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13.アンジェリカ

 アンジェリカにそれを伝えたのは、八咫烏と呼ばれる日本の霊獣だった。


 どうやら、戦闘に向かないからあの場にいなかっただけのことで、あの能面の男達の仲間には他にも契約者が存在しているらしい。


 そんなことを考える前に、八咫烏はアンジェリカ達に告げた。


 深夜零時。指定の場所に来なければ、明日から無差別にクラスメート達を殺していく。


 明らかな罠だとアンジェリカでも分かることだった。


 だが、無視することもできなかった。


 相手は日本神話の神と契約を履行し、日本の国土の上で活動しているのだ。政府機関所属の特殊部隊と条件は同じであり、彼らを以ってしてもそう簡単には捕えることはできない。アンジェリカやカトリック教会に至っては、日本国内では日本神話の神が絶対的な力を発揮する以上、条件はより悪い。


 そんな中で、ゲリラ的にクラスメート達を襲われれば手の打ちようがない。


 だからアンジェリカは要求通り、一人で指定の場所までやってきた。


 絶対に勝てないと理解していながら、アンジェリカは死地へと赴く。


 彼女は、こう考えているのだ。


 自分が犠牲になることでみんなが救われるのであれば安いものだ、と。


「良く来たな」


 般若面の男と共に慰霊塔の最上階である展望台までエレベーターで登り、さらにそこから屋上まで階段で登ると、そこには翁面の男がアンジェリカのことを待ち受けていた。


 吹きさらしになっているそこは、星が――金星が良く見える星空の下だった。


「指定の時刻よりまだ十分ほど早いぞ? わずかな時間とはいえ、余生を満喫することくらい、我々は止めはしない。我々はそこまで冷酷な存在ではないからな」


「早めに行動することは、善い行いですから」


「……殊勝な心がけだな」


 こんな状況でも微笑むアンジェリカに相対する男の表情は翁面で隠されていて見えないが、おそらくその顔はアンジェリカのことを小馬鹿にするように歪んでいるだろう。


「それよりも。私は言われた通り一人でここに来ました。約束は守っていただけますよね?」


「無論だ。我々は日本を守るために存在している。本来は、未来の日本を担う若者達を殺すなどしたくない。我々は、日本を脅かす異教の存在を排除できればそれで良いのだ」


「その言葉を聞いて安心しました。私が犠牲になれば、みんなの安全が約束されるのですね」


「我々の崇める八百万の神々に誓って保障する」


 馬鹿正直であると、アンジェリカを笑い否定することは簡単だろう。


 だが、同様の状況に追い落とされた時、彼女と同じ選択のできる人間が果たしてどれだけ存在しているというのだろうか。


「殺されることが怖くはないのか?」


「もちろん、怖いです。今でもこうして震えが止まりません。逃げたいと、生きたいと、私は確かにそう思っています」


 アンジェリカの表情から微笑みが消え、彼女が被っていた仮面が剥がれ落ちた。


 彼女の言う通り、良く見れば彼女の足は震えていた。顔色も青く、今にも泣き出しそうになるのをぎゅっと堪えているのが傍から見ていても分かるほど、彼女の恐怖は明らかだった。


 おそらく力を抜けばアンジェリカは立っていることもできなくなるだろう。表情は崩れ滂沱のような涙を流し、言葉はかたちにならずただ恐怖に喘ぐことしかできなくなるだろう。張りつめた精神の糸が切れてしまえば、なりふり構わずこの場から逃げ出してしまうだろう。


 そうなることを、果たして誰に責める権利があるというのだろうか。


 死ぬことをどうしようもなく恐怖し、恥も外聞もなく脅威から逃げ出すこと。


 それは人間として、生きとし生ける者として当たり前のことだ。


 そうする権利は誰にだってある。


 それを責める権利は、誰にだってありはしない。


「ですが、それよりも――死ぬことよりも怖いことがあるんです」


 死に対する、頭がおかしくなってしまいそうなほどの恐怖。


 それだけの恐怖を前に、アンジェリカは自らの意志で立っていた。


 心が壊れそうなほどの重圧に屈することなく、アンジェリカは翁面の男と相対していた。


「この身を糧にして誰か一人でも救うことができるのであれば。私は喜んで礎となりましょう」


「……そうか」


 全身が震える中で、翁面を正面から見据えるその瞳だけは力強い輝きを放っていた。


「せめて、苦しまぬよう一瞬で殺してやろう」


 アンジェリカの言葉が、決意が、意思が、どのように翁面の男に届いたのかは分からない。


 だが、天津甕星を召喚した翁面の男の声色からは、確かに嘲りや侮りの色が消えていた。


「ありがとうございます」


「取り繕う必要など、もうない。……日本のために、せめて安らかに逝け」


 アンジェリカの目の前で、天津甕星の額に光が集まる。


 もうすぐ自分は死ぬのだと祈るように両手を握り、瞳を閉じたアンジェリカの瞼の裏側に、これまでの光景が浮かんでは消えていく。


 まるで走馬灯のように……いや、これが走馬灯なのだろう。


 悲しいのは、あの人に信じてもらえなかったから。ずっと警戒させて、誰かを信頼するという安らぎを知ってもらうことができなかったから。


 悔しいのは、あの人を救うことができなかったから。彼のことを救いたいと八年もの間願ってきたのに、結局その想いは叶えられることはなかったから。


 辛いのは、もう誰も救うことができないから。どれだけ悲しくても、悔しくても、私はもう誰にも会うことも、救うこともできないから。


 犠牲となることが嫌なわけではない。


 自分が犠牲になることで誰かが救われるなら、躊躇わずに自分の身を差し出してみせる。


 それこそ本望だと、心の底からそう思っている。


 だけど、たった一人の少女として無念があるとしたら。


 それは最後に一言、お礼を言うことができなかったこと。


 彼にもう一度会って「ありがとう」と伝えたい。


 その想いを糧にできたからこそ、私は今日まで生きてこれたのだから。


「さらばだ。異教の者よ」


 そして最後に、アンジェリカの心に浮かんだのは。


「アリカ!」


 その声が聞こえた途端、自分が誰よりも救いたいと感じた人の姿が、鮮明にアンジェリカの脳内に蘇った。


「させるかぁ!」


 その声に驚いたアンジェリカが目を開けると同時に、アンジェリカの眼前を薙ぎ払うようにして炎が放たれた。天津甕星の額に集まっていた魔力(マナ)がその乱入者に向かって放たれるが、狙いをつける間もなく反射的に放たれたその一閃はただ虚空を穿っただけだった。


「あ……ああ……!」


 その姿を見て、アンジェリカは思わず自分の口元を両手で覆っていた。


 それはアンジェリカが最後に思い浮かべた、忘れることのできなかった人の姿。


 その左腕を幾重にも包帯で巻いた八尋が、アンリを携えてアンジェリカの前に立っていた。


「お前かァ!」


 そして、予想外の乱入者に過剰な反応を示したのはアンジェリカだけではなかった。


 般若面の男が、怨念の込められたひどく低い声で唸る。


 その顔を覆い隠す般若面のように、怒りと怨みに打ち震える表情が仮面を透けて見えるようだった。八尋によって生きたまま左腕を腐り落された般若面の男が、八尋に個人的な恨みを抱いていることは明白だった。


 だからこそ、なのだろう。


 八尋が、その男に対してわざとらしく、驚いたような声をあげたのは。


「へぇ。まずはお前が相手になるのか」


 口角を持ち上げながら、八尋は二歩ほど前に出た。


 その仕草は、後ろから見るアンジェリカにも挑発的な態度だと感じられていた。


「貴様の好きにはさせんぞ! 土蜘蛛!」


 だが、先日の反省が活きているのか般若面は比較的冷静だった。


 叫ぶが早いか、般若面の男の前に躍り出た土蜘蛛が鋭い爪の生えた前脚を振り上げ、八尋目掛けて振り落とす。ごう、と風を切る音がアンジェリカの耳に届く。だが八尋はその一撃を転がるようにして回避し、即座に立ち上がり体勢を整えてから、叫んだ。


「ドゥルジ! アンリ! 少しの間、そいつらを抑えてろ!」


『やれやれ。人使いが荒いことで』


 八尋の号令と共に、実体を得た不浄の悪神が土蜘蛛と相対し、その動きを抑える。無論、日本の神となんの仕込みもないドゥルジでは力量の差は明確だ。だがそれでも、数秒程度であればその動きを抑えることができるだろう。


 それと同時に、アンリはアンジェリカを守るように……逆に言えばアンジェリカが前に出ることを防ぐように、その身を翻した。


「な……?」


『今宵は月が綺麗ですねぇ、お姫様』


 予想外の行動に戸惑うアンジェリカに向けて意地の悪い笑みを浮かべるアンリの背後で、懐から拳銃を抜いた八尋がその銃口を般若面の男に向けて構えていた。その致死性の高い、一介の高校生が持っているハズのない武器を見た般若面の男が慌てて土蜘蛛に指示を出すが、ドゥルジに妨害されて般若面の男を守ることができない。


 予想外の武器に怯む般若面の男に向けて、八尋は躊躇いなく引き金を引いた。


『……ほう。少しは、良い表情をするようになりましたね、天使娘。なにか善いことでもあったのですか?』


 銃声は、闇夜に轟かなかった。


 八尋が手にした拳銃から放たれたのは銃弾ではなく、直径六ミリのベアリングボール。秒速一五〇メートルで発射されたそれにはアンリとドゥルジ――〝毒〟と〝不浄〟の識能を持つ悪神の識能によって呪いがかけられている。

 不用意に触れるだけで肉が爛れ腐る弾丸には、命中した箇所など関係がない。


 加えて今夜の弾丸は、決戦仕様の特別製だった。


「――っあ、ああああああ!?」


 思わず膝をついた般若面の男の右腕が見る見るうちに腐り、腐臭を放ちながらグズグズになった皮がズルリと剥け落ちる。同時に精力(オド)の供給が断たれ、ドゥルジを倒そうと両脚を振り上げた土蜘蛛の動きがまるで殺虫剤を浴びせられた蜘蛛のように鈍る。


 人が生きたまま腐る、その様子に八尋は眉ひとつ動かすことなく、ドゥルジに般若面の男の首を締めさせた。


「あ」


 じゅう、という肉が焦げるような音と共にひどく間の抜けた断末魔を上げ、般若面の男は事切れた。生きたまま腐る、それはどれほどの苦悶だったのか。般若面の男の今際になんの感慨も抱く様子もなく、ドゥルジは力の抜けきった男の首から手を離す。コンクリートの床に叩きつけられ、割れた男の頭から零れ落ちた血液は、すでにどす黒く変色していた。


 その様子を、アンジェリカはきちんと自分の視界に収めている。少し離れた場所から見ていた分、この場にいる中で最も全体を俯瞰的に捉えることができていただろう。


 故に、それに最も早く気付いたアンジェリカは、咄嗟に声を張り上げていた。


「八尋さん! 後ろです!」


 だが、どれだけそれが早くても、光の速さに対応できる存在などこの世界には存在しない。


 光の刃に貫かれ、ドゥルジの左腕が千切れ飛んだ。


 その瞬間、確かに天津甕星の意識はドゥルジに向けられている。その隙に八尋は翁面の男に殴りかかるが、カウンター気味の一撃が八尋の顔に直撃する。鈍い音と共に派手に殴り飛ばされ、八尋の身体は床を転がった。


 瞬間的な判断によりドゥルジを捨て石にした、正に捨て身の戦い方。


 それでも、八尋とドゥルジだけでは翁面の男と天津甕星には届いていなかった。


『ふむ。そろそろ限界ですか。まぁ、雑魚を掃除できただけでも十分でしょう』


 言うが早いか、飛び上がるように起き上がった八尋はコンクリートの床を蹴り、再びアンジェリカの前、アンリの隣に着地した。そのときアンジェリカの視界に映った八尋の表情は、アンジェリカがこれまで見たことがないほどに苦しく、焦燥の強いものだった。


『八尋、下がりなさい』


 ほとんど普段と変わらない、小さく落ち着いた声はしかし、音声として耳に届かなくても契約の糸を伝わってその意味を契約者へと伝えたらしかった。


 八尋が反射的に後ろに床を蹴ったその直後、翁面の男と天津甕星がまとめて、屋上の半分近くを呑み込むほどに巨大な業火の渦の中に呑み込まれた。深夜だというのに、まるで真夏の快晴日のように周囲か明るく煌々と照らされる。屋上をぐるりと取り囲む手すりのうち、炎に直接触れている部分が見る見るうちに融け、雫となって床に広がっていく。


 鉄を溶かすほどの熱量があるというのに、しかしアンジェリカはほとんど熱波を感じていなかった。さすがに拝火教の主神格だけのことはあり、火炎の扱いについてはお手の物ということか。


 それだけの熱量を誇る業火に呑み込まれ、生きているとは到底思えなかった。それだけではない。先にドゥルジに首を絞められた般若面の男も、ピクリとも動かない。


 再びアンジェリカの目の前で起こった、正真正銘の殺し。


 咄嗟のことで止められなかった。反応もできなかった。


 こみ上げたその感情は、果たして怒りなのか、哀しみなのか。


 それも良く分からないままに、アンジェリカは声を張り上げた。


「神楽威さん! あなたって人は――」


「こんなときまで十分前行動を心掛ける奴があるか、このド阿呆が! おかげで間に合わないところだっただろうが!」


 しかしアンジェリカの言葉は、振り向き様に放たれた八尋の怒声に完全に掻き消された。


 そのあまりの剣幕に……絶対悪が言葉に込めた年相応の少年のような怒りにアンジェリカは怯み、自分がなにを言うべきなのか、なにを言おうとしていたのか、咄嗟に分からなくなっていた。


「大体、どうして抵抗もしないんだ! 自分の思想を盲目的に信じる〝正義の味方〟に素直に殺されてやってどうするんだよ!」


 事態を脳内で上手く消化しきれないアンジェリカのことを、八尋は容赦なく責め立てる。


 その言葉も口調もそれまでのように冷静で平坦なものではない。ひどく感情的で、それがあまりに当然なものに感じられて、アンジェリカは驚きと戸惑いのあまり咄嗟に謝罪の言葉を口にしていた。


「ご、ごめんなさい……?」


 一方の八尋はアンジェリカの謝罪に反応することなく、荒々しい歩調のままアンジェリカに接近していく。


「目の前に現れた理不尽に怒ることなく受け入れてしまうことは思考の放棄だ。ただ屠殺されるのを待つ豚と同じだ。お前はそんな豚に成り下がるのか? 冗談じゃない! 最悪の事態を受け入れるな! 犠牲を強要するそいつをぶん殴れ! さもなきゃ、そいつがお前の大切ななにもかもを奪っていくぞ!」


 彼の言うことにも一理あるとアンジェリカは思う。


 だが、いくらなんでも言い過ぎではないか。自分はあくまでも自分の目的のために行動しただけだ。それを、後からやってきた八尋がとやかく言うのはおかしいではないか。第一、悪いのはどう考えても相手を殺した八尋ではないか。


 そう考えたら、なんだかイライラしてきた。


 八尋が自分に容赦なく向ける不躾で無遠慮な叱責に、まるで幼い頃に唐突に湧いてきた怒りのような思いに、アンジェリカも反射的に言い返していた。


「いきなりなんですか、八尋君! 悪いのはどう考えてもあなたの方でしょう? いきなり問答無用であの人達を殺すなど、あなたは一体なにを考えているのですか!」


「知ったことかバカ野郎! そんな悠長なことを言ってる場合か! むざむざ相手に殺されに行くような奴の心情を考慮してる必要性がないことも分からないのか!」


「バカって言う方がバカなんですよ、不届き者! それに、私がなにをしようとあなたには関係がありません! 大体、どうやってこのことを知ったのですか!?」


「お前のところの告知天使からだよ! 自分のところの天使くらい管理しておけ!」


「し、知りませんよ! 私が犠牲になればすべてが丸く収まるのです! ですから、あなたが戦って傷付く必要はありません!」


 言葉を飛ばし合いながら、剥き出しの感情をぶつけ合いながら、こんなにも誰かに対して怒ることができる自分自身に戸惑いながらも、その一方的で乱暴な言葉を不思議と温かいとアンジェリカは感じていた。


 感情を露わにした八尋の姿が、それに対して自分の感情をぶつける自分自身が、何故だか懐かしいものだとアンジェリカには思えたのだ。


「ああ、もう! いいから、お前は黙って俺に護られておけばいいんだよ!!」


 そうだ。


 この感覚に、私は覚えがある。


 これは確か、昔の……もう忘れたと思っていた、今よりもずっと自分が小さな頃の――


「……八尋、君?」


 唐突に、気付いた。


 自分に対して怒鳴る八尋の顔は、怒っているのに何故だか泣いているようで、今にも涙を流しそうに歪んでいる。彼が怒る必要はないのに。泣いてほしくなんかないのに。自分のせいで苦しんでなんかほしくない。だけどそんな彼を救うためにはきっと、自分は絶対に死んではいけない。


 なんということだろうか。


 もし自分が誰かを救うために犠牲になったら、一番救いたかった人が二度と救われなくなるなんて!


「大体、お前は昔っから――」


 自らの考えの浅慮さ、愚かしさ、そして八尋が見せる涙に思わず声を詰まらせたアンジェリカに、捲し立てながら詰め寄る八尋。


 だがその歩みも言葉も、二人の間に放たれた一条の閃光によって遮られた。


 それは人の身体を安々と焼き切り、天使の盾すらも傷付ける光の刃。


 その光の下には、天津甕星を携えた壮年の男の姿があった。どうやら、その顔を覆い隠していた翁面は消失したらしい。だが、それ以外の損害に関しては、衣服の端が多少焦げているだけで炎に包まれる前とほとんど変わっていない。


 鉄をも融かす業火の渦は、男と天津甕星の手ですでに雲の如く霧消していた。


「それ以上続けさせんぞ、〝絶対悪〟。不意打ちの火炎の檻だけでなく、お前達のやり取りにも意味があることはすでに理解している。そうして相手の度肝を抜いて時間を稼いで、これまでのようになにかを仕込むつもりなのだろう?」


『おや。三度目ともなりますとさすがに気付きますか。まぁ、同じ手が通じるのは精々二回まででしょうしねぇ。それ以上通じるのは、ココの出来がお粗末な人間でしょうし』


 表情を露わにした、アンリは自らの頭を指でコツコツと叩く。


 その仕草は、暗に三度目の手段が通じてしまったこれまでの〝正義の味方〟をバカにしたものでもあったのだが、その小さな悪意に気付けたのは八尋だけだろう。


『ですが今回は、半分以上本心から八尋は怒っているのですよ? 無論、その怒りの感情を無意識に利用していることは否めませんが、八尋は本当にそこの天使娘の不用意な行動に怒りを覚えているのです』


「アンリ。余計なことを言うな」


 悪意を以ってして生まれるアンリの言動を八尋は諌める。


 それは相手に余計な情報や印象を与えないように、という意図もあるが、今回に限ってはその意味合いは照れ隠しのそれが大きい。


 何故なら八尋とアンリがどのような態度を取ろうとも、アンジェリカが乱入をどのように思っていたとしても、アンジェリカを助けるために二人がココに来たのだという事実は誰の目から見ても明白なものだからだ。


 例え取り繕ったところで、この場においては意味など生じようがない。


「そして、そのような人間に頼るのが、お前達カトリックのやり方なのだな……!」


「ち、違います! この人に対して、私は助けを求めていません!」


 男の激怒の感情に、アンジェリカは慌てて弁解する。


 だが、その言葉を聞き入れる者がいるハズがない。


 本人達の意図や感情がどうあれ、八尋の目的は客観的に見ても否定のしようがなかった。


「アンジェリカ。ことここにきて、相手の心情を慮ってどうする?」


「だから、私は――」


「いいから、黙って聞け。現実問題として、これから戦い、負けた方は死ぬという状況で相手の心象がどうなろうと関係がないだろうが。それに……見ろよ。やっこさんはヤル気満々だぞ」


 アンジェリカに向けて、八尋が顎でしゃくったその先。


 そこには激情に燃える男と天津甕星が、すでに臨戦態勢で八尋達のことを睨みつけていた。


「日本に害をもたらす思想を撒き散らす輩と、それに賛同する〝絶対悪〟生かしておくわけにはいかん!」


「アンジェリカ。下がってろ」


「な……!? なにを言うのですか! これは、元々は私が――」


「例え天使三柱で挑んだところで、お前になにができると言うんだ? つい半日前に天使三柱がかりで挑んで負けたんだろ? それとも、意味もなく抵抗して無駄死にするのか?」


「そ、それは……それでも、私は!」


「分かったなら、黙って見ていろ。これは、俺の……〝絶対悪〟のするべきことだ」


 八尋はアンジェリカに背を向け、顔を乱暴に拭ってから再び一歩前に出る。


 すでに、八尋の表情は元に戻っていた。


「行くぞ、アンリ」


『……八尋。少しだけ、一人で戦ってもらえませんか?』


「は? なにを言ってるんだ、アンリ。俺とドゥルジだけであいつに敵うわけがないだろうが」


『お願いします。ひとつ貸しということで構いませんから。……それにこの場合、死体もありますし、まずは私よりもドゥルジの識能を活かした方が良いでしょう?』


「む……」


 珍しく殊勝な態度を取るアンリに、八尋は戸惑っているようだった。


 それも無理のないことだろう。天上天下唯我独尊を地で行く悪神が、命令や脅しではなくお願いをしているのだ。その性格を抜きにしても、目的に対して手段を選ばず合理的な選択を好むアンリが、不利を承知でそのようなことを願うなど、付き合いの長い八尋であればなおさら予想できないだろう。

『三分。それで十分です。私の願いを、聞き入れてはもらえませんか?』


「くっ……分かったよ! ただし、二分だ! それ以上は譲れん!」


『ありがとうございます、八尋』


 だが、最終的には八尋が折れた。


 そうなることを、アンリ自身も予測していたのだろう。


 そうでなければ、あの悪神がそのようなことを言うハズがないのだから。


「行くぞ、ドゥルジ」


「ま、待ってください八尋さん! 私が犠牲に――」


『いえ。それはダメです、天使娘。私はあなたに尋ねたいことがあるから、こうして不利を承知で八尋だけに戦いを押し付けたのですから』


「え……?」


『時間もないので簡潔にいきましょう。あなたは一体、誰のために戦うのですか?』


「それは――」


 その問いに答えようとアンリの瞳に視線を合わせた二人のやりとりの後ろで、翁面の男と八尋、天津甕星とドゥルジが改めて相対していた。だがドゥルジの左腕は喪失しており、八尋も完全な状態とはとても言い難い。今すぐにでも八尋を助けたいと、アンジェリカは確かにそう思っている。


 それなのに、目の前の悪神をアンジェリカは無視できなかった。その光景が霞んでしまうほどに、アンジェリカの前にいる悪神の威圧感と存在感は巨大で、気を抜けば押し潰されそうなほどの悪意を放っていた。


『……どうして、そのようなことを尋ねるのですか?』


『あなたが八尋のことを救いたいと、そう考えているからですよ』


 予感があった。


 故に、軽々しく言葉を紡ぐことができなかった。


 目の前の悪神は人の悪意に敏感だ。だから、分かる。


 生半可な気持ちで答えれば自分は一瞬で(くび)り殺されてしまうのだと、その瞳が訴えていた。それだけではない。死を司る悪神が本気で悪意を込めた視線を、アンジェリカは心底怖ろしいと感じていた。


 下手なことを言えば、問答無用で殺される。


 身体が底冷えするような感覚に、思わず両手で自分の身体を抱きしめ、蹲りたくなる衝動にかられた。できることならアンリから視線を逸らし、逃げ出してしまいたいとすら感じていた。


 だが、強烈なまでの恐怖をなんとか押し殺して、アンジェリカは逆にアンリに問いかけた。


 そうしなければならないと、なにかが心の中で強く訴えかけていた。


「あなたは……もしかして、八尋さんが救われてほしくないと、そう考えているのですか?」


『いいえ。ただ、確認しておきたかったのです。あなたがあそこの能面の男と同じ〝正義の味方〟なのか、それとも本当に八尋を救うことのできる〝正義の味方〟なのか。……果たしてあなたに八尋を救う資格があるのか、どうなのか。私はそれが知りたいのです』


「……そんなことのために、あなたは八尋さんを一人で戦わせるのですか?」


『そうです。これは私のわがままです。非常に性質の悪い私個人のエゴです。ですが……大嫌いなんですよ。自分を善い存在だと疑うこともなく、誰かの〝せいで〟人々を救う〝正義の味方〟のことが。そのような人間が八尋と同じステージに立って戦うことも、八尋を救うことも、私は許せません。そんな人間を彼の隣に立たせたくないのですよ。例え八尋が死ぬことになろうとも、それだけは許容することができません』


 それは、彼女が〝絶対悪〟であることが信じられなくなるほどに真摯で、しかし明確な悪意に塗れた、誰かのことを心から思った自己中心的な願いだった。


「ひどく、自分本位な願いですね」


『それはそうでしょう。私は〝絶対悪〟アンリ・マユ。だからこそ、私の愛する〝絶対悪〟の心を、温い正義感しか持たない小娘に祝福されたくなかった。私の大嫌いな〝正義の味方〟なんかに穢されたくなかった。ただ、それだけの話です』


 その悪意に塗れた信条を、アンリは臆することなく、表情ひとつ動かさずに吐露していく。


『あなたが八尋を救いたいというのであれば、聞かせてください。アンジェリカ・癒泉・ミナルディ。あなたは八尋を救う資格を持っているのですか? あなたは一体、誰のために救いを求め、誰のために戦うのですか?』


 絶対悪と救世主。


 真正面からお互いを見据え、視線を逸らそうとしない。逸らすことができない。


 こんな状況で……いや、こんな状況だからこそ投げかけられた問いの意味を、重さを理解できないほど、アンジェリカは愚かではない。


 それは奇しくもあの日――今の二人が初めて出会った場所で、八尋に問われた言葉。


 あのときの自分は、咄嗟に答えをかたちにすることができなかった。


 少し前までの自分でも、答えることはできなかっただろう。


 だが今なら、答えることができる。


「この世界中で、誰かが誰かを救うために剣を振るう理由に本当に興味がある人間なんて存在しません。そんなもの、おそらく誰も歯牙にもかけたりしないでしょう。……そもそも救われた側の存在にとって、それは果たしてどれほど大きな問題なのでしょうか? 救った側の心情を、一体誰が気に留めるというのでしょうか」


 関係がないのだ。


 どこの誰ががどうなっていようとも、なにを考えていようとも。


 私があの人を想うことも、私がしなくちゃいけないことも、なにひとつ変わらない。


 きっとあの人も、同じ想いだったのだろう。


 立場は違っても、想いの根源は〝正義の味方〟も〝絶対悪〟も変わらない。


「誰かを救う資格なんて、誰も持っていません。理由なんて必要がないんです。誰かを救いたいと思った人が勝手に戦って、願って、その結果として救われた。それで十分なんです」


 どうしてそう思うのか? 決まっている。


 他でもない私自身がそうしたいと願ったからだ。


 八尋を含めた自分以外の誰もが救われることを、そう在るべきだと心の底から思ったからだ。


 そのためならば自分がどうなっても構わないと、あの日誓ったからだ。


「誰が願っていようと、願っていなくても、私には関係がありません。私が……他でもない私が、救いたいと思っているから救う。私が救いたいと願っているから、誰であろうと救ってみせると、そう思っている。ただ、それだけの話です」


 気付けば、震えは止まっていた。


 アンリの瞳に込められた悪意を、真正面から受け止めることができていた。


 その悪意を怖ろしいとは、もう感じなくなっていた。


『なるほど。ではあなたの誰かを救いたいという独善的な行動の結果、却って事態が悪化してしまったとしたらどうしますか?』


「そうならないように最善を尽くす……と、それは理想論ですが。それが必要であるのならば、私が手を出さないという救いのかたちもあるでしょう。そもそも、私が手を出さないことでその人が救われるのであれば、それで構いません。誰が救ったのか、なんてどうでもいいのです。結果として救われたのであれば、それで十分です」


 自分でも驚くほど、答えがすらすらと言葉になっていった。


 それを具体的なかたちにすることができなかっただけで、その答えの断片はおそらくずっと昔から胸の中にあったのだ。足りなかったのは、それを言葉にするだけの覚悟と意志。ただ漠然と、誰かを救いたいという思いと決意さえあればいいと、そう考えていた少し前の自分では到底辿り付けなかった答え。


 だけど彼に再び出会うことができたから、その曖昧な思考から答えを導きだすことができた。


 誰がなんと言おうと、私には関係がない。


 それは、特別なことでも、すごいことでもない。


 私は、私がそうしたいから救う。


 ただ、それだけのことなのだ。


『……少し前までただの小娘だったのに、随分と言うようになりましたね。ですが、これで利用しやすくなりました』


「それで結構です。悪意に手を貸すことはできませんが……結果としてそれが八尋君を救うことに繋がるのであれば構いません。この身をいくらでも利用してください」


『ふふ。なるほど。どうやらあなたは――』


「アンリ! アリカ!」


 不意に聞こえた八尋の声に、アンリとアンジェリカは同時に八尋の方へと視線を向けた。


 その視線の先では、切り裂かれたドゥルジが実体を保てなくなり、風に吹かれた煙のようにその身体が消滅していく姿があった。男の攻撃に顔を歪めながら、それでもこちらに視線を向けて必死に叫ぶ八尋の姿があった。剣を構えたまま天津甕星に指示を出す男の姿と、それに従いこちらに向かって床を蹴る天津甕星の姿があった。


 風が唸る音をあげ、拳をアンジェリカに向けて打ち込む姿が見える。それは岩をも砕く致死の一撃。だが、アンジェリカは動くことができない。天使を召喚することもできない。その速度はアンジェリカの反応速度を超えていた。


 だが、不思議と怖くはなかった。


 大丈夫だと、確信を持っていたから。


 気付けば。


 天津甕星の拳を、アンリがその小さな手で真正面から受け止めていた。


『良いでしょう。あなたは〝正義の味方〟ですが、八尋が信じる通り凡百の偽善者とは違うようです。……元より、私はあなたを八尋のために利用するつもりでした。本人から了承が出たのですから、喜んで使わせていただきます』


 弾かれたように、天津甕星がアンリから離れて後ろに跳んだ。


 それと入れ替わるようにして、八尋がアンジェリカの元へと駆け寄ってくる。


 その姿を見ただけで、明らかに八尋の不利な状況なのだとアンジェリカにも理解できた。


 半ば不意打ちのように土蜘蛛と般若面の男を倒したとはいえ、翁面の男と天津甕星の力は小細工が通じるようなものではない。経験がどうこう言う以前に、絶対的な力量が違うのだ。


 だが、アンリの反応は彼らにも予想外のことだったらしい。


 翁面の男も天津甕星も、八尋に追撃をかけたりはしなかった。


 一旦仕切り直し、ということなのだろう。その表情からは確かに、得体の知れない存在に対する警戒が滲んでいる。


 そしてアンジェリカ自身も、未だ完全には理解が追いついていないのだ。


 日本の神の一撃を異教の、それもあまり一般的ではない宗派の神であるアンリが一度ならず二度、三度と防げることが異常なのだ。神格や識能がどうこうではなく、根本的になにか特異なことが起こっているのは明白。


 だが、その異常を成し遂げた本人は翁面の男やアンジェリカの動揺や疑問などどこ吹く風といった様子で微笑み、八尋の姿を見守りながら口を開いていた。


『それでは。悪意を以って、三千世界の正義を殺しに行くとしましょうか』


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