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11.絶対悪は止まらない

「どういうことなのか、すべて説明してください!」


 八尋の意識が覚めた頃には、すでに日差しは傾きかけていた。


 気付けば市内にある総合病院の一室で、左腕を包帯で厳重に保護された状態でベッドに横たわっていた。目が覚めるなり傍にいた早苗に泣きながら抱きつかれ、今でも自分にしがみついたまましゃくりあげる早苗の頭を、上体だけを起こした姿勢で優しく撫で続けている。


「どうして私を庇ったのですか! 敵を倒すためとはいえ、クラスメート達をあのように使うなど、一体なにを考えているのですか!」


 感情を露わにしたアンジェリカの怒声に、早苗は反応もしない。


 アンジェリカがそうであるように、早苗にとってもそれ以外のことが考えられなくなるほど、それは大きな出来事だったのだ。


「うるさいな。この程度、なんともない怪我だよ」


「なんともない、なんて嘘です! ……神経が一部、焼き切れているのですよね? 傷が癒えても、まともに動かせるかどうか……感覚が戻るかどうか、分からないのですよね?」


 アンジェリカの視線が落ちたその先には、八尋の左腕があった。


 医療の進歩は、切断された腕を再接合する域にまで達している。骨も、血管も、筋肉も、皮膚も、制限時間内に一度繋いでしまえば長くて三ヶ月もあれば元通りに繋がる。


 だが、神経が傷付いてしまった場合、その機能の回復には極めて長大な時間を要することになり、場合によっては後遺症が残ることもある。神経とはそれだけ複雑で、繊細な組織なのだ。


「どうして、なにも言わないのですか? ……どうしてっ! 私に対して、なにも仰ってくださらないのですか……!」


 相手の事情に配慮することなく、ただ自分の問いを相手にぶつけるだけの行為。


 アンジェリカらしくもない一方的な捲し立ては、彼女自身もまた混乱しているのだということを如実に示していた。


 それらの問いに八尋はひとつとして答えようとせず、ただアンジェリカの言葉を聞き流すことに専念している。それはただの意地悪などではない。八尋もまた、最初に出会ったときのように、アンジェリカが納得できる答えを持てないでいるのだ。


「……あなたはっ! 私を、騙していたのですか……?」


 だが、言葉にならないことが相手に伝わる道理などあるはずもない。


 八尋の態度に目に涙をため、唇を噛んで俯くアンジェリカ。


 その表情に、さすがの八尋の心も痛みを感じてしまう。


 咄嗟のことで、つい昔の呼び方で名前を呼んでしまった。


 それは八尋にしては珍しい、明らかな失敗だった。


 アンジェリカが自分のことを――かつて彼女のことを『アリカ』と呼んでいた少年を探していたことは知っていたハズなのに。彼女が〝聖人〟となったきっかけの少年が今は〝絶対悪〟になっているなんて、彼女は知らなくてもいいことなのに。


 自分の左腕なんて、彼女の心に比べたら取るに足らないものなのに。


 ただ、自分の世界を護るように、今の彼女の世界を護りたかっただけなのに。


 世界はどうしてこんなにも、ままならないものなのだろうか。


『もう、十分だろう。アンジェリカ』


 不意に、場違いなほどに綺麗な男の声が八尋達のいる病室に響いた。


 次の瞬間、実体となって現れたミカエルが八尋に向ける視線は、ひどい侮蔑が込められたものだった。


『先の戦いで判断材料は十分過ぎるほどに集まった。これ以上傍で見定める必要もあるまい。思っていた通り、この者は救いようのない悪だった』


「そ、そんなこと…………っ、まだ分かりません! 確かに彼の行いは悪辣でしたが、彼のおかげで我々が助けられたこともまた事実です!」


 一度は俯きかけた視線を戻し、アンジェリカはミカエルに反論した。


 その事実に、この場にいる中で誰よりも驚いたのは八尋自身だった。


 クラスメート達の死体を消耗品の如く使ったことも、自分達の関係についてアンジェリカにずっと嘘をついていたことも、紛れもなく悪の行いだ。八尋のことを悪人ではないと一方的にでも信じていた彼女から見れば、それは明白な裏切りだと謗りを受けてもおかしくもないことだと八尋は思う。


 それでもアンジェリカは、八尋を庇おうとしていた。


〝聖人〟である彼女が、〝絶対悪〟である八尋のことを弁護しているのだ。


 一体なんの冗談なのだ、と八尋は思わずにはいられなかった。


『そうだな。確かに我々はその者に助けられた。進んでクラスメートを助けようとしなかったことも、善い行いではないが悪というわけでもない。だが、その者が死を肯定し、心を痛めずに死者を冒涜したことは紛れもない事実だ。そのような人間を、悪とせずになんとする?』


「それ、は……っ!」


 毅然と対応していたアンジェリカが、ミカエルの反論に言葉を詰まらせる。


 大天使が主張する通り、八尋が行った悪辣は言い逃れようのない事実だ。例えその行いのために誰かの命が救われたとしても、それとこれとは話が別なのだ。ましてや、八尋は〝絶対悪〟なのだ。過失相殺を考慮したとしても、トータルで言えば悪行が勝ることは間違いがない。


 善行は善行、罪は罪。


 苛烈とも言える天使達の正義は、八尋の断罪を求めていた。


『お前は救いようのない悪だ。これまでも、多くの罪を重ねてきた悪だ。これからも、多くの罪を重ねる悪だろう。ならばここで、我々の手によって裁かれなければ――』


「黙ってよ、バカ天使!」


 それはひどく悲痛で、しかし心に響く声だった。


 そこに込められた怒りと悲しみは、八尋の心にすら届くものだった。


 それは、人としてまともな感覚が擦り減り始めている八尋が無視できない唯一の声だった。


「あなた達にお兄ちゃんの一体なにが分かるのよ! お兄ちゃんが一体どういう想いでいたのか、どうしてそんなことをしなきゃいけなかったのか、知らない癖に……神様はお兄ちゃんになにもしてくれなかったのに、どうして今さら、そんなこと言うのよ!」


「もういい、早苗」


「だけど、お兄ちゃん!」


「いいんだ。それに、お前が怒るようなことじゃないだろう?」


「怒るよ。絶対に、許せないよ」


「どうしてだ?」


「お兄ちゃんは、自分のためには絶対に怒らないから……私が代わりに、怒るんだ」


「……すまん」


 顔を伏せ、八尋は早苗の頭をシーツに包まれた自分の身体に優しく押し付けた。


 なにも言わなくていい。そういう思いを込めて、八尋は早苗の頭を撫でる。


「ごめんな。……アンリ、頼む」


「おにぃ……ちゃ……」


 それから八尋はアンリの識能を発動させ、早苗を強制的に眠りの世界に誘った。


 毒の識能も、使い方次第ではこんなこともできるのだ。


「悪いな。騒がせた」


『構わん。それは、その娘の愛情深さの表れだ。他人のために怒る、その想いは誉れを受けこそすれど非難される謂れのあるものではない。……お前自身はなにか、弁明はあるか?』


「だから、初めから言ってるだろうが。俺は〝絶対悪〟だ。自分がしたことを後悔していないし、自分がしたことから目を逸らす気もない」


 そして八尋もまた、ミカエルの断罪に抵抗しようとはしなかった。


 厳密に言えば、抵抗しようとしてもできないのだ。


 八尋の魔力耐性は常人以下であるため魔力の供給を受けられず、ほとんど魔法が使えない。最も基本的な魔法である肉体強化ですら、契約として対価を支払わなければ使えない有様なため、単体でミカエルのような最上級の天使に抵抗できるだけの能力は八尋にはない。魔力耐性がない八尋には魔法や識能に対する防御能力がほとんどなく、契約をしていない一般人以上の苦痛とダメージ受けてしまうのだ。


 加えて今の状態では助けに呼ぼうにも、精力(マナ)の供給源である八尋が傷付き弱っているため、アンリやドゥルジを実体化させて戦闘行為を行わせることもできない。残ったなけなしの精力も、今しがた早苗を寝かせるために使ってしまっている。


 もっとも、例え抵抗できる状態だったとしても八尋はなにもしなかっただろう。


 何故なら、傷付くのは八尋の世界ではなく八尋自身だからだ。


 無論、八尋とて進んで苦痛を味わいたいわけではないし、避けられるものならば避けられるに越したことはない。だが、ここで八尋が下手に抵抗すれば、天使達の目が早苗に向いてしまうかもしれない。そうでないとしても、そのせいで八尋の世界に――八尋が護りたい誰かに被害が及んでしまうかもしれない。


 その可能性を考えると、八尋は動けない。動けるハズがない。


 八尋にとって自分自身など、自分の世界を護るための駒に過ぎない。


 例え天秤の片側に自身の命が乗っていたとしても、優先すべきは自分の世界の方なのだ。


『処断だ。悪は裁かれなければならない。罪は償われなければならない』


 ミカエルは長剣を抜き、その切っ先を八尋に突きつける。


「……好きにしろ。俺は、自分が〝絶対悪〟であることを偽ったりしない。俺がしたことは、俺自身が責任を取る」


 その切っ先を、八尋は手が切れることも構わずに掴み、自身を見下すミカエルを睨み返した。


「だが、俺は自分のしたことを後悔なんてしていないし、反省もしていない。そんな人間を、罰したいなら罰するがいい。だが、俺は正義になんて絶対に屈しない。それとも、俺が泣いて謝るまで罪を裁き続けるのか?」


『貴様……!』


 挑発的ともいえる物言いに、ミカエルは激昂した。


 天使というものは気高く、同時にプライドが高い。主を少しでも侮辱したものは絶対に許さず、同様に自分達を侮辱することも許さない。ノアの箱舟やバベルの塔のエピソードからも分かるように、天使達が崇める主にしてもかなり沸点が低いことが伺える。


 彼らは、人間達が――自分達が導き救ってやらねばならない存在が、自分達と同じ場所を目指し、同じ目線を持とうとすることすら許さないのだ。


 八尋やアンリに言わせれば天使が崇める神など、無駄にプライドが高くすぐに癇癪を起こす傲慢な小心者に他ならない。


「自分達の価値観こそが絶対だという傲慢、自分達を否定する者達に対する憤怒、そしてそれらの存在を許せない器の狭さ。唯一神が聞いて呆れるな! 大天使!」


『良かろう! ならば、貴様が反省を口にするまで――』


「そのような瑣事よりも優先すべきことができたはずですよ、ミカエル!」


 片や、人々を救うことを使命付けられた大天使。


 片や、常人であれば目を塞ぐようなことであっても淡々とこなす絶対悪。


 らしくもない怒鳴り合いは、少女の介入によって強制的に中断された。


「我々はこれから大儀を為さなければならないのですよ? 瑣末なことに力を使っている余裕はありません。なにより、ここは病院です。たった一人の矮小な悪を裁くために、大義を見失っても良いのですか!?」


『む、それは……』


 さしものミカエルもたじろぐほどの剣幕の矛先は、次は八尋の方へと向けられていた。


「あなたもあなたです! そのように感情的に相手を侮辱するなど、あなたらしくもない!」


「ぐ……」


「あれではただの子供の喧嘩です! お互いの主張をぶつけ合わせたいのであれば、然るべき時、然るべき場所で、お互いに堂々と行いなさい!」


 ミカエルと八尋を交互に叱る、アンジェリカの良く通る声が病室に響く。


 聖人と大天使。あるいは聖人と絶対悪。どちらが強いかは明白であるのに、それでも有無を言わせない不思議な力が彼女の声にはある。


 八尋どころかミカエルですらも、今の彼女の叱責に反論することができない。その内容が、否定しようもない正論であるならばなおさらだ。


 八尋もミカエルも、らしくもなく感情的になっていた。


 だが、一時的に前後不覚になったとしてもその本質は変わらない。


 冷静になって考えてみれば、アンジェリカが口にした言葉の中に、八尋がどうしても看破できない単語が含まれていることに八尋は気付いた。


「おい、アンジェリカ。これから為すべき大儀ってのは、一体なんのことなんだ?」


「それは、神楽威さんには関係が……いえ。それを聞きたければ、本当のことを教えてください。昔のこと、あなたの考えていること……隠していることはそれだけではありませんよね? 他にも隠していることがあるハズです」


 それは未熟ながらも、アンジェリカから持ちかけられた明確な交渉だった。


 しかも、八尋にはまだ隠し事があることを見抜いている。その答えを導いたのは彼女なりの推察なのか、それとも聖人としての直感なのか。なにより彼女が八尋を交渉のテーブルに立たせようとしていることに、八尋は驚かずにはいられなかった。


「知りたければラジエルの識能を使えばいいだろう?」


「いえ。私は秘密を暴きたいのではなく、あなたの口から直接、あなたの考えることを……あなたの本心を知りたいのです。私の目を見てください。私の言葉を聞いてください。そして私にどうか、話してください。神楽威さんの、本当のことを」


「っ……」


 迂闊だった、と八尋は思った。


 それは、真っ直ぐと見据えられた瞳を言われるがままに見つめ返してしまったから。


 言葉以上にものを語ると言われている部分を、自分が持つ人の悪意に敏感な目でしっかりと見据えてしまったから。


 人の悪意に敏感でなければ生きられなかった。相手が放つ言葉に隠された本当を読めなかったがために、そして相手に対して非情になりきれなかったがために自分の世界は段々と削られていった。そんな日々と〝絶対悪〟と長い間、強力で複雑な契約を結んでいるがために、いつしか自然と人の悪意に気付けるようになっていた。


 だから、気付けた。気付いてしまった。


 彼女のことを昔の呼び名で呼んだ人間だから、ではない。


 アンジェリカがあくまでも八尋を救うために八尋のことを理解しようとしているのだ、と。


 今しがた、八尋のことをらしくもないと言ったばかりであるのに――いや、それともそれは、いつもの彼女と変わらないのだろう。どれだけ時間が過ぎても、お互いの関係がどのように変化しようとも、彼女の本質は変わっていない。


 いつでも、自分よりも他人が先だった。自分を犠牲にしてでも他人を優先しようとする人間だった。それは偽善でも気が弱いわけでも、お人好しなわけでもただ親切なわけでもない。子供の頃には完全に理解できなかった本質が、今ならすべて理解できる。


 彼女は自己中心的ならぬ、他己中心的な存在なのだ。


 それは八尋とはまったく正反対の方向性を有する、人間として根本的な歪み。


 考えてみれば、天使の側から契約を持ちかけられるほどの善性を有する人間がまともであるハズがない。


 事実、あれだけ取り乱しておきながらアンジェリカは自分と八尋の関係についてはまったく問い質そうとしていない。普通の人間であれば真っ先に自分達の関係を問うであろう場面であるにも関わらず、、八尋がアンジェリカを庇ったことよりも、クラスメートの死を冒涜したことよりも、八尋の腕のことよりも、八尋が自分に助けを求めようとしないことよりも、八尋が自分のことを信頼してくれないことよりも。


 アンジェリカは自分のせいで八尋が傷付いてしまったことに心を痛め、それと同時に八尋のために八尋のことを理解しようとしている。


 自分の感情を抑えつけてでも、アンジェリカは八尋のことを救おうとしている。


 そしてだからこそ、八尋は彼女に本当のことを言うことができなかった。

 八尋のちっぽけな世界を構成する、たった二人だけとなった命よりも大切な人達。


 その二人を護るために、八尋はあらゆるものを犠牲にしてきた。自分の肉体も精神も、命も、時間も、魂も、運命でさえも。自分のちっぽけな世界の外側を完全に切り捨てて、八尋が差し出せるなにもかもを差し出して、自分の世界を護ってきた。


 そのことを話せば、アンジェリカは責任を感じるだろう。彼女のことだ。八尋がそうなってしまったのは自分のせいだと、自分を責め続けることになるだろう。


 だが八尋は、それを彼女のせいにはしたくなかった。


 何故なら八尋は〝絶対悪〟なのだから。


 八尋は自分の行いを彼女のせいにするために、そんなものを背負ったわけではない。


「どうしても……どうしても、話してもらえないのですか?」


「……なにを勘違いしているんだ? 俺は〝絶対悪〟だ。お前のような〝正義の味方〟となれあう気なんか始めからない。お前の助けも救いも、俺には必要がない」


「っ……それでも、私はあなたを……私のせいで、あなたは!」


「いつ俺がお前のせいだと言った? いつ俺が助けてほしいなんて言った? 勝手に人の心情を理解した気になるな。独りよがりな善意で勝手に俺の意見を決め付けるな。俺は自分の境遇を不幸だなんて思っちゃいないし悲しんでもいない。救ってほしいなんて、これっぽちも思っていない。大体、俺に守られないと一回死んでいたような奴が、一体どうやって俺のことを守るっていうんだ?」


 突き放すような物言いに、アンジェリカの肩が震えているのが分かった。


 その綺麗な翠の双眸に涙をため、堪えるアンジェリカの薄い唇が、なにかを言おうにも言葉にできずにいるのが分かった。耐えなければ嗚咽を零してしまうのだと、そこまでアンジェリカを追い詰め、悲しませていることが理解できた。


 それでも八尋は、言葉を止めることができなかった。


「断言してやるよ。お前如きの〝正義〟では、俺を〝絶対悪〟から救うことなんて、絶対にできやしない」


 だから。


「お前は俺のために泣く必要なんてない。悲しむ必要なんてもっとない。俺は〝絶対悪〟で、お前は〝正義の味方〟。俺達は土台、相容れない存在なんだからな」


 アンジェリカの善意を全否定した拒絶の言葉。


 それを八尋は、アンジェリカの顔から視線を逸らさないと告げることができなかった。


 気を抜けば声が震えてしまいそうなほどに〝絶対悪〟の心もまた揺れ動いていた。


 そしてその想いの応酬に、先に折れたのは〝正義の味方〟の方だった。


「っ…………もういいです! あなたが話すつもりがないのなら、私だって話しません!」


 ついに、アンジェリカは八尋に背を向けた。


 癇癪と言っても差し支えのない感情の爆発。


 八尋がその背を見ることしかできない中、そのままアンジェリカはミカエルの実体化を強制的に解除し、扉に向かって歩き出した。その表情を八尋は見ることはできないが、歩を進める彼女の動作は彼女の心が現れたかのように荒々しいものだった。


 だが、今の彼女の態度を誰が責めることができるというのだろうか。


 その心を踏みにじったのは、他でもない自分自身だというのに。


 やがて、取っ手に手をかけたアンジェリカの表情がチラリと八尋の視界に写る。


「あなたとは、立場を越えて親しくできると思っていたのに……っ!」


 そう言い残し、アンジェリカは部屋から出て行った。


「…………」


 最後に一瞬だけ八尋の目に映った彼女は、涙を流していた。


 自分のせいで八尋が傷付いてしまったことが申し訳なくて。


 自分を信じてもらえないことが悲しくて。


 自分では八尋の力になれないことが悔しくて。


 なにより、自分の力では八尋を救えないことが、心の底から辛くて苦しくて。


 自分の過去を教えてもらえなかったから、ではない。


 八尋が救われないことに、彼女は心を痛めていた。


 そんな彼女のことを、八尋は突き放すことしかできなかったのだ。


「だけど……今さら、どうしろってんだよ……」


 まともに動く右手で顔を押さえ、肺腑から絞り出された八尋の声もまた、彼女と同じように震えていた。


 不器用だとは思う。もっとうまいやり方があるのだと思う。


 だが、それが性分なのだ。


 たったひとつの冴えたやり方が分かるのならば、八尋はいつでもそれを実行するだろう。


 それができるのなら、八尋はこんなところで燻ぶってなどいない。


 その思想も、心も、信念も、在り方も、自分は人間としてとうに歪み切っているのだから。


『ですが私はそんなあなただからこそ、あなたとも契約を結んだのですよ』


 それは、八尋が八年に渡って聞き続けた〝絶対悪〟の声。


『悪とは決して綺麗なものではありません。その信念も在り方も、非常に実利的で血生臭いものです。しかしそこには確かに人間の本質があります。徹頭徹尾自分のためだけに悪を為す。誰かのため、などという曖昧で独善的な想いによって正義を為すことよりとてもとても愚かで、憐れで、醜くて、自分勝手で、排他的で、退廃的で……だからこそ、美しいのです』


 八尋の精力(オド)を使って勝手に姿を表すのはいつものことだ。


 だが、八尋の前に表れたアンリは(エーテル)体のまま宙空に浮かんでいる。


 契約者に負担の少ないこの形態を取るのは、アンリにしては非常に珍しいことだった。


「随分とお前らしくないことを言うんだな。慰めのつもりか?」


『その憎まれ口が叩けるなら、大丈夫でしょう』


 そう言って微笑んでから、アンリは実体化した。途端、身体から力が抜けるような感覚をいつもよりも強く覚えたが、問題があるほどではない。左腕の機能はともかくとして、体力的には回復し始めているようだった。


『あなたは私が認めた〝絶対悪〟です。それが、小娘と小物の言葉如きで揺らがないでください。どうせ、誰になんと言われようと、どう思われようと、あなたという存在が取る行動は変わらないのです。なら、迷わないでください。罪悪感も躊躇いも持たないでください。あなたは〝絶対〟〝悪”くなければならないのでしょう?』


「……ああ、そうだな」


 枕元に立ちそう告げるアンリに八尋は頷いた。


「いいのか? 絶対悪が優しさなんて見せて」


『優しさなどではありません。これは誑かしです。弱りかけたあなたを、言葉巧みに悪の道へと誘っているだけですよ』


 屁理屈を織り交ぜた、それでもらしくもないアンリの気遣い。


 それが〝絶対悪〟なりの優しさ、ということなのだろうか。


 だが、照れ臭そうに頬を赤くしてそっぽを向いた状態では、説得力もなにもあったものではなかった。


『左腕の調子はどうですか?』


「……一応、動く。だが、いまいち力が入らないな。それに動かすと死ぬほど痛い」


『死にはしませんよ。死ななければ儲けものですし、それなら問題ありませんね』


 彼女は〝絶対悪〟だ。


 その想いを、彼女は認めはしないだろう。


 それでも八尋は、言わずにはいられなかった。


「……ありがとう、アンリ」


『ふん。そう思うなら行動で示してください。頭だけなら猿でも下げられます』


 言い、アンリは完全に八尋に背を向ける。


 その顔こそ見えないが、彼女の両耳が真っ赤になっていることに八尋は苦笑した。 


 俺の契約対象は、その神格の在り方の割に随分と可愛らしい。


『それより、八尋。客人ですよ』


 自然と、視線が病室の扉へと集中した。


 だが、その客人は扉を開けずにすり抜けて、八尋達の前に姿を表した。


 果たして、そこにいたのは〝告知天使〟


 雌雄の区別のない天使において唯一女性の姿を取る一柱、ガブリエル。


 (エーテル)体のまま、佇むようにそこに存在していた。


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