9.惨禍賛歌
人間というものは、本人達が思っている以上に存外としぶとい。
八年前のテロの後も、一年もすれば元通りとまではいかなくても、日常も経済も交通も、社会的なコミュニティも。大小様々な傷を抱えつつ、人々は穏やかな日々を取り戻していった。
約三十万もの住民が犠牲になっても、それなのだ。
たったひとつの家庭が襲われたくらいでは世界にはなんの影響も起こりえない。当人達にとってそれがどれだけ重要な出来事でも、当人達を取り囲む世界の日常は変わらない。日常と呼ばれる概念は大局的に見れば恐ろしいほどに強固で、強力な復元力を有している。
少なくとも、粉々になったリビングのガラスを直すために八尋が学校に遅刻した程度では、世界には微小単位の変化ですら起こりえないのだ。
幸いだったのは、近所にある工務店に壊された窓ガラスの在庫があったことだろう。
襲撃者を撃退した後ですぐに工務店に修復を依頼したため、朝一番に業者がやってきて作業に取り掛かり、午前中のうちに八尋の家は元通りとなった。
その時点で、時刻はすでに十一時を過ぎていた。
急げば四限目に間に合うが、生憎と今日の四限目は体育の授業なのだ。目立つことをよしとしない八尋にとって体育の授業に途中参加するという明らかに注目を集めることはしたくないが、かといって適当な時間まで家にいることもまた、なんとなく落ち着かなくて。
結局八尋は昼休みまで誰もいない学校の屋上で時間を潰すという、微妙な選択肢を選んだのだった。
『なんと言うか、中途半端な落とし所ですねぇ』
「うるさい。他にどうしろってんだよ」
『グラウンドで適当な運動をしているのですから、適当に愛想笑いでも振りまきながら合流すればいいではないですか。どうせ私達の識能でこの街の住民達は八尋がなにをしても大抵のことには違和感を抱かないようになっているのです。堂々としていれば良いのに、なにをそんなに躊躇うのですか』
「……そんな簡単に割り切れたら、苦労しねぇよ」
『コミュ症ですか、あなたは』
ため息混じりのアンリの言葉に八尋は逃げるように目を逸らし、意味もなくクラスメート達が男女混合で陸上競技をしているグラウンドへと視線を向けた。短距離走や障害物競走などクラスメート達が思い思いに走る中で、やはりと言うべきか、アンジェリカただ一人が群を抜いて目立っている。見た目も良く身体的なスペックも高いため、なにをしていても様になるのだ。
だが、少々異物が混ざっているものの、それもまた日常の光景に変わりはない。
そこに混ざって過ごすことは、八尋がなにを犠牲にしてでも望んでいることなのに。
平穏な日常を求めながら、完全にはそこに溶け込むことができない。日常を求めて様々なものを差し出し、擦り減らしていくうちに、対人関係における距離の取り方が――自分が平穏な毎日の一部となる方法が、いつしか良くわからなくなっていた。
目指す場所と現実との乖離。
自分は一体どうして、こんなにも歪んでしまったのだろうか。
「八年、か」
ふと、感慨に近い感情が口から零れ落ちる。
鳴田市内で、四月三十日に特別休暇を設けない学校や会社は存在しない。
事件から八年が過ぎ、街が完全に平穏を取り戻した今でも、かつての国際空港の跡地に造られた記念公園で行われる追悼式典には十万を超える参列者が訪れる。その様子はどの局でも生中継が行われ、日本だけでなく世界中で報じられる。
その意味は、八尋も良く知るところだった。
『そう言えばそろそろ、八尋と出会って八年になるのですね』
「……そうだな。もう、そんなになるのか」
八尋の精力を契約の糸を通じて勝手に使い、唐突に実体化したアンリに対して八尋は咎めるでもなく、どこか呆けたような返事を返した。元よりアンリの勝手な実体化は日常茶飯事だ。今さら目くじらを立てるようなことでもない。
『つれない返事ですね』
それにアンリと出会って八年という事実も、八尋にとってなんら感慨を催すものではない。
ただ、八年という時間は思っていたより早かったような、それでいて夢幻のような、妙に実感のないものだと感じられた。
『もしかして、八年前のことを思い出して泣きたくなりましたか?』
「分かってるくせに、それを聞くのか?」
『そうですね。あなたは今、特になにも感じていません。両親を失った悲しみに涙を流すことも、平和を奪ったテロリスト達に怒りを覚えることも、あなたはもう出来ないのですよね』
「……いっそ泣き喚けるなら、楽になれるのかな」
『なれると思いますか?』
「なれないだろうな」
いつしか、街の人々の認識を狂わせることが当たり前だと感じるようになった。
自分達を討伐しに来た正義の味方を殺めても、特になにも思わなくなった。
今も護衛や身の回りの世話をさせるためにドゥルジを中学校に通う早苗の傍に控えさせているが、町内にいる限りドゥルジの〝虚偽〟の識能が途切れることはない。例えアンリが商店街で唐突に姿を現しても、ドゥルジが早苗の通う中学校で早苗の車椅子を押していても、それを誰も疑問に思うことはない。
この街では、それが当たり前なのだ。
「泣いたくらいで普通の生活が送れるようになるのなら、俺はもうとっくに泣き喚いてるさ」
両親の命と自分の二十年分の時間を奉げてもなお届かない、平穏で当たり前の毎日。
それを手に入れるためには、一体どれほどの対価を払えばいいのだろうか。
命にして何人分か。時間にしてどれほどか。それとも、一体どんな存在と契約を結べば、そのような願いを叶えることができるのか。途方がなさ過ぎて、考えるだけで目眩を覚えそうなほどだった。
今の、悪に悪を重ねてようやく手に入れた薄氷の上に立つ平穏ですら維持するために相当の対価を払わなければならないというのに。少なくとも泣き喚く程度では那由他の涙を流しても到底届かないだろう。
どれだけ八尋が血を流しても、今の生活を維持するだけで精一杯だった。
『案外、魅力的な提案だったのではないですか?』
「なにがだ?」
『あの、天使娘の提案です』
「ああ……」
昨晩のことを突然話題に持ち出したアンリに、八尋は記憶を思い出すのに少し手こずってしまった。
『八尋は目的のためなら手段は選ばないですからねー。まぁ、その姿勢は〝絶対悪〟の眷属としては正しいと思いますよ? 現実的に考えても、天使娘の提案にしては分かりやすく最もらしい提案でした』
八尋が絶対悪を続ける必要はない。契約を解除し、カトリック教会の庇護下に入り、それでも八尋や早苗に危害を加えようとする相手にはカトリックが対処する。
それが、アンジェリカが八尋に伝えた提案だった。
無論、不確定要素がないわけではない。直接的に保護されるにしても、八尋を襲う相手は基本的に〝正義の味方〟だ。自らの妄執のような正義を貫こうとする彼らに対して、アンジェリカを筆頭としたカトリックでは後れを取るかもしれない。そもそもとして、八尋は〝正義の味方〟という存在に対して拭いきれない不信感を抱いてしまっている。
しかし、それらのリスクを天秤にかけても良いと思えるくらいには、アンジェリカの提案は魅力的なものだった。それこそ、八尋の心が一瞬揺らいでしまうほどに。
カトリック教会とはそれだけ大きな組織なのだ。アンジェリカ個人もこの手のことに関しては十分信頼が置けるだろう。必然的にカトリックの傘下に入る必要性は出てくるだろうが、その庇護を受けることで戦いのない平穏な日常に戻れる公算はかなり現実的なものだった。
『私としては、正義の世話になることは気に入りませんがね。まったく〝絶対悪〟の眷属が一瞬とはいえ、そんなことで揺らいでどうするのですか。そりゃ、囚われないことは重要ですが、よりにもよって天使娘の提案をすんなり受け入れるのは些か無防備すぎるのではないですか?』
腕を組んで、どこか不機嫌そうに捲し立てるアンリ。
そっぽを向いて八尋と視線を合わせようとしない、明らかに不機嫌な表情は。
「……やきもち、妬いてるのか?」
『そっ、そんなわけないじゃないですか! 仮にも〝絶対悪〟を司るこのアンリ・マユが、そんなことあるわけないでしょう? わ、私は、不甲斐ない眷属に説教をですねぇ!』
「アンリも、可愛いところがあるもんだな」
途端にプリプリと怒りだした子供のようなアンリの姿を見て、思う。
こういうところがあるからアンリは可愛い。
そう、言葉にするだけでなく頭の中でハッキリと思い浮かべてやった。
八尋とアンリは契約の糸によって繋がっているのだから、当然八尋の本心からの意識はアンリに筒抜けなわけで。
『なっ、こ、この……!』
咄嗟に反撃の言葉を出せず、顔を赤くして羞恥に震えるアンリ。
普段から悪意塗れだからこそ、逆の立場になると弱いということだろう。
一宗派の最高神にも匹敵する存在でありながら俗っぽい性格をしているのは、何事にも囚われることのない〝絶対悪〟だということを考えると逆にらしい、のだろうか。人間の概念によって形作られた存在である天魔や悪魔は、人々の意識に影響されやすい。人間が『かくあれかし』と、そう願うだけで本質が変化することもありえるのだ。
増してや、日本という特殊な条件は彼らに予想外の影響を与えることがあるし、それに加えてこのアンリは商店街の偶像でもあるのだ。八年間で、神格が奇妙な方向に変化することは十分にありえることだ。
恐るべきは、そんな言葉の印象だけで主神格級の存在の姿どころか識能や神格ですら捻じ曲げてしまう日本という土地柄か。
『や、八尋! 私は別に、照れてるわけではなくてですね!』
「安心しろ。確かに少し迷ったが、俺があの提案を受け入れることはありえない。だから、機嫌直せよ」
『な、なんのことですか? 私はいつも通りですよ! ふんっ!』
そうは言うものの、八尋の問いかけに対してふいとそっぽを向く仕草は、どう見ても機嫌が戻っているようには見えなかった。
八尋に口で負けてしまったことがそんなに悔しかったのだろうか。
日本という場所で顕現してしまったがために、〝アンリ〟〝マユ〟という名前の印象に引っ張られて小学生くらいの少女の姿となってしまったアンリ・マユだが、その実体のイメージに引っ張られるのか、時折妙に子供っぽいことがある。
だが今の姿がどうあれ、こうへそを曲げてしまうと宥めるのはかなり面倒だと八尋は思う。
一度臍を曲げた神を宥めるのは容易なことではない、ということだ。
それでもこのアンリの場合、大抵は美味いものを与えれば機嫌が戻るのだからまだ楽な方なのだろう。神にも匹敵する存在を慰めなければならない事態というのは、相手によっては下手をすれば一方的に契約を打ち切られることもありえるようなことなのだ。
神々の怒りなど、天災に等しいものなのだから。
『今夜は半熟卵のオムライスとハッシュドビーフで手を打ちましょう』
「人の考えを先読みするな。……分かった、用意する」
『契約成立ですね。……ところで、八尋。気付いていますか?』
「気付かないわけがないだろう?」
それまでの雑談と変わらない様子で、二人はやりとりを続ける。
だがその瞳の輝きは、先ほどまでとは明らかに異なったものへと変化していた。
「昨日の連中だろうな」
『間違いないでしょうね。放つ悪意が良く似通っています。人数は三人。関係者という意味で言えば他にもいるでしょうが、この場にいる契約者の数はそれだけでしょう』
「こんなところまで追いかけてくるとは、素晴らしく熱心な〝正義〟だな。反吐が出る」
『ええ、まったくです』
会話を続けながら、自然と八尋の身体は動いていた。
屋上の柵から身体を乗り出すようにして意識と感覚を周囲に向け、相手の位置を索敵する。
「白昼堂々、学校の敷地内で襲ってくるつもりなのか?」
『その気はあるようですね。しかし……妙ですね。連中、近いうちにことを為すつもりのようですが、悪意がこちらに向いていません』
「どういうことだ?」
問いかけるが、アンリは明確な返答をせずに首を振るだけだった。
どうやらアンリにも分からないらしい。〝絶対悪〟を司るだけのことはあってアンリは八尋以上に人間の悪意というものに敏感だが、相手の心を読むことができるわけではない。気配から相手の悪意を察知することはできても、その思考を看破することはできないのだ。
「……とりあえず、学校から出るか。こんな人が大勢いる場所でやらかしたら、お前達の識能でも対処しきれなくなるかもしれない」
『その必要はないようですよ、八尋。ほら、グラウンドを見てください。どうやら連中の目的は我々ではないようです』
アンリの言葉に誘導され、八尋は再びクラスメート達がいるグラウンドへと向けられる。
そこにはいつの間にか、グラウンドの隅にある木陰の下で他のクラスメート達と同様に休憩しているアンジェリカを囲むようにして、唐衣に身を包み能面を被った三人の男が立っていた。見るからに異様な姿をした彼らがそこに至るまでに誰も止めようとしなかったのは、彼らの行動があまりに堂々としていて事態が認識できなかったからなのだろうか。
屋上という離れた場所から見ても分かるほどに戸惑うアンジェリカに対して、周囲のクラスメート達の存在などお構いなしに翁面を被った男がなにかを話しているようだった。だが、八尋からは距離が離れすぎていてなにを言っているのかはまったく聞こえない。
「アンリ。連中の言うこと、聞こえるか?」
『無理ですね。私が司る識能は破壊や死といった負の概念ですから。善神のような創造的なことは向きませんよ』
「ああ、そうだったな」
アンリと会話を続けながら、ドゥルジと繋がる契約の糸を頼りに早苗の様子を確認する。アンリほどではないがドゥルジも悪意に対する感度は高い。しかし少なくともドゥルジの感覚では、早苗を狙う悪意のようなものは捉えることはできなかった。
どうやら、早苗の方では特に何も起こっていないらしい。
ひとまず早苗の安否が確認されたことに安堵のため息をついた八尋の視界の中で、一瞬金色の光が閃いた。そのあまりの強さと、なによりその光に混じる悪意の大きさに八尋は反射的に両腕で顔を覆い、防御の体勢を取っていた。
耳に届いたのはクラスメート達の悲鳴の声と、校舎の窓ガラスが何枚か割れる音。
やがて両腕を下ろしてすぐさま視線を戻した八尋の視界の先に映ったのは、アンジェリカを庇うように盾を構えたウリエルの姿と、ウリエルの構える盾に走る、遠目から見ても分かるほどに大きな横一文字の傷跡。上位の大天使が防御に回ってすらそれほどの威力があったのだ。それにただの人間が耐えられるハズがない。
八尋が見守る中、アンジェリカのすぐそばにいた男子生徒の上半身が内容物を撒き散らしながら数メートル後方へと吹き飛び、それからさらに数秒遅れて残った下半身が倒れ、腹部から腸が零れ落ちた。見る見るうちに血が地面へと広がり、男子生徒だったものは二、三度大きく痙攣した後はピクリとも動かなくなった。
その様子を他のクラスメート達も、体育担当である担任の教師もただ見つめることしかできず、その悪夢のような光景に誰一人として声を上げることも、動くこともできず。
奇妙な静寂を破ったのは、比較的離れた位置にいた女生徒があげた悲鳴だった。
途端、爆発的に恐慌が広がり、蜘蛛の子を散らすようにクラスメート達は駆け出した。それは命を守るための本能のままの行動。そこに理性や知識が介入する余裕などない。男子生徒も女子生徒も担任の女体育教師も、狂ったように声をあげながらその場から逃げだそうと足を必死に動かす。
背を向けて逃げ出した生徒達に対して、能面を被った男達は容赦せず追撃を加えていった。翁面の男のすぐそばにいた女生徒が両断され、男子生徒の頭が弾け飛んだ。それを為したのは実体化した三体の神。その中には昨夜八尋の家を襲った夜刀神の姿もあった。
それは小規模ながらも、八年前の事件を彷彿とさせる光景。少し離れた場所でその様子を見る八尋にはまるで、昔見た悪夢の続きを強制的に見せられているように感じられた。
だが、それが八年前と決定的に違うのは、その場に覚醒した聖人がいることだった。
翁面の男が従える神――日本書紀に出てくる神々のような衣装に身を包んだ、頭に小さな金色の鏡のような装飾をした男性神――の前にはミカエルが。
般若面の男が従える神――全長二メートル近い、鬼の顔に虎の胴体を有した八本足の巨大な蜘蛛――の前にはガブリエルが。
童子面の男が従える神――頭から太刀を生やした大蛇――夜刀神の前にはウリエルが。
そして翁面の男の前にはアンジェリカが、クラスメート達を護るようにして立ちはだかっていた。
『おお。天使娘がようやく動きましたね。まぁ、三人死んだとはいえ、緊急事態に逃げることなく動けただけマシでしょうか』
「……楽しそうだな、アンリ」
『私は死と破壊を司る〝絶対悪〟ですよ? かような光景に心踊らないわけがないでしょう?』
ここからでは様子が見え辛いからなのか、屋上の柵から身を乗り出すような体勢で八尋に向けられた表情は見た目相応の子供のように無邪気な笑顔だった。ワクワクと声は弾み、身長が足りないために柵に体重を預け浮かび上がった足はパタパタと揺れ動いている。
アンリは基本的に破壊的なことや退廃的なことを好む。創造や生、善の概念と対になる破壊や死、悪の概念によって神格を構成する〝絶対悪〟にとってそれはある意味当然の反応ではあるが、彼女の言動はまともな感性を有する大多数の人間が嫌悪感を抱くものだろう。
だが、彼女と契約している八尋は、その姿を見て特になにも思うところはない。
「なぁ、アンリ。あいつら……」
『ええ。初めからそうするつもりだったのでしょうね。あれだけ悪意が溢れていましたし。むしろ、犠牲者が三人で済んで良かったですね』
「ん……まぁ、二人以上になればあとは一緒だろ」
それどころか、クラスメート達が目の前で無残な死に方を晒しても、八尋の心はほとんど揺れていなかった。
『ふふふ。相変わらずの冷めた反応です。そこは二柱もの神と契約した主人公としてクラスメート達を助けに颯爽と駆け出すところではないのですか? なんの罪もない学友を殺した相手に必要以上に憤って、押しつけがましい説教をかましながら必殺技のひとつでも出してくださいよ』
どこか煽るように、それでいてどこか満足そうに、アンリは八尋に言葉だけの文句を告げる。
その表情は愉悦に歪み、それでいて邪気がほとんど感じられない。そこにあるのは悪意ですらない。そういう思いを抱くことは彼女にとって至極当たり前のことなのだ。
〝絶対悪〟アンリ・マユにとって、目の前の悲劇や惨劇は愉快な喜劇でしかない。
彼女と契約する八尋は、その光景を見て良い気分はしないが、特別心が痛んだりはしない。
アンリのように楽しい気分にはならないが、かといって悲しみや憤りを覚えることもない。
「馬鹿馬鹿しい。俺がわざわざ、たかがクラスメートのために戦う理由がないだろうが」
無論、アンジェリカのように彼らを助けようとわずかにでも思うことはない。
「第一、誰が主人公だよ。俺は主人公なんていう普通ではない存在になることを望んだ覚えはないぞ」
八尋にとってそれは、自分が動く動機足りえない、いわばどうでもいい事象だった。
一体何のために、誰に対しても自分がアンリと契約していることを識能を使って秘匿しているのか。膨大な対価を払ってまで街の人々の認識を狂わせているのか。それは自分達の身を護るためであり、なにより契約の事実を誰かに知らせる行為も魔法を人前で使うことも、普通に生きる上では必要のないものだからだ。
自分の世界が無事ならば他がどうなろうと構わない。
自分の世界以外、心の底からどうでもいい。
そう考える八尋にとって自分の正体を晒してでも前に出るという行為は、クラスメート達の安全の確保以上に回避すべきことだ。それは間違いなく日常から逸脱する行為であり、そうすれば自分はもう二度と日常へと帰ってくることができなくなるだろう。
そうなるくらいなら、八尋はなんの躊躇いも罪悪感もなくクラスメートを切り捨てることを選ぶ。
八尋にとってクラスメート達は、八尋の世界を構成する重要な要素足りえないのだ。
『しかし四対四では、さすがの天使娘も分が悪いようですね』
「みたい、だな」
八尋とアンリの視線の先で戦うアンジェリカは、明らかに不利な状況に立たされていた。
契約している天使の位階もアンジェリカ自身もスペックは高いのだが、いかんせん実戦経験が不足している。加えて、相手は日本の国土の上で絶対的な能力を発揮する日本の神々が三柱も揃っているのだ。
今はまだ持ちこたえているが、このままではアンジェリカはグラウンドに転がったクラスメート達と同じ運命を辿ることになるだろう。
「天津甕星に、土蜘蛛に、夜刀神。……まつろわぬ神々、か」
『私は日本の神々には詳しくありませんが、八尋がそう見るのならばそうなのでしょう。正道ではなく邪教の類でしょうか。あるいは行き過ぎた正義故の政府組織崩れ? 動機は……日本での布教活動に本腰を入れたカトリック教会への牽制?』
「そんなところだろうな。まつろわぬ神ってことは明らかに公的機関の契約者じゃないし、ああいうのと契約を結んでいるってことは良くも悪くも、日本という風土を信仰している連中だ。連中は連中なりに日本を護ろうとしている〝正義の味方〟ってところだろうな。……もしかして昨日の襲撃も、俺じゃなくアンジェリカを狙ったものだったか?」
『その可能性は大いにありそうですねぇ。予想外に早く存在がばれたから襲撃しただけで、本来は八尋の家から出た時点で襲う予定だったのでは?』
「ありそうだな、それ」
異様なほどに平坦な口調で相手を分析する〝絶対悪〟達。
まるで観察でもしているかのような表情はしかし、アンリの言葉を境目にして切り替わった。
『……八尋。無知の識能の展開、完了しましたよ』
「ちょうど、ドゥルジの虚偽の識能の展開も終わったみたいだ。……準備はいいか?」
元より慈善事業でも自己満足でもない。
実利が伴わない限り、八尋が能動的に誰かに介入するなどありえない。
クラスメート程度の間柄の相手は助けるに値しない。
そんな八尋が誰かのために、その願いを投げ打ってでも戦うことがあるとすれば。
「俺達の世界を、助けに行こうか」
『ええ。すべては〝絶対悪〟だけが持つ、自分勝手な悪意のままに」




