10.純白の悪意
なんの前触れもなく炎の壁が、アンジェリカと翁面の男の間に割り込むようにして出現した。
その突然の妨害に咄嗟にその場から離れた翁面の男と、茫然半分動揺半分の表情を浮かべたままその場に立ち尽くすアンジェリカ。翁面の男には一片の隙もないのにアンジェリカは隙だらけで、八尋とアンリがいなければ即座に襲われていたことだろう。
明らかな練度の違いに八尋は苦笑を、アンリは嘲笑を浮かべていた。
『この程度の〝正義の味方〟相手に手こずるとは、今世紀の救世主は随分と未熟ですね?』
「言ってやるな、アンリ。相手は一応、日本の神だ。善戦した方だろうよ」
「あ、あなた達は……どうして……っ」
どうして。
詰まらせたその言葉の先に続くのは『戦う力がありながらどうしてクラスメートを助けなかったのか』という怒りなのか。『どうしてもっと早く助けてくれなかったのか』という身勝手な文句なのか。それとも『どうして危険に飛び込んできたのか』という叱責なのか。
だが、それがなんであろうと八尋には関係がない。
「黙ってろ。俺は〝絶対悪〟だ。自分がしたいように、悪を為すだけだ」
『とりあえず、唾棄すべき悪に助けられた〝聖人〟はしばらく黙ってじっとしていてください』
アンリの心ない言葉に唇を噛んで俯くアンジェリカを、悪態をつきながらも八尋はさりげなく庇う位置に移動する。周囲で戦っていた天使達や他の男達も一旦戦いを止めてこちらの様子を伺っているようようだったが、とりあえずは無視で問題ない。
元より、彼女のような善意による行動ではないのだ。
介入も援護も必要最低限で良い。
誰の心情を慮る必要もない。
自分の世界が無事ならば、それ以外はどうなろうと構わない。
「……その異教徒の仲間か?」
消え去った炎の壁の向こう側にいた翁面の男の声は予想外にしわがれたものだった。近くで改めて見てみれば白髪も多く、八尋の見立てではおよそ六十代前後の老人のように見える。
なにより、その男の身のこなしと判断力は明らかに、正規の訓練と経験と詰んだものだった。
「まさか。こいつが天使にでも見えるのか?」
警戒を解かずに答えながら、八尋は傍にいるアンリのことを指さした。
『私の天使のような魅力にメロメロってことですよ。言わせないでください、恥ずかしい』
「だったら自分で言うなよ」
『……八尋、困りました。自分で言っておいてアレですけど、良く考えたら私、天使のこと大嫌いなんですよ。第一、私の方が可愛いに決まってますし。天使のように可愛い私ではなく、私のように可愛い天使と形容するべきですよね』
「……いずれにせよ、その娘を庇うということは我々の敵に相違ないな」
こんな場面でもおちゃらけた態度を崩さないアンリに対し翁面の男は狼狽することも戸惑うこともなく、手にしていた十束剣を構え、即座に戦闘態勢に入り直した。
予想よりも切り替えの早い相手の態度に、八尋はわずかに眉をしかめる。
相手の言動や思想に左右されることなく、自分がするべき確固たる意志を持った玄人。関係のないことは眼中にはなく、理想を追い求めながらも現実に即した行動を取ることができる、アンジェリカよりも八尋に近い性質を持った〝正義の味方〟。
だが、八尋は確かに感じ取っていた。
翁面の男が放つ、白いと形容できそうなほどに澄んだ純白の悪意を。
善意に近いとすら感じる悪意を放つことができる、翁面の男の確かな実力と歪みを。
そしてその悪意の方向性は、自分とはまったく別のものだということを。
「なぜ、その異教徒を庇う? 悪神と契約しているのだから、キリスト教徒などという戯けた存在に肩入れする必要もなかろう?」
「なんだ、知ってるんじゃないか」
「同朋の腕をもがれたことや、そこの悪神に思うところがないわけではないが、お主は日本に害為す異教徒の人間ではないと、私はそう思う」
「ああ。やっぱり、動機はそこにあるのか」
「お主の目的は静かに暮らすことで、悪を為すことではないのだろう?」
『おや。そこまで調べがついているのですか。まぁ、裏ではすでに割と有名な話ですかね』
「日本に害を為す気がないのであれば、お主のような前途ある若者の未来を奪うことは躊躇われる。……ここはどうか、引いてはくれないか? 利己的なお主が異教徒に深入りして損害を被る謂れもなかろう。私とて、無関係の人間を巻き込むのは心が痛む」
『嘘ですね』
「嘘だな」
それまで別々に受け答えをしていた八尋とアンリの声が唐突に重なった。
その声にこれまでのような気の抜けた様子やおちゃらけた様子は感じられない。不純な感情の混ざらない、確固たる確信を以って重なったその言葉に、半ば一方的に交渉していた翁面の男の動きが止まった。
「あんたさ。さっき、学生を殺したよな?」
「あれは、やむを得ない犠牲だった」
「ふざけないでください!」
二人と一柱の会話を遮ったのは、今にも泣き出しそうな少女の悲鳴に近い声だった。
「私が目的なら、なにも彼らを殺さなくても良かったハズです! それなのに、どうして殺したのですか!」
怒りを露わにして、アンジェリカは叫んだ。
だが、聖人の怒りに対し、その場に残った誰一人として眉ひとつ動かすことはない。
八尋にとってもアンリにとっても、そして実際に手を下した能面の男達にとっても、アンジェリカが憤る最大の理由であるそれは瑣事に過ぎないのだ。
「強いて言うなら……異教徒のお主がいたことが、彼らが死んだ理由だ」
だが、そんなことを問うアンジェリカだからこそ、翁面の男はそう答えた。
その答えはある一面から見た真理であり、それを聞いたアンジェリカがうろたえることは明白なことだっだ。
当然、アンジェリカが翁面の男の真意に気付くハズもなく。
「な、なにを……!?」
大方の予想通り、アンジェリカは分かりやすいほどの狼狽を見せた。
それは人として正しい反応ではあるが、戦いの場には不要な感情だ。
「異教徒が日本に害を為すことはすでに証明されている。ならば私は自らを犠牲にして、日本に害を為す悪を討ち払おう。そのせいでやむを得ない被害が生じることも、謗りを受けることもあるだろう。だが、それで構わない。私は私の〝正義〟のために、悪を討つ」
そもそも、目の前でクラスメートを殺した相手の言葉を信じることが間違っているのだ。
だが、彼女のような善い人間は相手の主張をすべて聞き入れなければ気が済まないだろう。
相手の主張が一見して正しい正義や善意に基づいた言葉であるならばなおさらだ。
例えその言葉が彼女にとって毒であっても、彼女は無視することはできない。
何故なら彼女は、そういう人間なのだから。
「阿呆。一々相手の言うことに耳を貸すな」
「で、ですが、もし私のせいで彼らが殺されたのだとしたら……」
「だったら、どうする?」
「ど、どうするって……」
それがアンジェリカという人間なのだということは八尋も分かっている。
彼女には変わらずそう在ってほしいと、今でも八尋はそう思う。
だからこそ八尋は、わざとらしくため息をついてそう答えたのだ。
「ハッキリ言わせてもらおうか。ただのクラスメートを五人殺そうが十人殺そうが、俺はなにも思わんよ」
「な……!?」
「だけどな。それでも俺は、あいつらの前に立たないといけない理由がある。見てられないんだ。お前があんな奴らの言葉を真に受けるのがよ」
『罪悪感とは面白い感情です。確かに悪意を構成する感情の一部であるというのに、その根底にあるのは人の善意です。真っ当な道徳を持っているから、罪〝悪〟感を覚えるのです』
二人だけでやり取りを進めるアンジェリカと八尋のことを半ば無視して、アンリが一人で翁面の男に向かって語りだした。だが、人を貶めることが大好きなアンリが自ら語り始めたのだ。そこにあるのが碌な感情であるハズが無い。
語るアンリが翁面の男に向ける視線に混じるのは嘲りなのか、侮蔑なのか。
その言葉を受ける翁面の男の表情はやはり、能面に隠れて見えなかった。
『私は悪神ですから人の悪意には敏感でしてね。……先ほどあなたが三人ほど殺したとき、あなたからは純白の悪意を感じましたが、同時に罪悪感は感じませんでした。さて、ここで質問させていただきます。正義を語りながら善良な一般人を殺めることにわずかの躊躇いも覚えない、自らの行為に一切の罪悪感を覚えないあなたは、果たして本物の正義なのでしょうか』
「大体な。あんた、俺達の話聞いてないだろ?」
言葉尻だけは丁寧だったアンリの言葉を、今度は八尋が受け継いで話を続ける。
「能面被ってるからよく見えないけどな。あんた達みたいな人種の目って〝絶対悪〟であるこっちが驚くほど濁ってるんだよ。イっちゃってる、って言うのかね。人を害することを好み、悪を為すことを望む人間の目ともまた違う。自分が正しいという一点にのみ固執し、そこに一切の疑問を挟むことなく、大義や正義を建前にして他人にも犠牲を強要する〝正義の味方〟ってのは、端から人の話を聞く気が感じられないんだよ」
そこまで話してから、八尋は顔をアンジェリカの方へと向けた。
「だからな、アンジェリカ。お前がなにを言っても、なにを聞こうとしても無駄なんだ。相手には、こっちの話を聞くつもりがないんだからな」
それは、本来であれば不必要な忠告の言葉。
なにも聞かず、語らず、問答無用で相手を倒すことが一番良いハズなのに、それができない理由がある。
それは、八尋が願ったことよりも大事な、八尋が〝絶対悪〟で在り続ける理由の根幹。
「そ、そんな……」
『いい加減学びなさい、バカ野郎。右の頬を打たれて左の頬を差し出した相手に嬉々として右ストレートを打ち込む人間だっているのです。そんな相手に隣人愛を解いてどうするのですか。死ぬまで殴られるのがオチですよ』
「お前達の言う通り、俺は利己的な人間だ。クラスメートが何人死のうが俺には関係ないし、目的のためなら誰だって犠牲にしてやる。自分を犠牲にして他人を助けるなんて絶対にありえないことだ。正々堂々真正面からぶつかりあって、お互いに納得がいくまで考えるなんて、心から馬鹿馬鹿しい行為だと思う」
アンリの言葉はアンジェリカへと。
八尋の言葉は翁面の男へと。
一人と一柱はまるでひとつの存在であるかのように、入れ替わり立ち替わり相手を変えながら言葉を放つ。強力な契約の糸で結ばれた二人の契約はもう八年も続いているのだ。八尋の在り方はアンリに影響され、アンリの概念は八尋に影響され、互いに統一されたひとつの意志を持つことができる段階まで繋がっている。
「だからこの戦いは、お前達の負けだ」
「なにを、強がりを……!」
『天使娘。口元をハンカチかなにかで押さえておきなさい。あるのなら、浄化の能力を使うことを推奨します』
「は……はい?」
不敵に笑う八尋と、真剣な表情を浮かべるアンリ。
いつもとは逆の表情を浮かべている二人に戸惑いつつも、言われた通りアンジェリカが口元を押さえた、次の瞬間、ほとんど同時に能面の男達が膝から崩れ落ちた。
「ぐッ……!?」
能面に隠れた口の端から喘ぎ声が漏れる。
動けなくなったのは男達だけではない。天津甕星も、土蜘蛛も、夜刀神も、一様に地面に蹲るように倒れ、苦しみに顔を歪めている。まつろわぬ神だけでなく天使達までもが、自分の身体を支えるだけで精一杯といった様子だった。
「一体、なに、がっ……!?」
能面で隠されて見えないが、さぞかし苦しそうな表情をしているのだろう。それは、戦いの途中であっても立ち上がることすらできないことから見ても明らかだった。
『おお。無様、無様。良い眺めです』
その様子を見て、愉悦の笑みを浮かべるアンリ。明らかに相手の神経を逆撫でする言動だが、どうやらそれだけではまだ物足りなかったらしい。
そこまで話してからここでひとつ、仕切り直しという意味を込めてアンリは咳払いをする。
そして、翁面の男を見下しながらトントンと踊りだした。
『ねぇねぇ、今どんな気持ち? 〝正義の味方〟ぶっておきながら悪神に負けて、地面にみっともなく這いつくばって、今どんな気持ち? どんな気持ち?』
いつも通りに無表情のまま、徹頭徹尾相手を煽り続けるアンリ。
実に〝絶対悪〟らしい、人をおちょくったような行いに、八尋は眉ひとつ動かすこともない。
地面に伏した男達に対し、八尋は淡々とした口調で告げた。
「《腐敗した死体を温床とし、世界に不浄を撒き散らす》。……不浄ってのは、特に生き物にとっては意外と致命的なことでな。識能だから人間だけでなく天魔や悪魔にも通じるんだよ」
「なに、を、言っている……?」
『つまり、これはドゥルジの識能だということです。加えて〝死の穢れ〟を司るドゥルジは私の部下のようなものでして、識能の相性が良いんですよね。私の〝毒〟の識能と合わせて重ねがけ、させていただきました』
「死体……まさか!」
アンリと八尋の説明に、アンジェリカは即座にグランドに視線を向けた。
そこには先ほどと変わらず、三人のクラスメートの死体が転がっている。
その死体にはすでに蠅がたかっていた。身体は紫色に変色し、少し離れた場所にいても分かるほどの強い異臭を放っている。明らかに異常な現象に思わずアンジェリカが彼らの死体に近付くと、そのわずかな空気の揺れが不味かったのか、死体から腐臭を放つ液体と共に崩れかけた眼球がドロリと零れ落ちた。
「う……ぅ……っ」
あまりの惨状に、思わず顔を伏せるアンジェリカ。
アンリに言われてハンカチで口を押さえていなければ嘔吐していただろう。
あれからまだ十分と過ぎていないというのに、彼らの死体はすでに腐敗が始まっていたのだ。
「なんて、ことを……」
『使えるものは、使いませんとねぇ』
涙目で弱々しく睨みつけるアンジェリカに対し、アンリは涼しい顔を向けるのみ。
「貴様、それでも人間か……!」
「見れば分かるだろ。〝絶対悪〟だよ」
人を人とも思わない、あまりに非人道的な戦い方に、それまでまったく口を開かなかった童子面の男が八尋達を震える声で詰る。だがそれにも八尋は平然とした口調で答えた。
そしてそんな中でやはりというべきか、翁面の男達はアンジェリカとはまた別の部分に驚きを隠せないようだった。
「莫迦な……我々人間はともかく、日本の土地で天津甕星までにも通用する識能だと!? いくら二柱がかりとはいえ、何故異教の悪神がそこまでの力を発揮できる! 答えろ!」
苦しみながらも怒声を上げる翁面の男。
そんな男に、アンリは舌を出して答えた。
『誰が教えてやりますか。正義の味方崩れ(エクスヒーロー)の分際で驕りが過ぎますよ』
「ああ。それと、聞こえるか?」
放っておいても一分もしないうちに気付くことではあるが、敢えて八尋は男達に伝える。
今はまだ耳を澄ませなければならない大きさではあるのだが。
遠くから、サイレンの音が段々とこちらに近づいて来ていた。
「白昼堂々死人を出したんだ。そりゃ誰か警察を呼ぶだろうよ。おそらく、対契約者の特殊部隊同伴でな。俺のことですら調べてるお前達のことだ。アンジェリカならばすぐに倒せるし、日本の神を従えていない俺が介入してもなんとかなる思ったんだろうが……少しばかり、見通しが甘かったようだな」
『私達は警察が来る時間が稼げればいいわけですからねぇ。あなた達を無理に倒す必要もありませんし、そこまでする義理もありません。無様に公権力に捕まってください』
事実を淡々と告げる八尋と、喜悦の表情を浮かべるアンリ。
二人に見下されたことが、よほど翁面の男の癪に触ったようだった。
「――――天津甕星ィ!!」
その声はまるで、地面から噴き出した溶岩のようだった。
腹の底から捻りだした怒声に弾かれるようにして、膝をついていた天津甕星が置きあがった。
気力と怒りだけで、天津甕星に精力を送りこんだというのか。
それほどまでに強い決意を持った〝正義の意志〟を持っているというのか。
その視線の――殺意の先にいたのは、青い顔をして口元を押さえたアンジェリカ。天津甕星の額に魔力が収束され、識能が発動していようとしているのに、アンジェリカも天使も動こうとしない。
ドゥルジの識能は、その性質上相手を選ぶことはできないために、巻き添えとなった天使達も、アンジェリカも、他のまつろわぬ神のように不浄の識能に身体の自由を奪われていた。
そうこうしているうちに、天津甕星の額の小鏡に光が集束する。
その光が、八尋には世界を壊す浄化の光に見えた。
「アリカ!!」
気付けば、喉の奥からそう叫んでいた。
考える前に身体が動いていた。
事態を把握しながらも動けないアンジェリカを突き飛ばし、彼女の――八尋の世界の安全を確保する。そうなってしまえば後はどうでもいい。クラスメートも、敵対者も、それ以外の世界も、自分ですらも。自分の世界を護るためならば、取るに足らない瑣事へと変わる。
自分の命よりも優先するべき、八尋にとっての最優先事項。
つまりそれは、アンジェリカが八尋の世界だということに他ならない。
いつから? 決まっている。
アンジェリカのことをアリカと呼んでいた、八年前のあの日からだ。
『八尋!?』
アンリの声が周囲に響くが、八尋の耳には届かない。
アンジェリカを突き飛ばすためにそれ以外のすべてを度外視して動かした八尋の身体は未だ宙空にあり、天津甕星の攻撃が来ると分かっていながら避けることも防ぐことも適わない。
やがて来るべくして来たそれは、古代の雷神と軍神が二柱がかりでも退けることが適わなかったまつろわぬ神の識能。
天津甕星が放った一条の光が、八尋の左腕を貫いた。
金星の光を集束させて放つ、現代風に言えばレーザーに近い光の刃。
ウリエルの盾を安々と傷付け、まるで豆腐のようにクラスメートの身体を両断した光の刃に穿たれた穴は、八尋に容赦なく尋常ではない苦痛を与える。皮膚も筋肉も神経も骨もまとめて焼き切られた。当たり所が悪ければ腕がまるごと吹き飛びかねないほどの衝撃の中で、確かに腕はまだ八尋の身体と繋がっている。だが、あまりの痛みに肘から先の感覚が感じられない。
元より、八尋の魔力耐性は驚くほどに低いのだ。
自らに向けられた識能や魔法に対する防御性能は並の人間にすら劣る。
それもまた、八尋が自分の世界だけを護るために払った代償のひとつ。
「―――――――」
声にならない悲鳴が、八尋の口の端から漏れる。
視界が白く点滅する。吐き気がこみ上げる。痛み以外の感覚が分からない。
膨大な痛苦に、全身が拒絶反応を起こしていた。
『八尋! しっかりしてください!』
「神楽威さん! どうして……どうして、私を庇ったのですか!」
気付けば、八尋の身体は地面に横たわっていた。
自分の名前を呼ぶ声が聞こえるが、その意味を上手く捉えることができない。
薄れる意識の中で、これは天罰なのか、と八尋は思った。
次に、すべて自分のせいだ、と八尋は思った。
早苗の両脚が動かなくなったのも、アンジェリカのことを護り切れなかったことも、アンリに余計な負担をかけてしまうことも、全部、全部、全部。
目的のためならば、自分が〝絶対〟〝悪〟いと証明するためならば、両親が命を奉げてまでも願った自分達の平穏な毎日を護るためならば、そしてなにより自分の周りの世界だけを護りたいと言う自己が中心にいない自己中心的な願いを叶えるためならば、人を殺すことに心を痛めないし、手段ですらも選ばない。必要ならばなんだってしてみせる。
クラスメートも、近所の人達も、男も女も、大人も子供も、自分ですらもどうなったって構わない。八尋が護るべき世界のためならば、そのすべてが等しく無価値なものへと変わる。
自分の世界のために、八尋はそれ以外のすべてを捨てることができる。
たった一人を護るために、億人の命だって躊躇いなく犠牲にしてみせる。
それはよもすれば、異常者の思考。
まともな道徳を失った、人間として根源的な歪み。
翁面の男は八尋のことを利己的な男だと評したが、それはある意味で間違っている。
利己的な行動のその先にあるのは利己ではない。
目的の中に自身のことなど、端から入っていないのだ。
そう生きることに、後悔などしたことはない。
だが。
それでもやはり、自分の世界を構成する人達に泣きつかれることは、こんな自分でも人並み程度には辛いことなのだと。
薄れる意識の中で、八尋は確かにそう感じていたのだった。




