3.天使と偶像
善人であるのか、悪人であるのか。
自分がどちらの人間であるかと問われたとき、八尋は躊躇いなく自分は悪人であると答える。
自ら積極的に他人を害することを好むわけではないが、絶対悪との契約を八年間も維持している時点でその悪性は紛れもないものであるし、それを抜きにしても自分は決して善人ではないと思っているからだ。
そんな自分がどうしてアンリだけでなく、聖人であるアンジェリカと一緒に歩いているのか。
複雑な感情は、八尋の感覚を鈍らせていた。
「それで、これからどこに向かわれるのですか?」
鞄を持って、無邪気な微笑みを浮かべたまま自分の傍を歩くアンジェリカ。
そうなったのがつい先ほどのことなのに、すでに八尋の心労はかなりのものになっていた。
ただでさえ昼休みの呼び出しでクラスどころか学年中から集めたくもない注目を集めたというのに、その後授業に戻ったアンジェリカは文字通り八尋の傍から離れようとしなかったのだ。
それも授業の真っただ中に、クラスメートの視線の集まる中で教室の一番後ろに座る八尋の席の後ろにわざわざ自分の席を持って来て座ったのはまだマシな方だ。その後の休み時間に男子トイレに入った八尋についてトイレに入ったり――さすがに途中で気付いて顔を真っ赤にしてトイレから飛び出したが――下校前の掃除時間にも八尋が掃除したその後ろをついて箒で掃いて回ったりと、徹頭徹尾、八尋から離れようとしなかったのだ。
傍で監視するにも限度があると言っても聞き入れない。
周囲のクラスメート達の視線も気にしない。
つい先ほどまで戦っていたとは思えないほどの敵意のなさも、あまりの警戒心のなさも、絶対悪と長く付き合っている八尋にとっては想像の埒外にある。しかも、それらの行為がすべて彼女なりの善意であるために、八尋もあまり強く言うことができなかったのだ。
だが、仮に強い言葉を使ったとしても、八尋が悪人ではではないと結論付けるまで彼女が八尋の傍から離れることはないだろう。この少女は、他人のためならば自分がどうなろうと気にならない類の人間なのだ。それは、この短い時間でも十分に理解できることだった。
その極端なまでの善性が、彼女が聖人足る所以であり。
八尋に言わせれば、この少女はあまりにも世間知らずでお人好しで、それなのに妙なところで頑固者な『アホの子』だった。
「あー……とりあえず、商店街に向かうぞ」
「商店街、ですか?」
「これでも、家事は俺がやってるんでな。夕飯の材料を買って帰らないといけないんだ」
『八尋。契約の対価、忘れないでくださいね?』
「分かってるって。つまみも……まぁ、適当に用意してやるよ」
幾分か疲労の滲み出る八尋に対して、アンリはいつも通りのマイペースを貫いている。
考えてみれば仮にも神である彼女が性格や言動においてぶれることなど絶対にあり得ないことではあるのだが、それでもアンジェリカのような異質な存在を目の当たりにして自らを貫ける辺り、さすがだと八尋は妙な感心を抱いていた。
「……神楽威さん。ひとつ、聞いてもいいですか?」
「なんだ?」
「あなたは、どうして……ご両親を、対価に捧げたのですか?」
その問いに、八尋の表情がほんのわずかだけ歪む。
それはいつかは来ると思っていた、今の八尋の根幹に関わる問いかけ。それは彼女にとっても重要なのだろう。歩きながら八尋に向けられた表情からは、笑みが完全に消えていた。
「少しお話をして、わずかな時間とはいえ傍で見ていて、思いました。あなたは少なくとも、他人を傷つけて喜ぶ類の極悪人ではない。そんなあなたが、どうしてご両親の命を対価に契約を行い、八年間もの間〝絶対悪〟との契約を維持できているのか。私には理解できないのです」
「…………」
その問いかけにやはり、八尋は答える言葉を持てなかった。
企業や法人レベルならばともかく、個人単位の契約の場合、契約期間は短いことが多い。それは長期間の契約を維持できるほどの対価を準備することが個人には難しいこともあるが、それ以上に天魔や悪魔など契約側の存在が納得できるだけの性質を人間が長期間維持することが難しいためだ。
そもそも契約とは、ただ相応の対価を用意すればいいというわけではない。
天魔にしろ悪魔にしろ、神格を有する存在が『契約に値する人間である』と、その人間の持つ性質や契約内容を認めなければ契約することはできない。
そして、仮に契約期間中であったとしても、契約主の性質や主義信条が変化したり、契約側の意向や神格に反した場合、契約が途中で打ち切られることは珍しいことではない。
だからこそ、契約をしている存在によってその人間の性質はある程度判断できる。特に、アンジェリカや八尋のように神格や識能がはっきりとしている高位の存在と契約を何年も維持しているとなると、その性質を疑うまでもない。
概念によって存在そのものがある程度定義づけられ、固定化されている天魔や悪魔と異なり、人間はその性質が容易く揺らぎ、変化する。そんな生き物が、契約側の存在に認められる性質を維持し続けるということは、同じ目的意識を有した集団ならばともかく、個人単位では極めて困難なことだ。
だからこそ逆説的に〝より高位の存在と強力な契約を結び、それを維持することができる〟ということは、企業あるいは個人が有する性質の証明になっているのだ。
片や、絶対悪に認められるほどの極悪人。
片や、自分のような悪人にも善意を向けるような、底なしのお人好し。
だから、なのだろう。
「……ひとつ。お前は肝心なことを忘れている」
「え?」
「命を持つ存在が対価に捧げられる場合、自らが対価になることに合意していなければ対価になることはない。他人の意志で、本体の合意もなしに生物をそのまま対価に捧げることはできないんだ」
「あ……!」
『八尋……?』
目立つことを嫌うが故に自ら能動的に動くことをほとんどしない八尋が、わざわざアンジェリカが気付いていなかった事実を指摘した。
その行動のあまりの八尋らしくなさに、アンリは珍しく眉を顰めていた。
「ならば、あなたは両親の命を奪ったわけでは――」
「だが、その契約を俺は八年も維持している。八年もの間、俺は〝絶対悪〟が納得できるだけの契約主で在り続けていることもまた、事実だ」
「それは、一体どういう……」
半ば一方的に独白する八尋に、アンジェリカは詳しい説明を求めようとする。
「ほら。商店街が見えたぞ」
「神楽威さん、質問に」
「今日は色々買わないといけないからなー。ちょっと急いで行くぞ」
「わ、分かりました」
だが、これもまた強引に話を打ち切り、露骨に話を逸らした八尋に、これ以上は無駄だと判断したのだろう。あるいは、ただ八尋の言葉に押し切られてしまっただけなのか。
その件について、アンジェリカがそれ以上話を続けようとはしなかった。
『はぁ。まったく、あなたと言う人は……』
「文句があるなら、つまみをするめいかにしてやるぞ」
『え。ちょっと待ってください。私がイカが苦手なのは知っているでしょう?』
「それ以上言わない、という契約だろうが」
『ぐぬぬ……』
少し早足で歩きながら、商店街のアーケードの中に八尋達は足を踏み入れる。
大型ショッピングセンターの台頭により地方では商店街というものは急速に廃れつつあるが、八尋が住むような都心部の近くでは意外と生き残っている。地域密着型、古き良き時代の商売方法……コスト優先のスーパーなどでは真似のできない接客方法で彼らは生き残りを図っているのだ。
事実、ここから歩いて五分とかからない場所に日本神話に出てくるうちの一柱と契約した大企業を経営母体に持つ、立体駐車場を備えた大型ショッピングセンターが開店して五年になるが、この商店街は少しも寂れていない。むしろ、大型ショッピングセンターに負けないようにと以前に比べてより熱気を増しているくらいだ。
契約の恩恵を受ける大企業にも負けないほどの、人々の強い想いと努力。
そんな、契約に頼らずに努力を重ねる人間が生み出す活力というものを、柄ではないと感じながらも八尋は好ましく感じていた。
「おう! 八尋君にアンリちゃんじゃないか!」
アーケードに足を踏み入れるなり、白髪の混じった角刈り頭の男性に声をかけられる。
その声に向かって、八尋もアンリも普通に挨拶を返した。
「ああ、こんにちは」
『こんにちは、お肉屋さん』
「ちょうど良かった。今、特製コロッケが揚がったところなんだ。肉を買ってくれたらひとつ五十円にオマケしとくけど、どうだい?」
『ほほう。それは素晴らしいですね、八尋』
「だなぁ。……じゃあ、牛肉を二百グラムください。あ、牛脂もひとつお願いします」
「まいどあり! コロッケは何個にしとくんだい?」
『そうですね、私がみっつと』
「一人一個に決まってるだろうが。俺も食うけどよ」
『一人一個だけとは、八尋はケチですねぇ』
「夕飯前だっての」
「へっへ。アンリちゃんが可愛いから、コロッケもうひとつオマケしとくぜ」
『ふふふ。いつもありがとうございます。おじさんのそういうところ、私は好きですよ』
「あー……いつもすみません」
「いいってことよ。商店街のアイドルのためなら、コロッケひとつくらい安いものさ。で、いくつにするんだい?」
「えーと、俺とアンリと……お前はどうするんだ?」
コロッケを買うかどうか聞くために八尋は振り向き、アンジェリカに声をかける。
しかしその問いかけにアンジェリカは答えず、信じられないものを見た、とでも言いたげな表情を浮かべながら肩を震わせていた。
「か、買い食い……仮にも、絶対悪が!?」
驚愕どころか、今にも倒れてしまいそうなほどの動揺を見せるアンジェリカの大げさとも思える反応に、その姿を見た八尋の方が驚かされるほどだった。
「しかも常連客ですか!?」
「そんなに驚くことか?」
「驚くとか、そういう次元ではありませんよ! 買い食いをして、契約者以外の他の人間と良好な関係を築けるなんて……まるで本物の人間のように振舞えるなんて、悪魔どころか天魔ですらありえません!」
「と、言われてもなぁ」
自分の中の常識を打ち砕く光景に声を荒げるアンジェリカに対し、どうしてそれほど驚くのかが理解できない八尋はただ、彼女の剣幕に戸惑う他ない。少なくとも八尋にとっては、アンリが商店街を出歩いて買い食いすることなどもう何年も前から行われている平凡な日常の光景に過ぎないのだ。
「ところで八尋君。そっちの綺麗なお譲さんは誰なんだい?」
「ああ。……一応、クラスメートです」
「へぇ。クラスメート。……本当に、それだけなのかい?」
先ほどから一人でうろたえているアンジェリカに視線を向け、ニヤニヤと実に楽しそうな笑みを浮かべる肉屋の店主。
しまった、と八尋が思った頃には、もう手遅れだった。
「アンリ、逃げるぞ――」
「いや、みなまで言うな! うんうん、ようやく八尋君にも春が来たか」
咄嗟に逃げようとした八尋だったが、その手を肉屋のカウンター越しにガッチリと掴まれ、あっという間に逃走の手段を奪われていた。
「いや、そういうんじゃなくってですね!」
「おじさん、八尋君のことを生まれた頃から知ってるけど、そうか。八尋君にも良い人がなぁ。……目出度い! よし、そっちのお譲ちゃんに免じて、肉の量を倍にしてあげよう。コロッケもオマケだ、持ってけドロボー!」
「いや、だからですねぇ……おい、アンリ、アンジェリカ! お前らもなにか言えよ!」
出歯亀的に下賤な感情がないわけではないが、肉屋の店主は基本的に心から八尋のことを祝福しており、悪意に相当する感情を抱いていない。むしろ純然たる善意で彼はそう言っているのだ。そのような相手に、しかもこんなことで『悪い手段』が八尋に使えるハズもなく。
だから八尋は、アンリとアンジェリカに助け船を求めたのだが。
「この国ではこれが常識なのですか? 確かに日本と言う国家は宗教的に完全中立で、信仰にまったく囚われない国だとは聞いていました。ですがだからと言って、仮にも絶対悪が商店街のアイドルになるなどそのような非常識が存在しても良いのですか? いえ、日本と言う特殊な環境の下で彼女もまた新たな識能を得たのかもしれません。考えてみればアンリ・マユが少女の姿を取っているという時点で異常なのです。しかし、それは他のすべての識能を覆す結果になるのではないのですか? いえ、そもそも、それだけの長期間実体を維持していられるだけの精気の供給を受けられるということは――」
ブツブツと、混乱のあまり自分の世界に没入してしまったアンジェリカ。
『ああ。揚げたてのコロッケの美味しさは殺人的です。このためだけに悪行を犯しても良いくらいです』
そしてマイペースに、受け取ったコロッケを実に美味しそうに齧るアンリ。
到底、この状況を打破するために役に立ちそうにもなかった。
「それで、二人はどうやって知り合ったんだい?」
「ちくしょう、このポンコツ悪神とアホ天使が!」
「この小鳩は天使じゃないですよ? それともあれですか。アンジェリカマジ天使的なニュアンスですか」
「うるさい黙れ!」
結局、肉屋のおじさんにアンジェリカがただのクラスメートであると納得してもらうために、八尋は天使三柱を撃退するよりもはるかに大きな労力を払ったのだった。




