14.絶対悪の咆哮
「一体なんのつもりだ?」
はらわたが煮えくり返りそうな怒りの感情を抑え、八尋は男に問いかけた。
「……やはり、理解できないな」
「どうしてアンジェリカを攻撃したのかと聞いているんだ!」
興奮のあまり、今にも声が裏返ってしまいそうだった。
打ち震える声を平静に保つだけで精一杯で、表情を取り繕う余裕など残されていなかった。
虚勢を張ってでも、八尋はそう叫ばずにはいられなかった。
「どうしてだと? 決まっている。愛する祖国を乱す異教の輩を排除し、祖国の平穏を護るためだ」
答えを聞く前から、本当は理解しているのだ。
男の行動にはなにひとつとしておかしなところはない。八尋も、彼と同じ立場にあったならば同じように動いただろう。だからこれはひどく身勝手な怒りなのだと自分でも理解している。
それが分かっていても、心の奥からマグマのように湧きあがる激情を止めることはできなかった。
「それが、お前達の正義か」
「ああ、そうだ。私は日本とそこに住む民のためにこの命と人生のすべてを奉げた。無論、私の行動は法に触れるものだろう。だが、それで構わない。私は日本の裏側から、表の神々ではできない方法で護国を為す。それが、私の正義だ」
そう語る声からも、表情からも、男の覚悟が感じられた。梃子でも動かない、なにがあっても主張を曲げないという意志の強さがたったそれだけの言葉に込められていた。その心の在り方は、明らかに普通の人間にできるものではなかった。
「本当は、日本に住む民としてお主のことも救いたい。未来ある若者の命を不必要に奪いたくなどないのだ。今ならまだ、間に合う。どうか、ここは身を引いて日常に戻ってくれないか?」
無念を滲ませ、男は再び剣を構える。
「誰が、お前に救ってほしいと頼んだ?」
だが次に放たれた八尋の言葉に、翁面の男は表情をわずかに歪ませた。
「俺はお前達に救ってほしいと願った覚えはない。それが必要になったら勝手に救われてやる。だから、お前は黙っていろ」
その目を見つめて吐き捨てながら、八尋は思う。
ああ、なんて綺麗に濁った眼をしているのだろう、と。
「何故だ! お前のために、私が救ってやると言っているんだ! 一体なにが不満だと言うのだ!」
「それだよ。その、誰かの〝ために〟ってのが、俺は気に食わない」
八尋は思う。
誰かの〝ために〟というのは誰かの〝せいに〟しやすい考え方だ、と。
ひどく責任の所在が曖昧な正義感で、誰かのために、という免罪符でなにも背負おうとしない。例えなにが起ころうとも、それは誰かのためにしたことなのだから自分は悪くない、仕方ない、悪気はなかった。だから責任を負う必要はないと、彼らはそう言ってのける。自分こそが正しくて、誰からも受け入れられるべきで、だから自分に反する人間は間違っている。誰もが自分と同じ〝正義〟の考え方をするべきで、それ以外の考えが認められてはいけないのだ。
少なくとも、八尋のことを誰かの〝ために〟討伐しにきた正義の味方のすべてがそうだった。その思いを言葉にすることはなくても、自覚がなくても、その言動や行動からそういった傲慢が滲み出る存在ばかりだった。
正義の味方は、誰かのためならどんなことでもできる。
何故なら〝正義の味方〟とは、誰かのためにことを為す存在だから。
誰かのためなのだから自分の行動は正しいのだと彼らは本気で思っている。
何故なら〝正義の味方〟とは、自分がまったく間違っていないと狂信する存在なのだから。
自分こそが〝正義の味方〟だ。
説明など必要ない。ただ、自分こそが正しいのだ。
正義の反対はまた正義であり、ときに悪と評されることも別の一面から見れば正義であるなどと、そのような綺麗事を言うつもりなど微塵もない。
だが、自分の考えこそが正しいとそこで思考停止し、世間に受け入れられるべきだと疑いもしない、そんな連中に自分の小さな幸せ(せかい)が奪われることが、八尋は我慢がならないのだ。
「誰かの〝ために〟、お前達〝正義の味方〟は俺達の日常を壊してきた! 誰かの〝せいで〟またお前達〝正義の味方〟は俺の大切なものを奪う気なのか!」
声を張り上げる。
そうしないと、自分の世界が壊れてしまうと言わんばかりに。
「どうして臆面もなく、自分が正しいと思えるんだ! 正義だと主張できるんだ! なにも背負うこともなく正義でない人の幸せを奪い去ることができるんだ! どうして人のせいにして戦って、人の世界を壊すことにわずかの躊躇いも罪悪感も覚えないことができるんだ!」
心の底から吐き出したようなその言葉は、八尋の心からの声だった。
ひどく乾いた叫び声は、もう流す涙が枯れたのだというなによりの証明だった。
「他人をダシに使うな! 自分が戦う理由くらい自分で背負え!」
何度見ても、反吐が出そうになる。
誰かのためだから仕方がないと〝正義の味方〟は彼らにとっての悪を害する。そこには確かに誰かを害そうとする悪意があるのに〝正義の味方〟は自身の中にあるそれを認めようとしない。それどころか、正義のためだから仕方がないと、あるいは自分の考えは正しいのだと、自らの悪意を正当化する。
悪意に敏感な八尋だからこそ分かる。
それは間違いなく、誰かの〝ために〟と言って為され、自分は悪くないのだとその悪意を持つ原因すら誰かの〝せいに〟した、純白の悪意。
それは世界中の悪魔や悪神どころか〝絶対悪〟を司るアンリ・マユでも持つことのできない、人間だけが持つことのできる悪意のかたち。
躊躇いも後悔もなく、相手が悪であるというだけで誰かを害することのできる鋼の意志。
おかしいではないか。
仮にも人を護ると主張する存在が、誰かを傷つけても心を痛めないなんて。
「だから俺は〝絶対悪〟で在り続ける! お前達のような正義の味方から自分の世界を護るためなら、どんなことだってしてみせる! 俺の想いを誰の〝せいに〟だってさせない! この俺こそが〝絶対〟〝悪〟いのだと、何度でも証明してみせる!」
「しかしその方法では、あなた自身が救われません」
それは八尋が持つ〝絶対悪〟の悪意。
〝絶対正義〟に対抗する〝絶対悪〟の意志と想い。
だが、その〝絶対悪〟の悪意を否定する人物がいた。
「……だから、俺に〝絶対悪〟を止めろと言うのか?」
「いいえ。仮に私がそう言ったところで、あなたは〝絶対悪〟を止めようとはしないでしょう。ですが、例えあなたがどう思っていようとも。例えそれを拒絶したとしても、私はあなたを救います」
振り向いた八尋の目を見ながら、真っ直ぐとアンジェリカはそう主張した。
その、綺麗に澄んだ瞳に、八尋はこんな場面でありながら一瞬だけ目を奪われる。
その瞳の輝きは、あまりにも眩しかった。
強い意志を込めたその翠の瞳が、八尋にはまるで別人のようにすら思えた。
……いや。八尋は確かに、その瞳を知っている。
それは確か小さな頃、世界を知らないが故にすべての人を救うことをなんの疑いもなく夢見ていた、八尋の世界を構成している少女が有していたもの。今になっても忘れることのできない、当時の八尋が堪らなく魅かれていた瞳の輝き。
その少女が、今。
世界を知りながらもなお、当時と同じ輝きを湛えた瞳を有していた。
「勿論、八尋さんだけではありません。私はあなたのことも、救いたいと思っています」
八尋が呆けている間に、アンジェリカは自分の決意を、想いを告げる。
その言葉に、八尋もその男も、色濃い驚愕を隠さずにはいられなかった。
「……なん、だと?」
「……阿呆か、お前は。自分を殺そうとする奴まで救ってどうするんだ!?」
「そうですね。こんなことをしていたら八尋さんが言う通り、いつの日か、私は殺されてしまうのかもしれませんね」
思わず声を荒げた八尋に対し、アンジェリカは微笑んだまま「ですが」と言葉を続けた。
「それでも構わないと、私は思います。相手の事情なんて関係がありません。私は、この世界に存在する誰一人として救われないことが嫌で嫌でたまりません。だから私は、誰であろうと救いたいと思います。私が犠牲になることで誰かが救われるのであれば、それでも構いません」
「なら、お前はどうなんだ?」
「私ですか?」
「お前がそんなんじゃ……お前自身が救われないじゃないか!」
その言葉に対し、アンジェリカはわずかに頬を染め、はにかんだように笑ってから。
「私は当の昔に……私が最後に救うべき〝絶対悪〟に、救われていますから」
「は……?」
「だから私に、あなたのことを救わせてください。一番最後で構いません。私のために、八尋さんが救われてほしいのです」
そう告げられた八尋は、今度こそ完全に呆け、言葉を失っていた。
『あなたの負けですよ、八尋。この小娘は今、忌々しいことに八尋と同じステージに登りました。正義の味方などという純白の悪意を有する外道ではありません。ただ自らのエゴのためにすべてを背負い、自分の命すらも天秤にかけて自らの意志を貫き通す、あなたと同じ異常者です。非常に、忌々しいですが』
「アンリ……しかし、それは……っ」
『あなたの言いたいことは分かります。しかし今はこの小娘のことよりも、目の前の〝正義の味方〟の相手の方が重要です。八尋。あなたは。あとどれだけのことができますか?』
一言一句をわざと区切って話すアンリに、八尋は口を噤む他なかった。
本当は、言いたいことは山ほどある。できることなら今すぐにでもアンジェリカを怒鳴りつけて、こんな場所からいなくなってほしい。だが、八尋も分かっているのだ。今のアンジェリカは、言葉くらいで引くような人間ではなくなっているのだということを。
それに、アンリの言うことも正論だ。
目の前の脅威をどうにかしなければ話をすることもできない。
状況は、圧倒的に八尋の不利。
改めて距離を置いてお互いの出方を伺い直しているとはいえ、八尋に切れる手札はすでにかなりの数が消耗していた。
「……銃は破壊された。左腕はほとんど動かんし感覚もない。だが仮に左腕が完全でも、この程度の身体強化では避けるのが精一杯。正直、手持ちの武器は全部使い果たしたな」
『ドゥルジの識能は発動出来なかったのですか?』
「あの野郎、仲間の死体をそこから放り投げやがった」
『なるほど。確かに、ドゥルジの識能を発動させないためには有効な手段です。さすがに地上二百メートルは、ドゥルジの識能の射程範囲外ですからね。まぁ、どちらにしろ、しばらくドゥルジは召喚できないようですけど』
「だから、余計なことを言うなって」
『もう相手にもバレているのでしょう? 射程距離の関係があるとはいえ、あのとき学校の屋上から仕留められなかった我々の落ち度ですよ』
「ああ。まったくもってその通りだな」
「……話は済んだかね?」
おそらく、二人の会話が済むまで敢えて待っていたのだろう。
どこか呆れたような、しかし余裕のある表情を浮かべた男が、改めて臨戦態勢に入った二人へと言葉を投げかけた。
「まったく、理解できないことばかりだ。異教の神に過ぎないアンリ・マユが二度ならず三度までも、夜刀神や土蜘蛛はおろか、日本の主神格にすら匹敵する天津甕星の攻撃を受け止める。かと思えば、わずかの間に異教の娘は理解できないことを口走るようになった。この様子だと、お前の契約主もそうなのだろう。なぁ、アンリ・マユよ。これは一体、どのようなからくりなのだ?」
『例えどのような答えが返ってこようとも、あなたがすることは変わらないのでしょう?』
「……ああ。そうだな」
アンリのどこか挑発的な物言いに、しかし男は苦笑を浮かべ、改めて剣を構えた。
「最後に、ひとつだけ聞かせてほしい。お前は一体、なんのためにこの場に立ち、なんのために戦っているのだ?」
「決まってる。すべては俺だけのために、俺の世界だけを護るためにここにいる。俺の世界を壊す者を排除し、俺の悪意を貫くためだけに。俺が絶対悪いのだと証明するためだけに、俺は戦い続ける」
「そうか。……考えを改めよう。お前も間違いなく、私が倒すべき仇敵だ」
すぅっと、八尋と相対する男の目が細まった。
その視線には、嘲りも軽視も、侮蔑も余裕もない。男はようやく認めたのだ。自分の目の前にいるのが、自分と同等の覚悟を有した、対等の敵なのだということを。
それを見て、八尋は悟る。
正真正銘、これが最後の戦いだ。
「……いくぞ、アンリ。最後の戦いだ」
『はい。私達の悪意で、この世界を呑み込んでやりましょう』
そう言ってから、アンリは実体化を解除した。するとその現実世界で仮初の肉体を構成していた物質は黒い光の粒子となって散らばり、それがまるで意志を持つかのように八尋の下へと集まり、八尋の身体へと取り込まれる。
途端、八尋の背中に生まれたのは、周囲を赤黒く照らす炎の片翼。まるで人の中に在る悪意が炎となって現れたかのような、禍々しい色をした地獄の業火。
それは、一人と一柱がまるでひとつの存在であるかのように悪意を有したがための融合体。
〝絶対悪〟アンリ・マユに対価の後払いができるほどに認められた〝絶対悪〟神楽威八尋の、もうひとつの契約のかたち。
それは、アンジェリカが気付けなかった真実のひとつ。
八尋の両親とアンリの間に交わされた契約ではなく、八尋の両親がアンリの認める〝絶対悪〟を有していたからこそ結ぶことができた、八尋とアンリが結んだふたつ目の契約。
対価は、八尋の魔力耐性のすべて。
契約内容は、八尋の世界を護るための、神にも匹敵する力を得ること。
今の八尋は人の身でありながら、その高い神格故に人間の身体どころか実体でも負荷が大き過ぎて使うことのできない領域の、〝絶対悪〟が持つ力のすべてを使うことができる。
ただし、その力が発揮できるのはわずか三分間だけ。ただでさえ、最も簡単な魔法である肉体強化ですら使えず、わざわざ新しい契約をしなければならない身体になってしまっているのだ。それ以上は八尋の身体が持たず、肉体への負荷も甚大だ。
だが、それはある意味好都合だった。
おかげで対価を無駄遣いせず、短い時間に効果を集中させることができるのだから。
「……なんだ、それは」
八尋に問いかける男の声が、狼狽していた。
信じられないものを見たと、その心情を表現するかのようにくすんだ眸が震えていた。
その表情に、動揺に、剥がれ落ちた仮面の裏側に、自分の身体と霊的に融合したアンリが暗い愉悦に歪むのが分かった。
「……ああ」
吐息が漏れる。
灼熱が、自分の身体の中を流れているかのように熱かった。
感覚のない左腕の、氷のように冷たくなっていた指先まで熱が滾っていた。
自分という存在が人間ではない別の存在に塗り替えられていく、その感覚が心地良かった。
今の八尋は人間ではない。かといって、神でもない。
それは、通常ではありえない二重の契約が織り成す奇跡。
人間を止めるほどの圧倒的な歪み、絶望的なほどの異形性が顕現した姿。
やがて八尋の瞳が炎のような紅色に変わり、その眼前に細身の刃が形成される。
緋色に輝くその刃は、融点一五〇〇度の鉄をも容易く熔解させる炎を物質化した、アンリが有する焔のすべてを凝縮した刃。
鍔も柄も鞘も、銘すらもないその刃を右手で握り、八尋はその姿をじっと見つめていたアンジェリカへと口を開いた。
「俺に救われる資格なんてない。俺はただ、自分の願いのためだけに幾万の人間を犠牲にすることを厭わない〝絶対悪〟だ。それは、これからも変わらない」
「そんなあなたでも、私は救いたい。他でもない、私の願いのために、私は八尋君が救われてほしいのです」
「…………だったら、見ていてくれ。アリカ。俺の、絶対悪の戦いを。救いようのない男の、自分のための戦いを。それが、俺にとっての救いだから」
「はい。私のために……あなたが絶対悪であることを理解するために」
「……ありがとう」
最後にそう小さな声で呟いてから地面を蹴って前に飛び出し、八尋は吼えた。
それは、夜天に轟く雷鳴のような咆哮だった。人間が出せる声だとは到底思えなかった。
当然だ。
八尋は今この瞬間、人間ではなくなっているのだから。
「お、おおおおおっ!?」
男の慟哭が響く中、真っ直ぐと突き出された左腕を天津甕星が腕を交差して受け止めた。その腕がゴキリ、ゴキリと、軋みながらかたちを変形させてゆく。踏みしめたコンクリートの床が砕け、受け止めたその身体が沈んだ。
「……っ!」
ただの一撃で防御の上から骨を砕かれる感覚に天津甕星が顔を歪める。だが、一人と一柱――ひとつと一柱が肉薄するその距離こそ、天津甕星の必殺の間合い。両腕が使えなくとも関係がない。
天津甕星は、額の飾りからレーザーを放った。
夜天を貫く、一条の閃光。
だが。八尋がわずかに頭を傾けただけで、その一閃は虚空を穿った。
それは。人の身では到底ありえない反応速度だった。
「……もらうぞ、その左腕」
八尋が炎の刃を握った右腕を振り上げる。その姿を見て天津甕星が後ろに地面を蹴るが、もう遅い。
闇夜に閃く業火の一閃は、なんの抵抗もなく天津甕星の左腕を切断していた。
その光景を見た八尋以外の誰もが、阿呆のように口を開いてその姿を見ていた。
その左腕を実際に切断された天津甕星にすら、それは信じがたい光景だった。
その目でしかと見ても、信じることができないことだったのだ。
「一体、なんなのだ……」
揺れる男の声が、八尋の耳に届く。
「人間でも、神でも、〝絶対悪〟でもない……お前は一体、〝何〟なのだ!?」
喉をひきつらせながら放たれた声に、しかし八尋は一瞥をくれただけだった。
今の八尋はアンリ・マユと霊体レベルで融合している。だが両者の存在は本来、桁違いに離れているのだ。故に両者を統合しようとした場合、例えるならば海に投げ込んだ一粒の角砂糖のように、人間の自我はあっという間に呑み込まれ、残された肉体は神を内包しただけの抜け殻に成り下がってしまう。神という途方もなく巨大な存在の中で、人間の存在は自我を保つことができないからだ。
だが、今の八尋はその奇跡を成し遂げている。
人の身のまま神となった現人神でも、禁忌の果てに神に呑み込まれた神人でもない。
言うなれば今の八尋の存在は、自分の世界を壊す理不尽に抗うために悪神ですらも屈服させた、人間の悪意の究極形態。
悪神ですら敵わない、世界で唯一の〝絶対悪〟
「お前の負けだ。〝正義の味方〟」
男にそう告げてから、八尋は再び一歩を踏み出した。
ただ男に近付くだけの、あまりに遅く無防備な歩みだった。
八尋に向かって再び天津甕星のレーザーが放たれる。だが、その一閃を八尋はたった一歩、ふわりとステップを踏むだけで回避した。文字通り光速で放たれるそれを、なんの造作もなく。
今の八尋には天津甕星や男が自分に向ける純白の悪意の方向が、かたちを成して視えるのだ。その悪意が変質していることも、震えていることも、これから放たれることも、次の一撃に向けて貯められていることも、すべて一目で理解することができる。
来ると分かっていれば、曲がることのない一条の光を躱すなど容易いことだ。
単純明快。
故にその歩みを、誰も止めることができなかった。
「……天津甕星! 十束剣を対価に奉げて――この〝絶対悪〟を、殺せ!」
おののきの響きを有して告げられた追加契約の意志。直後、男の手に握られていた十束剣が消失し、天津甕星の額に集まっていた魔力の量が桁違いに膨れ上がった。おそらくは千年を超える年月を帯びた、あるいはただの人間一人分の魂よりも価値のある本物の神器。
それが男のことを守るように立つ天津甕星の糧――闇夜を照らし悪を切り裂く、正義の閃光となって放たれる。たったの一閃にそれが込められれば、一体どれほどの威力になるというのか。だが、八尋は畏れない。引く気など、微塵として湧いてこない。
上等だ。
俺の悪意で、真正面から、その正義を呑み込んでやる。
「おおおおおおおおおッ!!」
二度目の咆哮。
同時に業火の刃と光の刃が交錯し、火花を散らしながらぶつかり合う。拮抗。これまで幾人もの身体を貫いてきた光の刃は業火の刃に止められ、鉄をも融かす業火の刃は光の刃を押し留める。瞬間的な破壊力はほとんど互角。
だが、足りないと八尋は思った。
拮抗では意味がないのだ。長期戦に持ち込んでは駄目なのだ。
こんなことでは〝正義の味方〟は倒せない。〝絶対悪〟を証明できない。
八尋はわずかも迷うことなく決断した。
自分の目的を達成するためならば――自分の世界を護るためならば、どんな犠牲も厭わない。
必要ならば、この命だってくれてやる。
だから。
「これでも足りないってんなら……この左腕を、くれてやる!」
刃を握っていた左腕を放し、八尋は吼えた。
次の瞬間、八尋の左腕がこの世界から消え去り、それを引き金として業火の刃がその熱量へと変換された。緋色の刀身からさらに炎が迸り、拮抗が崩れ、光の刃が少しずつ圧されていく。一歩、また一歩と八尋が歩みを進めるごとに天津甕星の、そしてその後ろにいる男の表情が狼狽と恐怖に歪んでゆく。
そこに、純白の悪意などもういない。
あるのは、より莫大な悪意に呑み込まれ、塗り潰された恐怖と後悔。
「何故だ! 何故……何故! 天津甕星が、日本の神が敵わない!? このようなことがあっていいのか!?」
自分の常識が、正義が通じない理不尽に、男が慟哭する。
だが、八尋に言わせればそれはあまりに的外れな問いだった。
悪とは本来、どうしようもなく理不尽で不条理を引き起こす存在なのだ。
「知るか。悪党が理不尽を起こして、なにが悪いんだよ」
だから八尋は、逆に訊き返していた。
「どうして〝絶対悪〟が不条理を起こさないと考えられるんだ?」
光の刃を押し戻しながら、八尋は少しずつにじり寄る。
「どうして、自分が勝てるとなんの疑問もなくそう思えるんだ?」
距離を詰めながら、八尋は問いかける。
「どうして、自分が絶対に正しいと信じることができるんだ?」
やがてその切っ先が天津甕星を射程に収めた、その瞬間。
「どうして俺達の世界を壊して――〝正義の味方〟は、そんなに平気な顔でいられるんだ!」
世界を穿つ光の刃を、八尋は完全に薙ぎ払った。
「どうして! 自分がそんなに、綺麗な存在だと思うことができるんだ! 答えろ! 正義の味方!!」
「あ……あぁ……」
だが、〝正義の味方〟は答えない。答えられない。
最後の切り札さえも通用しなかった事実にただ、男は震えることしかできなかった。
「答えられないなら、もういい」
すでに、刃は天津甕星を射程に収めている。敵は戦意を喪失している。目の前の〝正義の味方〟は少なくとも今この瞬間においてはなにもできないだろう。だが、引いてやる理由は存在せず、殺す理由はある。故に八尋は、光の刃を薙ぎ払った業火の刃を振り上げ、
「俺の大切な人のために――この世界から消えろ! 正義の味方!!」
振り被った右腕を、天津甕星目掛けて振り下ろした。
両断。
いっそあっけないほどに左右に分かたれた天津甕星の身体が塵となり、夜風に散らばり消えていく。
だが八尋はその様子に一瞥もくれず、再び歩みを進めた。
中身のなくなった左腕の袖が風に吹かれ、バタバタと音をたてる。
その視線の先にいるのは、今や茫然と立つだけの一人の壮年の男。八尋の世界を壊そうとしていた憎い相手。神楽威八尋という存在が今、人を辞めたその理由。
そして。
その男の前に、立ちはだかる影がひとつ。
「……そこをどけ。アリカ」
「いいえ。どけません。八尋君」
二人の間に、一陣の風が吹いた。
それは、明確な相対の意志だった。
「ああ。そいつを救うとは、そういうことか」
「はい。そういうことです」
正直なことを言ってしまえば、そうなる予感はあった。アンジェリカは確かに八尋に向かって、この男をも救いたいと言っていた。ショックがないと言えば嘘になる。だが、それは八尋の歩みを止めるほどの衝撃ではなかった。
「それがお前の正義か」
「いえ。そんな綺麗なものではありません。ただの私のわがままです」
「今の俺の前に立つことの意味、分かってるな?」
「無論、理解しています」
そのやりとりが合図であったかのように、八尋は手にした業火の刃を、アンジェリカは天使を三柱実体化させ、二人は自然と同時に構えていた。
二人のやりとりの意味するところはつまりそういうことなのだと、今のアンジェリカは理解している。自分が持つ、神の持つそれにも等しい悪いにも屈さず、立ち向かおうとしている。アンリが言っていた、アンジェリカが八尋と同じステージに立ったというのはこういうことだったのだろう。
誰がなにを思っていようと関係がない。
お互いに、ただお互いのエゴを押し通すために、戦う。
それが〝絶対悪〟の、そして〝救世主〟の選択だった。
『いやはや。実に残念ですね、八尋』
だがその張りつめた空気に水を差したのは、他でもない〝絶対悪〟自身だった。
「なんだと?」
『このままその娘と語り合うのも良いのですが……残念ながら、時間切れです』
アンリのその言葉の意味を八尋が過不足なく理解した、その瞬間。
まるでコンセントを抜いた家電のように、八尋の意識はそこで完全に途切れたのだった。




