希望の地
「疲労ですね。最近良く眠られていらっしゃらなかったのでは?」
医師に問われて、答えに窮するアリシアに代わり、アロイスが頷く。
「遅くまで仕事をなさっている事が多かったようで」
最近のリカルドの様子など、アリシアは知らなかった。気にする余裕が無かったと言い訳は出来るが、しかし彼を支えて行くことが自分の使命と確認したばかりのアリシアは、やはり自分がもっと気にかけるべきだったのではないかと落ち込んだ。
横たわるリカルドの血の気の引いた顔を、そっと覗きこむ。きちんと彼と対するのは、随分と久しい気がした。
「良く、なります、よね?」
そろそろと聞くアリシアに、医師は気の毒に思ったのだろう。安心させるように穏やかな顔で、大きく頷いた。
「2、3日すれば、体調も回復してくるでしょう。しかし、1週間は大事をとって安静になさっていてください」
医師の言葉にほっとしながら、アリシアはそっとリカルドの目に掛かった前髪を払った。額に浮かんだ汗を、濡らしたタオルでそっと拭う。苦しそうな表情をする彼を少しでも楽にしてあげたくて、しかし手を握る事も自分には許されていない気がした。
「アロイスさん、ちょっと」
医師が帰り、リカルドの私室で自分と同じようにリカルドを見守る執事を、アリシアは一緒に外に出るよう促す。リカルド付きの彼とは、実はあまり話した事の無いアリシアだったが、この先リカルドの背負うビジネス面を支えるのならば付き合って行く必要のある人物だ。
「如何いたしました?」
「リカルド様の、なさっていた仕事を教えてくださいませんか」
単刀直入に聞くと、アロイスは暫し逡巡するように黙り込んだ。
「……聞いて、どうなさるおつもりですか」
「出来るかどうか分かりませんが、お手伝いしたい心づもりではいます」
アリシアの真剣な瞳を受けて、アロイスは半ば想像していたのだろう。ふぅ、と小さく溜め息を漏らした。
「失礼ながら、それは女性のなさることではありません、アリシア様」
「知っています」
アリシアの決意を滲ませた声色に、アロイスは再び黙り込んだ。リカルドの仕事に吉と出るか凶とでるか、量っているのかもしれない。
「……此方へ」
結局は、アロイスが折れた。諦めたのか、試されているのか。どちらでも良いと、アリシアはついて歩く。
到着したのは、リカルドが書斎として使用している部屋だった。主の許可なく立ち入って良いものかとアリシアの迷う間にも、アロイスは躊躇なくその扉を開ける。そして机の上に散乱している書類をいくつかまとめて、アリシアの方へ振り向いた。
2cm程もある分厚い書類を手渡され、アリシアは困惑気にそれらに目を通す。それは、ブラン領の情報だった。人口や、おおよその水量。出入りする人々がどこから来たのかや、天候とそれに対する収穫高など、事細かに記してあった。それだけ、領内の管理が徹底しているという事でもある。アリシアは素直に感心した。
「農業で生計を立てている人が、やはり多いんですね」
それはこの屋敷から見える広大な田園からそう予測はしていたが、それにしても6割もの人間が、それを生活の要としているようだった。
「この領で取れる物は、どれも質が良いですからね。――しかし、問題もあります」
ペラリ、と書類をめくり、そこに書かれた文字に、アリシアも頷く。
「人々の生活が、天候に左右されすぎる、ということですね。5年前と7年前にも、長く日照りが続いて不作だった年があると書いてあります」
そして、昔から貯蔵庫に貯めていた分の作物も、この先不作が続けば十分量の確保が出来ない事が他のページから見てとれる。
「リカルド様は、この不安定な財政をなんとかしたいとお考えでした」
そして、毎晩遅くまで調べていたのだろうか。綿密な地質調査、そして放牧も試験的に行っているらしかった。
「今のところは、家畜の飼育、というのが有力でしょうか」
「ええ。しかし、そこにも飼料の生産が不可欠。やはり天候に左右される事に変わりありません」
アロイスの言葉に、アリシアは考え込む。天候に左右されないとなれば、装飾品等の加工品が考えられるが、既にその技術を磨いている他の領と勝負になるかどうかの見通しが立たない。けれど、やってみる価値はあるだろうか。
「……少し、考えさせて下さい」
リカルドも悩んでいることだ。やはり、簡単に解決、という訳にはいかなかった。それを分かっているのだろう。アロイスは頷いた。
「幸い、今年は恵まれているようですからね。悠長にはしていられませんが、2、3日で結論を急ぐ事でもありますまい」
アロイスの言葉に、アリシアは少しほっとしつつ、試されている印象も受けた。長年ブラン家を支えて来ただけあって、認められるにはそれに見合った成果が必要だとアリシアは感じる。それでも失望されたわけではないと、アリシアは自身を奮い立たせた。
翌日、ブラン邸は騒がしい朝を迎えた。リカルドの体調が悪くなったわけではない。なんとアリシアが、『3日程留守にします』という置手紙と共に姿を消したのだ。
すぐに捜索隊が組まれたが、しかし早朝の出来事で、有力な目撃情報が得られる事は無かった。当主が大変な時に遊びに出かけるなんてと、一部のアリシアを好かない使用人達は囁きあったが、それらは直ぐにメイド頭によって窘められた。それでも屋敷内に不満を持つ者が多く居る事は、雰囲気で察せられる。
違う意味で一番取り乱したオレイアは、しょんぼりと肩を落として冷たい視線の中を歩く事になった。
アリシアは、馬車の中で揺られていた。嫁ぐ際に持ってきた僅かな宝石や装飾品を売って作った路銀を数え、なんとか目的地から往復できるだけはあると確認する。
昼になってようやく、見慣れた景色が広がってきた。ブラン領のように肥沃な土地柄ではないからと、家畜の飼育が盛んなベルジェ家の元領地だ。ルーベンが捕まり領地も没収されてしまったが、褪せて活気の無い姿はそこが国の管理下に置かれても尚、変わらなかった。屋敷に籠りっぱなしだった頃は知らなかったが、人も外へ流れてしまっているのか随分と空き家が目立つ。これが自分達の杜撰さが招いた結果だと思えば、アリシアは苦しい思いがした。
中心街へと伸びる大きな道を進むと、外見だけは昔と変わらず立派な、石造りの屋敷が見える。それが、アリシアの生家だ。今は誰も入れないよう正面の扉には厳重にいくつもの鍵が掛けられており、人気もなかった。暫く試してみたが、どうにも開かないようなので、アリシアは諦めて裏手へと回った。
そこにある使用人用の扉は、アリシアが良く水汲みに使用していたものだ。塀に囲まれている上に目立たない場所だからか、扉の前には数本ロープが張ってあり、その他には元々あった鍵が一つ掛かっているだけの状態だった。板でも打ちつけられていたら手も足も出なかっただろうが、石造りの壁に金属の扉という造りをしているこの家にはそういった封鎖の仕方は出来なかったのだろう。
アリシアは持ってきたバッグの中から、古びた鍵を取りだした。リカルドからのプロポーズがあまりに性急だったために、ついいつもの癖で持ってきてしまった鍵だ。懐かしく思いながら差し込むと、キィッと大きく軋んで扉が内側へと開いた。アリシアはほっとしつつ、誰にも見られていない事を確認してサッと身を滑らす。
屋敷の中は、アリシアの記憶のままだった。アリシアが読みかけだった本が無造作に置かれ、少し埃を被っている。キッチンに置かれた小椅子は、家事の合間に休憩をする際、良く使用していた物だ。あまり価値のある物を置いていないせいか埃避けの布をかぶせられる事もなく、まるでさっきまで自分達父娘が住んでいたかのように思えた。
しかし感慨に耽っている場合ではないと、アリシアは歩を進める。向かった先は書庫で、扉を開けた瞬間、カビや埃の独特な臭いが鼻をついた。アリシアはその中を、更に奥へと進む。一番隅に置かれた棚を見上げれば、そこには辛うじて、歴史、という文字が見てとれた。このジャンルにはあまり興味を持たなかったアリシアが、手をつけていない一角だ。所々飛んではいるが、この領地について綴った貴重な資料の山だった。
ブラン領の事は、リカルドが考えに考えたに違いない。だから、アリシアが貸す事の出来る知識は、あまりないように思えた。けれど、他領の事ならどうだろう。リカルドは、出自の事もあり、ブラン領の繁栄を見つめている。けれどそれ故に、ブラン家に関わらない物に対しては盲目なのではないかと思うのだ。
装飾品の生産を考えた時、アリシアの脳裏に浮かんだのは、ベルジェ家の家紋だった。頭文字のVと、ひと振りの剣をモチーフにした、昔アリシア自身の背中に刻まれた文様だ。
ベルジェ家は昔、刀鍛冶として戦に貢献した事を起源としていると聞いた事があった。それを支えていたのが、良質な鉄の採れる鉱山だ。けれど今その名残は無く、多くの人は痩せた土地で家畜を育て生活をしている。長い歴史の中で、どうしてそう変化して行ったのか。アリシアはふと疑問に思い、ここまで足を運んだのだった。
資料を読み込むのに、丸2日掛かった。量が多い上に、手入れの行き届いていない資料は色褪せ、解読が難儀な部分も多々あったからだ。けれど何とか読み終えたアリシアは、読みながら内容をまとめたメモを、もう一度確認する。
昔、大きな戦があった。国中から戦士が選ばれ、そして武器の需要が高まった。鉄の産地であったベルジェ領には多くの注文が寄せられ、名高い刀鍛冶達が連日腕を揮っていたらしい。
戦に勝利したこの国は、貢献した者達に爵位を与えた。そこで始まったのが、ベルジェ家という一つの貴族だ。
潤った財政を元に暫くは活気のあった領内だが、そこで一つの問題が生じた。戦が終わった為に、仕事の量が激減したのだ。戦前には質素な生活をしていた領民は、手元に残った見た事も無いような財産を湯水のごとく使ってしまっていた。普通に暮らすには十分な量の仕事の依頼はあったが、一度覚えた贅沢を忘れられない者達は、戦の噂を求めて領地を去った。そうして有能な刀鍛冶ほど、外へと流れて行くようになった。当然ベルジェ領が生産する武器の質は下がった。初めは多くあった仕事の依頼も、だんだんと日を追うごとに減って行った。そうしてまた刀鍛冶が減る、という悪循環が続いた。
刀鍛冶の街として栄えていた為に、その他の物を作り出す技術は高くなかった。そんなある日、一人の商人がやってきた。彼は牛を1頭、羊を2頭連れていた。彼は当時の領主、つまりアリシアの先祖に対してこう言った。
『牛はミルクを生み、羊は毛を作ります。一頭一頭が、何年も安定した利益を生みますよ』
鉄という、有限のものばかりを売っていたベルジェ家の面々にとって、それはとても魅力的な言葉だった。そうして、それは、一部の領民達の心にも響いたのだった。ベルジェ領で家畜の飼育が始まった。隣の家の芝は青く見える物で、それはどんどん領内に広まって行った。初めは順調と思えたそれは、新たにベルジェ領を活性化させる起爆剤となるかに思えた。
しかし、そう甘くは無いのだと、後に彼らは思い知らされることになる。ベルジェ領の土地は、あまりに痩せていて、飼料を取り寄せる必要が出て来た。そうしてそのコストを考慮すれば、利益はとても些細な物となった。人々は絶望に打ちのめされたが、しかしそれ以上どうすることも出来なかった。その頃には既に使われなくなった鉱脈の多くが閉鎖されていたし、人々から忘れられようとしていたからだ。ただただ、その日暮らしが続く、長い日々の始まりだった。
500年にも亘る歴史を簡単にまとめれば、そういう事らしかった。
「となると、鉱山は枯れた訳ではないのね」
独り言を漏らしながら、アリシアは一人考えに耽る。むしろ良質な鉄鉱石がまだ多く眠っている可能性があるのだ。
しかし鉱山の存在も忘れられてしまった現代において、人の手が加えられていない山に入りこむのは至難の業ではないかと思われた。“かもしれない”という事だけで動けば、余計な浪費で終わる恐れだってある。
「――けれど、リスクの覚悟無しに利益だけを求めるなんてこと、できないわよね」
そうして、問題はもう一つある。此処はもう、アリシアの土地ではないのだ。
――なんとかして、鉱山付近の土地だけでも取り戻す事が出来れば。しかし、莫大な資金を用意するのは難しい。かといって、交渉材料になるような手柄を立てる事など、自分にできるのだろうか。
ブラン領の希望を見つけたかもしれないと思いつつも、どうにもできない自身に、アリシアは途方に暮れた。
説明ばかり長くなりました;;




