第一話 これだから素人は
1月4日、午前五時十七分。
精巧匠はすでに工場にいた。年が明けたからといって鉄は変わらない。機械は待ってくれない。三が日など匠にとって単なる暦の話であり、世間が雑煮を食っている間も頭の中は金型の公差とゼロアタッチの接合精度でいっぱいだった。
工場は古い。壁の塗装は所々剥げ、蛍光灯が一本だけ微かに瞬いている。床には切粉が散り、機械油の匂いが空気に染み込んでいた。それでも匠にとってここは唯一まともな場所だった。機械は嘘をつかない。数字は裏切らない。出した精度は出した精度だ。人間と違って。
旋盤に向かいながら匠は小さく舌打ちした。昨日仕上げたサンプルの寸法が頭の中で引っかかっていた。0.003ミリ。誤差とも言えない誤差だが、匠には許せなかった。
午前八時過ぎ。引き戸がガラガラと開いて呑気勝が入ってきた。
「寒いねえ」
社長である。五十二歳、中肉中背、いつも少し眠そうな目をしている。特別なオーラも威厳もない。強いて言えば近所の釣り好きのおじさんに見える。なぜこの人間が社長なのか、匠は今でも時々わからなくなる。
呑気はストーブに手をかざしながらぼんやりと工場を見渡した。
「匠くん、今日から?」
「三日から来てます」
「あ、そう」
それだけ言って呑気はお茶を淹れ始めた。追及もしない、驚きもしない。この人はいつもそうだ。匠は舌打ちをこらえて旋盤に向き直った。
しばらく沈黙が続いた。機械音だけが響く。
呑気がお茶をすすりながら言った。
「営業の子、採ることにしたよ」
匠の手が一瞬止まった。すぐに動かす。
「いりません」
「そう?」
「そうです。余計な人件費です」
呑気は特に反論しなかった。ただお茶をもう一口飲んで、窓の外をぼんやり見た。駐車場に車は一台も止まっていない。社員はまだ誰も来ていない。
「仕事、ないからねえ」
匠は答えなかった。
それが一番触れたくない話だった。ゼロアタッチ工法は本物だ。匠が十年かけて磨いてきた技術だ。どこにも負けない。それは確信している。なのに電話は鳴らない。見積もりを出しても返事が来ない。なぜかは匠にはわからなかった。わかりたくもなかった。
技術さえあれば、必ず誰かが気づく。
匠はそう信じていた。ずっと、そう信じてきた。




