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12.聖人の想い

 夜道を一人、歩く。


 誰もいない、街外れへと向かう道。


 月は半月。街中のように星明かりを打ち消すほどの強力な光はなく、周囲を照らすのは淡い月光と間隔の広い街灯のみ。


 痛いほどの静寂の中、星が綺麗だ、と空を見上げたアンジェリカは思った。


 特に今夜は、金星が良く見える夜だった。


 昼間は大分温かくなってきたとはいえ、まだ四月の終盤。日付が変わる時間帯はまだ肌寒く厚着が欠かせない。肌を刺すほどではないが、世界と自分の境界線がはっきりと感じられる程度には風が冷たく、周囲の人気の無さも相まって自分がこの世界にたった一人だけで存在しているように感じられる。


 そんな夜に一人で歩いていると、つい考え込んでしまう。


 自分は、なんと無力な存在なのだろう。


 天使と契約し〝聖人〟となることで、人々を救おうとした。


 だが結局、最後の最後でたったの一人を救うことができなかった。


 自分のせいで、彼は救われることなく〝絶対悪〟で在り続けなければならないのだ。


『そこまで気負うことはない』


「ミカエル」


 アンジェリカの意志を確認せずに、ミカエルが(エーテル)体となってアンジェリカの傍に現れた。それをアンジェリカは特に咎めたりせず、ミカエルも歩を止めないアンジェリカの隣に追従するように宙を進み始めた。


『お前はできることをした。最善を尽くした。その結果、ああなったのだ。あの者は救い難い悪だ』


「本当に、そうなのでしょうか?」


 歩を止めることなく、アンジェリカはミカエルに反論した。


『少なくとも、私はそう思う』


「私には、そうは思えません。私がもっと上手く立ち回ることができれば……私に力があれば、彼を救うこともできたのではないか。私にはそう思えてなりません」


 二人の言う〝彼〟の姿を思い浮かべ、アンジェリカの瞳が僅かに潤む。


 ずっと会ってお礼を言いたかった相手は、知らないうちに〝絶対悪〟になっていた。


 他でもない、アンジェリカのせいで。


 無論、すべての原因がアンジェリカにあるというわけではない。だがその原因の一旦は、間違いなく自分にある。少なくとも今日、自分を守るために彼は悪を為した。


 彼にそう在ることを強いたその一端は、他でもない〝正義の味方”自身。


 その事実に、アンジェリカは身が引き裂かれそうな悲しみを覚えた。


 自分も〝正義の味方”の側に属する人間だ。だから、思う。


「私が〝絶対悪”で在らねばならなかったのは私のせいでもある。私は、そう思います。」


 自分の声は彼の心に届かなかった。


 想いは、受け取ってもらえなかった。


 救いたいと願っていたのに、救うことは叶わなかった。


 自分が信じるに値しない人間だったから、私は彼を救うことができなかったのだ。


『慈悲深いな、お前は。それでこそ、我らが選んだ〝聖人〟だ』


「いえ。きっと、そういうわけではないのだと思います」


『謙虚は美徳ではあるが、行き過ぎると嫌味だと感じる者もいるぞ?』


「謙虚なんかじゃありませんよ。紛れもない事実です」


『……変わらないな。昔から、お前はいつもそうだった』


「そうですか? これでも、少しは大人になれたと思うのですけど」


『確かにそうだが、お前の本質は我々がお前を見初めたあの日から変わっていない。移り変わりやすい人間の魂がその在り方を維持し続けるなど、驚異的とも言ってよいことだ』


「…………」


『お前が我らと契約を結んでから、もう八年になるのだな』


「そう、ですね。あの日から、もう八年が過ぎたのですね」


 歩きながら、アンジェリカは再び空を仰ぎ見る。


 郊外の澄んだ空気と雲ひとつない夜空。その空が、炎と爆煙と血液で赤黒く染まったことがあった。どこもかしこも人の泣き声と怒声と呻き声ばかりで、人が持つ正の感情が欠片として存在しない悪夢のような日々があった。


 あまりに記憶に鮮明に残っているためにまるで昨日のことのように思いだされる、地獄のような光景。毎日を必死に生きるあまりに、それから八年も過ぎたのだという実感がアンジェリカ自身も驚くほどに希薄なものに感じられていた。


『……すまない、アンジェリカ。私達はお前に、嘘をついていた』


「どうしました、急に?」


 不意に進行を止めたミカエルに、アンジェリカもまた歩みを止めて振り向いた。


 青年の姿をした、いつも自信壮大で威風堂々とした体を崩さないミカエル。


 その大天使が今は俯き、表情を歪ませ……ひどく、人間臭い表情を浮かべていた。


『八年前。お前は聖人となった。その際に支払った対価のことを覚えているか?』


「ええ。覚えていますし……その選択に、少しも後悔していません」


 自然と脳裏に、八年前のあの日の光景が浮かぶ。


 それは八尋やアンリが話したそれと同じ、地獄のような凄惨な光景。


 そして八尋が語れなかった、あの日のもうひとつの真実。被災者の数だけある、四三〇事件の真実のひとつ。


 壊れゆく空港と死にゆく人々を見てアンジェリカが真っ先に覚えたのは、自分の知る小さな世界が突然足元から崩れていくような、おかしくなってしまいそうなほどの喪失感と不安感。そして、それ以外の感情をすべて塗りつくしてしまうほどの恐怖。


 その押し潰されそうな恐怖の中で、自分の身を呈してアンジェリカのことを救ってくれた少年がいた。結果として自らが瓦礫に押し潰され、血に塗れることを彼が想定していたとは思えない。だがそれでも、彼は自分のことを救ってくれたことに間違いはない。


 彼は例え自身が死ぬことが分かっていたとしても、アンジェリカを救おうとしただろう。


 同じ恐怖を味わいながら、彼は真っ先にアンジェリカを救うために身体が動いたのだ。


 その優しく強い想いを受け取ったからこそ、今の自分がここにいる。


 彼が、自分のために犠牲となる。それは自分が死んでしまうことよりも

辛いことなのだと、そのときに感じた想いは今でも変わらない。


『それだけのものを対価に奉げさせておきながら、我々はお前の唯一の願いを叶えることもできなかった』


「……両親のことは、仕方がなかったと思っています。事故が起こった時点で、すでに亡くなっていたのでしょう? いくらミカエルほどの存在であっても、二人もの人間を蘇生させることはできません」


『ああ。だが、それだけではない。我々天使が驚くほどに強く澄んだ想いをお前は見せた。だが、我々とお前が契約したとき、彼はすでに〝絶対悪〟に保護されていた。辛うじて彼の怪我を癒すことはできたが、彼の契約は〝護り助けること〟お前が支払った対価として彼とお前の関係性を徴収することもできなかったが、同時に彼を〝絶対悪〟から護ることもできなかった。その事実を、我々は知っていながら黙っていたのだ』


「だから私は……彼のことだけは、朧気ながらも覚えていられたのですね?」


『そうだ。さすがに、幼い頃の記憶の経年劣化は抑えられないが、だからこそお前はその記憶を徴収されずに、心の中に留めておくことができたのだ』


「事情は分かりました。だから、事件以前の記憶が残っていたのですね。長年の謎が解けた気分です。……しかし、何故それを今になって、こんな場所で話したのですか?」


『懺悔だ。これから死にゆくというのに、なにひとつ嫌な顔をしないお前に対する、我々なりの誠意だと思ってくれ』


「嫌だなんて……そんなこと、思うわけないじゃないですか。私はみんなを助けたいのです。この世界にいるすべての人々を救いたいのです。勿論、私のようなちっぽけな存在一人にそんな大それたことはできないでしょうが……私が糧になることで誰か一人でも救うことができるのであれば、そのために嫌なことなど、なにひとつとしてありません」


 そこまで話してから、アンジェリカはミカエルに背を向けた。


「裏切られた。騙された。……そう言っても差し支えのない状況なのに、どうしてでしょう。思っていたほど、悲しいと感じていない自分がいます」


 そして目を閉じ、アンジェリカは天使に自身の想いを語る。


 まるで、物語を小さな子供達に語るシスターのように。


「いえ。むしろ私は心のどこかで、このようなすれ違いを生み出した主に感謝すら覚えています。だから私は、彼のことを……私を支えてくれていた温かい思い出を覚えていることができたのですから。……いけないことなんですよね、この気持ちは。かつて、彼を救うことができなかったから今の私がある、ということなのに。彼は、あなた達が唾棄する〝絶対悪〟になってしまっているのに」


『アンジェリカ……?』


「奇跡。そう言っても過言ではないことだと思います。なにかひとつでもタイミングがずれていれば、出来事が違っていれば、そうはならなかったでしょう。その奇跡を、望んではいけないことなのに――私のことを彼が覚えていてくれたことが、私が彼のことを覚えていられたことが、そして彼がそうまでして私のことを護ってくれたことが――――嬉しいと、心のどこかで私はそう感じているのです」


 くるりとアンジェリカは振り向き、茫然とした表情を浮かべるミカエルにゆっくりと歩み寄った。


「だから、おあいこです。あなた達が私のことを騙していたように、私は聖人として抱いてはいけない気持ちを抱いてしまいました。私は人々を救うべき存在なのに、私は〝絶対悪〟である彼のことをまったく否定できないのですから」


 話し、アンジェリカは力ない微笑みで、おどけるようにミカエルの鼻を指で押した。


 どれだけ歪んでいても、高尚であっても、彼女が未だ少女であることに変わりはない。


 初めは、八歳の子供だった自分の知る狭い世界を救うことだけを考えていた。それは、それ以外の世界の人達に想いを馳せることができるほど、当時の自分は大人ではなかったから。目の前の残酷な現実に、ほとんど反射的にそう願っただけだったに過ぎない。


 それが天使と契約して、カトリック教会に関わって世界を知る内に、世界中の人々を救いたいと思うようになっていった。この世界には救われない人間があまりに多すぎる。多くの人々と触れ合い、その悲痛な叫び声を聞くたびに、自分の身を引き裂かれるような悲しみを覚えてきた。


『アンジェリカ……』


「ミカエル。最後にひとつ、お願いがあります。もしこんな私のことを赦してくださるのであれば、どうか彼のことも赦してあげてくれませんか?」


『それは……』


 言い淀むミカエル。


 先ほど、あのようなやり取りをしたのだ。例えアンジェリカにお願いされたところで、そう簡単に意見を覆すことなどできないのだろう。


「ならば、追加契約というかたちではどうでしょう。対価は過去に払い切れなかった私と彼との記憶と関係性。その対価で今度こそ、彼のことをあなた達の裁きから護ってあげてください」


『なっ……!?』


「もしかして、我々の関係は追加契約が出来ない程度のものでしたか?」


『そ、そういうわけではない。だが、だが……!』


「ならば、何故?」


『それは、私が聞きたいくらいだ! どうして……ッ! どうしてそこまでしてお前は、奴を救おうとできるのだ!?』


 それは、ひどく天使らしくない動揺の混じった慟哭だった。


 それは、大天使にすら理解できない感情だった。


 ミカエルにとって、八尋は裁かれるべき〝絶対悪〟だ。


 そんな存在ですら、自分を犠牲にしてでも救おうとするアンジェリカのことが――契約の糸の繋がりにより彼女が心の底から彼を救いたいと願っていることが理解できるからこそ、ミカエルは理解できなかったのだ。


「そうですね……」


 ミカエルの問いに、アンジェリカは改めて考えてみる。


 自分の想いと願い、その根源となった人の存在。


 これまで強く願ってきた、誰かを救いたいという想い。


 何故私は、こんなにも彼のことを救いたいと思っているのだろうか?


 改めて数分ほど黙って考え、アンジェリカは唐突に閃いた。


 皮肉なことに、アンジェリカは今になって、八尋の本質を掴めたような気がした。


「もしかしたら私は昔から……八年前のあの日から、彼に影響されていたのかもしれませんね」


 ああ、そうだ。


 今になって、ようやく分かった。


「ダメ……ですか?」


『…………分かった。我々の負けだ。恩赦をくれてやる。アンジェリカに免じて、奴のこれまでの罪は問わない。対価も必要ない。だが、これから犯すであろう罪は別だぞ』


「ありがとうございます、ミカエル。私には、それで十分です」


 満面の笑みを浮かべてから、アンジェリカはミカエルに背を向けて再び歩き出した。


 願いはいつしか、自分の中で膨らんでいった。


 この世界にいる誰一人にだって、悲しい想いをさせたくなかった。


 だから私は聖人として、多くの人を救おうとした。


 その根底にある想いは、きっと彼と同じもの。


 だが、どれだけ願っても、祈っても、もう遅い。


 何故なら私は、もう――


『着いたぞ、アンジェリカ』


 ミカエルの声に、アンジェリカは再び足を止めた。


 物思いに耽り過ぎてしまったのか。気付けば、目的地に着いていた。


 鳴田市の郊外にある、鳴田記念公園。


 かつての国際空港の跡地に造られた、忘れることのできない場所。


 公園の面積の半分以上を占める慰霊広場の中央に悠然とそびえ立つ慰霊塔の高さは二百メートル近くあり、ほぼ頭頂部にある展望台からは鳴田市を一望することができる。この街で起こった惨劇を忘れないために、そしてその惨劇から立ち直った街を後世に受け継いでいくために。そのような意図で、この過剰ともいえる高さの慰霊塔が造られたらしい。


 慰霊塔という役割上、その土台の部分に埋め込まれた慰霊碑には、約三十万にも及ぶ八年前の事件の犠牲者の名前が刻まれている。その慰霊碑を背景にして慰霊広場に設けられた特設会場にて明後日行われる八回目の慰霊式典において、アンジェリカはカトリック教会の慰問団の代表として、そして一人の被災者として壇上に立つ予定になっている。


 だが今夜のアンジェリカは、その下見に来たわけではない。


『逃げても構わないのだぞ? 自分の身を守ろうとすることは、決して悪ではない』


「いいえ。逃げませんよ。それよりも、怖いことがありますから」


 会話を続けながら、アンジェリカは公園の敷地内に足を踏み入れる。


 植木に囲まれた慰霊広場、その中央に坐す慰霊塔の入り口に、二人の男の姿があった。


 童子面と、般若面を着けた狩衣の男達。


 その二人を前にしてもなお、アンジェリカは悠然と歩を進めて行った。


 死ぬことが怖いわけではない。


 だが、死ぬよりも怖いことがある。


 それは、自分のせいで誰かが不幸になってしまうこと。


 死ぬよりも悲しいことがある。


 それは、この世界に救われない人が存在していること。


 死ぬよりも辛く、悔しいことがある。


 それは、自分が救えた人間を、未熟故に救うことができないこと。


 自分は今夜、ここで死ぬだろう。


 それでも構わないと思える想いが、アンジェリカの胸にはあった。


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