2.天使と悪魔の女の子
「……ん……」
ほとんど吐息に近い声を上げたアンジェリカに、八尋は視線を向けた。
保健室の中の、カーテンで区切られた一画にある粗末なパイプベッドで眠るアンジェリカの顔色はすでに大分良くなっており、元来の健康的なものに回復していた。唇の色もピンク色に戻っているから、大丈夫だろう。
そう八尋が思っている間にアンジェリカは目を開け、少しずつ意識を覚醒させていった。
「……こ、こは?」
「保健室だよ。あのまま屋上に放っておくわけにもいかなかったからな。今は……五時間目だ。先生には『貧血で倒れた』って言ってあるから、その辺は安心していいぞ」
「どうして、私はこんなところに……」
「記憶が飛んだのか? 屋上で俺達とやり合った後、倒れたお前を保健室に連れてきたんだよ」
「……私、は……っ!」
そこまで話してようやく、自分の置かれた状況に気付いたのだろう。
即座にベッドから起き上がって体勢を整えようとするアンジェリカを、八尋はその肩を抑えることで制していた。
「騒ぐな。屋上はともかく校舎内で、お前は騒ぎを起こす気なのか?」
「くっ……」
「それに、ついさっき窒息したんだ。もう少し安静にしておいた方が身体のためだぞ」
「……あなたは、一体なにを考えているんです?」
「さぁ、な。案外、なにも考えていないのかもな」
アンジェリカの向けるきつい視線を、八尋は適当に受け流す。
露骨に警戒されているが、それは当然のことだろう。むしろ、この状況において周囲に迷惑をかけないためとは言っても、霊体の天使すら召喚しないなど随分と甘いものだ。
「どうして、私を助けたのですか?」
「殺してほしかったのか?」
「ころっ……!?」
八尋の意地の悪い切り返しに言葉を詰まらせたどころか、顔を青くしたアンジェリカ。その反応に……まるで、自分が殺されるなんて想像もつかなかったとでも言いそうなアンジェリカの態度に、八尋は違和感を覚えた。
「まさか、自分が殺される可能性を……考えていなかったのか?」
八尋の言葉に、アンジェリカは青い顔をして頷いた。
それどころか、よく見ればその身体は僅かに震えている。
どうやら八尋の言葉でようやく、自分が殺されていてもおかしくなかったということに気付き、改めてその恐怖に震えているようだった。
「……マジかよ」
その態度に、仮にも敵対者であるにも関わらず八尋はそう呟かずにはいられなかった。
実戦経験がない、どころの話ではない。
目の前の少女は、祓魔師という立場にありながら自分が殺される可能性について思い至らないほどに箱入りだったのだ。
確かにアンジェリカは世界最年少の聖人だ。それも、カトリックにおいては最高神に匹敵するほどに信仰されている大天使ミカエルの側から契約を持ちかけられた少女――現代の救世主と言っても過言ではない存在である。事実、カトリック教会において彼女は聖人ではなく救世主と呼ばれているらしい。そのような聖人など、一世紀に一人現れるかどうかの稀有な存在だ。故に彼女の損失を避けるためにも、可能な限り彼女を危険やあらゆる意味での悪意から遠ざける必要があったのだろう。
祓魔師としての戦力や聖人としての宣教師ではなく、象徴としての彼女をバチカン上層部は求めたのだ。それは巨大な宗教組織に所属する人間として自然で合理的な判断だと八尋は思う。
しかし、彼女の存在が彼らにとって都合が良いように教育されているとは思っていたが、彼女の善性を保つためにそこまで徹底されていたとは、八尋にも予想がつかなかったのだ。
その裏側にある聖職者達の悪意に近い意図にすら、彼女は気付いていないだろう。
その事実に、八尋はただ呆れる他なかった。
「……参ったな。これは」
これでは、救世主という名の傀儡もいいところだ。
世界最年少の聖人と世界中で称えられる少女が、実際にはこんなに小さな少女だったとは。
彼女自身に邪気が無さ過ぎて、八尋は却って戸惑いを覚えていた。
「あー……安心しろ。俺に、お前を殺す気は無い」
「……本当ですか?」
「ああ。というか、考えてみろ。仮にも俺とお前はクラスメートだ。下手にお前のことを殺したりしたら、後から相当面倒なことになるだろう? 俺の目的は平和に静かに暮らすことだ。そんな面倒を自分から起こしたりはしない」
「本当に、私のことを殺しませんか?」
「だから、そう言っているだろうが」
「よ、良かったです。……なんだか、安心しました」
ホッと、翠の瞳に涙を滲ませたまま安心のため息をつくアンジェリカ。
心の底からの安堵の表情に、警戒を抱いたままの自分が馬鹿馬鹿しく感じるほどだった。
『そういうところがまだまだ甘いですね、あなたは』
「クラスメートで、聖人だぞ? しかもさっきは昼休みで、今は授業中だ。ここで殺したり、見捨てておいた方が面倒なことになるだろ」
『まぁ、そういうことにしておきましょうか』
いつの間にか、カーテンで仕切られたスペースの中に戻ってきていたアンリに顔を向けずに八尋は返答した。
アンリの言葉に微妙に棘があるのは、未だ日常生活にしがみつく甘い八尋を責めているから……というわけではなく、悪神としての彼女の矜持によってそうなっているらしかった。
「で、そっちはどうだった?」
『そちらの小鳩の術式はかなり強力でしたよ。あれだけ派手に燃やしておきながら、それを認識していた者は一人もいなさそうです。皆、至って平和に日常を過ごしていました。これなら、我々がわざわざ認識を弄ることも無いでしょう。実戦経験はないようですが、魔法の才能は相当のものですね。忌々しい』
「小鳩……ああ、そういうことか」
アンリの物言いに一瞬首を傾げた八尋だったが、すぐにその意味を理解した。
平和の象徴である鳩をアンジェリカに当てはめてそう呼んでいるのだ。
象徴としての、自身は力を持たない小さく弱い鳥。
小娘でも鳩でもなく『小鳩』と呼ぶ辺りが、アンリなりの言葉遊びのつもりらしかった。
『それで、八尋はこれからどうするつもりなのですか?』
「意識も戻ったし、もう放っておいても問題ないだろ。俺は戻るぞ。……もう一度言っておくが、そちらからなにかしなければ俺から手を出すことはない。俺の目的は、誰にも邪魔されず平穏無事に日常を過ごすことだ。お前達が思っているような悪意なんて持っていない。だから、俺達のことは放っておいてくれ。いいな?」
『いっそのこと、手籠めにしてしまえば良いのに。愛人を何人も囲むなど悪人らしいではありませんか』
「だから、俺はそういうのを望んでないっての」
『つまらないですねぇ。年頃なんですから、もう少しがっつきましょうよ。それとも、まさかその年で不能だとか?』
「年頃の男子高校生が全員スケベだと思うなよ」
馬鹿馬鹿しいと、アンリの悪意塗れの提案を一蹴する。
八尋としてもこれ以上面倒に関わる気はない。嘘偽りなく八尋は心から、誰にも邪魔されず静かに平穏に過ごしたいと願っているのだ。
そう念押しをするようにアンジェリカに伝えてから、八尋はアンジェリカに背を向ける。
しかし、服の裾を引かれる感触に、八尋は歩みを留められていた。
「まだ、なにかあるのか?」
「……ダメです。あなたを、このまま帰すわけにはいきません」
「だからなぁ――」
俺は自分から他人を害する気は微塵も持っていない。
そう言おうと振り向き、ベッドで上体を起こしたアンジェリカに視線を落としたところで、八尋は言葉を詰まらせた。
ちょこんと、八尋の服の裾を掴む小さな手。
上目遣いに八尋のことを見つめる、潤んだ瞳。
明らかに強がっているのだと分かる、弱弱しい表情。
拒絶の言葉を投げかけることも、自らの態度を取り繕うこともできないほどに、八尋はアンジェリカの憂いを帯びた表情に見惚れてしまったのだ。
「あなた達が危険な存在ではないと……私は、確認しなければなりません」
「う、む……」
「例え、あなたが自分のことを潔白だと主張しても……私は、それを信じるわけにはいかないのです。仮に私が信じたとしても、誰かがあなたの潔白を証明しない限り、他の祓魔師があなたを倒そうとすることに変わりはないのです」
「そうか……」
先ほどまでの、毅然とした態度はどこへ行ったのか。
まるで子犬か小鹿のような様子の可愛らしい表情を浮かべるアンジェリカに、八尋は強い言葉を投げかけることができないでいた。
『はぁ。男が少女の上目遣いに弱いのは、有史以前から変わりませんねぇ』
「う、うるさいな。仕方ないだろ」
ジト目で自分を責めるアンリに、八尋はしどろもどろに言い訳を返すことしかできない。
『そういえばあなたは庇護欲が湧くような女の子が好みでしたねぇ。なるほど、これはこれは』
「黙れ。頼むから」
『はっはっは。では、今夜のワインに良いつまみを付けてもらいましょうか。それが対価ということで』
「ぐぐ……わかった。契約成立だ。だから、この話は終わりだ!」
顔を赤くして、強引に話を打ち切る八尋。
ニヤニヤと、実に楽しそうな表情を浮かべるアンリ。
そんな二人のやりとりを、アンジェリカは不思議そうな表情で見つめていた。
「魔法ではなく、わざわざ契約を……もしかして、神楽威さんは魔法が使えないのですか?」
「な、なんだ。今頃気付いたのか」
アンジェリカの言葉に平静を装って返答するが、その顔は未だ動揺を隠し切れていない。
むしろ、渡りに船であると言わんばかりに、八尋はその話題に食いついた。
「俺の魔力耐性はほとんどないに等しいからな。どんなに簡単なものでも魔法はほとんど使えない。肉体強化ですら契約に頼らないといけない有様だよ」
この世界では、天魔や悪魔といった超常の存在に相応の対価を払い『契約』を履行することでその恩恵を受けることが企業や法人単位で当たり前となっている。
そして契約期間中に契約者と概念存在の間で繋がれる契約の糸、それを通じて送られる魔力によって発動できるようになる魔法の中でも最も基本的なものが、魔法による身体機能の強化である。いわば魔力によるブーストで、例えるならばエンジンにニトロを入れることに近しい。対価なしに気軽に使えるものの、その性質上、耐久力や継続時間などに肉体的な限界がある。
対して八尋が行った契約による肉体強化とは、言うならばエンジンそのものを期間限定で換装することに近しい。造りそのものを変えるため肉体に負担はかかりにくいものの、手間暇やコストが莫大であるため通常であればほとんど行われることはない。
だが、八尋は魔力耐性が極端に低いため、魔法を使うことがほとんどできないのだ。
「それはそれとして。証明とは言うが、お前はこれから具体的にどうするつもりなんだ!」
「そうですね。やはり、一定期間の監視……が、双方にとって最善の方法ではないでしょうか」
「まぁ、そうなるだろうな……」
「そういうわけなので、今日からしばらくの間、私があなたのことを監視させていただきます」
「ちょっと待て。今、なんて言った?」
「え? ですから、今日から私があなたのことを監視させていただくと」
「どうやるんだ?」
「どうって……それは、あなたのことを傍でつぶさに観察する以外、ないと思いますが」
「あのなぁ……」
噛み合っているようで微妙に噛み合わない会話に、八尋は軽い頭痛を覚えて頭を押さえた。
確かに、それはそうなのだ。
アンジェリカが言いたいことは分かる。
だが、八尋が言いたいことはもっと別のことであって、そういうことではない。
自分が一体なにを言っていて、それが実際にはどういうことなのか、それをこの少女は果たして理解しているのだろうか。
それを、八尋は改めて問いただそうとしたのだが。
「ダメ……でしょうか?」
「う……」
「お願いします。あなたが潔白だと言うのであれば……両親を犠牲にするほどの悪徳が間違いであるというのであれば、私もそれを証明したいのです!」
それは、早業だった。
戸惑う八尋の手をアンジェリカは素早く手に取り、まるで祈るかのようにしっかりと握りしめ、その宝石のような翠の双眸で八尋の目を真正面から見据えている。
その、温かく柔らかい少女の手の感触に、あまりにも真っ直ぐに澄んだ瞳に、八尋はなにも言えなくなってしまう。
絶対悪と契約しているだけのことはあって、八尋は他人の悪意というものには敏感だ。人が持つ悪意の種類やそれが向いている方向を悟ることができるし、他人から自分へと向けられた悪意というものへの耐性もかなり強い方だと自分でも思っている。
だが、その反対に、アンリにも指摘されたが八尋は少女の弱々しい表情に弱い。さらに詳しく言えば、悪意のない他人の感情に弱いのだ。特に、今アンジェリカが見せているような混じり気のない真っ直ぐな感情や、自分に向けられた好意には耐性がないと言っても過言ではない。
悪意に対する耐性を得た分、それ以外の感情への対処の仕方が微妙に分からなくなっている。
そんな八尋に向けて、先ほどまでの敵意を完全に払拭させ、八尋の潔白を証明しようとアンジェリカはあまりにも真っ直ぐな隣人愛という意味での好意、善意を八尋に向けている。
それをこの少女は狙ってやっているのではなく、当たり前のようにしているのだ。
そのような状態で、八尋がアンジェリカの言葉を否定できるわけがなく。
「わ、分かった。分かったから、その手を離してくれ」
「あ、あっ、すみません!」
「……と言うか、俺はお前達から見れば、一も二も無く倒すべき相手なんじゃないのか?」
「いえ。今までのやり取りを見て……私を助けたどころかこうして看病していただいたことから、確信しました。あなたは決して悪人ではなく、むしろ良い人です」
「いやいやいや。いくらなんでもそれはない。だから、俺は悪人だって――」
「そんな人の潔白を証明することも、私の聖人としての使命です!」
八尋の言葉を半ば遮るようにして声高々に宣言するアンジェリカに、八尋どころか絶対悪であるアンリまでもが、ポカンと口を開けたままなにも言うことができなかった。
彼女は、八尋のことを信じているのだ。
絶対悪と契約を結んだ、特にキリスト教のような存在から見れば存在そのものが罪である八尋のことを微塵も疑いもせず、頭から信じて、八尋のために彼にかかった疑いを晴らしてその無害さを証明しようとするなど、正気の沙汰とは思えない。
だが、彼女は心からの善意で、八尋の善性を信じてそれを証明すると本気で主張している。
それがどれほどまでに八尋とアンリにとって、ありえないほど馬鹿馬鹿しいものだったのか。他人の悪意に多く触れてきた二人だからこそ、アンジェリカの有する頭が弱いとすら思えるほどの善性は、完全に二人の発想の外にあったのだ。
もしかしてこの少女はあり得ないほどのお人好しで、結構な阿呆なのではないか。
その妙な押しの強さと善人にもほどがあるアンジェリカの思考に、八尋はそう思わずにはいられなかった。