敵意が喪失したことを確認してから八尋は早苗の指をグリップから優しく剥がし、銃を取り上げる。


 その細く小さな指は、拳銃を強く握り締めすぎたせいで赤くなっていた。


「良い子だ。ごめんな、怖がらせた」


 微笑み、八尋は早苗の頭を撫でる。その笑顔は〝絶対悪〟と契約を八年も継続できるほどの悪を持った人間とは思えないほど、心優しいもので。


 それから改めて、八尋はアンジェリカへと視線を向けた。


「……すまんな。騒がせた」


「いえ、お気になさらず」


 敵意を、殺意を向けられた。


 その事実を完全に把握できているにも関わらず、アンジェリカは八尋に対して微笑んで見せた。その笑顔からは腹に隠した敵意も悪意も怒りも――本来早苗に向けるべき、負の感情というものが微塵も感じられない。


 少なくともアンジェリカは、自らへと敵意を向けた早苗に対して敵意などを抱いているわけではなさそうだった。


「とりあえず、顔洗ってこい。夕飯ができたら呼ぶから、落ち着くまで部屋で寝てると良い」


「……分かった。お兄ちゃん」


 素直に八尋の言うことを聞き入れた早苗はハンドリムを器用に回して方向転換を行い、洗面所に向かう。


 その後ろ姿を見ながら、八尋は深いため息をついた。


 今日は自分が食事当番で良かったと心底思う。


 もしこれが早苗が料理中の出来事だったら、下手したら早苗は包丁を握ったままアンジェリカに斬りかかっていただろう。例え車椅子だったとしても、頭に血の登った早苗はそのくらいのことをしかねない。それに対し、一瞬の出来事だったとはいえ、アンジェリカは天使を召喚するどころか魔法を行使することもしようとしなかったのだ。


 危機に瀕してすら咄嗟に天使を召喚できないほどアンジェリカはやはり世間知らずで経験不足の平和ボケだ――そう判断を下すことは簡単だ。


 だが、それができないところがアンジェリカの恐ろしさなのだと、八尋は改めてアンジェリカに対する思いを心の中で強めていた。


「……日本では、銃は所持できないのではなかったのですか?」


「着眼点そこかよ! ……玩具だよ。ガス圧で動作する、市販のエアガンだ」


 説明しながら、八尋は取り上げた銃の弾倉を外してみせる。


 その弾倉には弾丸ではなく白色をした小型のBB弾が詰めてあった。日本製のエアガンは法規制が厳しいため威力こそ大したことはないものの、造り自体は本物と遜色がないほど、極めて精巧に造られているのだ。


 それこそ、銃器に詳しくない人間が見れば本物だと見間違えてしまうほどに。


「どうやら、そのようですね」


『まぁ、改造はしていますけどね。直径六ミリのベアリングボールをガス圧により秒速一五〇メートルほどで発射します。ついでに一発一発、丹精込めて私の呪いもかけてありますよ』


「……それは、人に当たればどうなるのですか?」


『触れた者の肉が腐り爛れる類の呪いですから、弾は肉にめり込みます。呪いなしでも、素人なら反射的にうずくまる程度の苦痛でしょうね。早く弾を摘出しないと腐敗が段々と広がっていきますし、目に当たればもちろん潰れます。それこそ地面に落した卵の如く、グチャッと』


 言うまでもなく、違法改造である。


「そんな危険なもの、今すぐ処分してください!」


『だが断わります。このアンリ・マユが最も好きなことのひとつは、自分が正しいと思っている人間を否定することです』


「ぐ……」


 八尋に押し付けられた買い物袋を両手に持ったまま、どこか胸を張ってそう主張するアンリ。


 その姿を尻目に八尋はアンリから買い物袋を受け取り、家に上がっていた。


「積もる話もあるだろうが、とりあえず家に上がろう。夕飯は一時間くらいで出来ると思うから、二人とも居間で待ってくれ」


「あ、神楽威さん。私はひとまず家の片付けがしたいので、また後で尋ねてもよろしいですか?」


「ん……それもそうか。分かった。時間になったら呼ぶから、そうしておいてくれ」


「はい。ありがとうございます、神楽威さん」


『つまみは肉系がいいですね。ワインは赤ですから』


「はいはい。善処しますよ」


 適当に話をしながら、八尋はここにきて確信を持っていた。


 ほんの少し前の早苗の敵意に対して、アンジェリカはわずかの敵意も悪意も抱いていない。動揺もせず、何気ない日常を続けられるほどに。それでもまだアンジェリカは、早苗のことを信じている。


 それが、どれほど異常なことなのか。


 自身の異常性にまったく自覚のない彼女に、八尋は戦慄すら覚えていた。


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