第1話 淑女のたしなみとして
山が、消えた。
正確には、斬れた。
音は遅れてやってきた。空気が裂けるような、いや、世界そのものがずれたような不快な振動が、大地を揺らした。
その中心に、一人の少女が立っていた。
光を受けた銀の髪が、風に揺れるたびに淡く輝く。
整いすぎた顔立ちは、まるで人形のようでありながら、確かな生命の熱を宿していた。
思わず息を呑むほどの美しさだった。
――だからこそ、誰も気づけなかった。
それが、“人の形をした何か”であることに。
「……少し、力を入れすぎてしまいましたね」
そう言って、セレスティア・アルヴェインは剣を軽く振り、刃についた見えない何かを払った。
その所作は、あまりにも優雅で、あまりにも洗練されていて――まるで舞踏会の一幕のようだった。
だが、その結果は舞踏会とは程遠い。
彼女の目の前にあったはずの山脈は、綺麗に断ち切られ、向こう側の空が覗いている。
「お嬢様」
静かに声をかけたのは、黒衣の従女――リゼット・ノワールだった。
「はい、リゼット?」
「“少し”の基準を、今一度ご確認いただけますでしょうか」
「? 今のは控えめでしたよ?」
首をかしげる仕草は、年相応の少女のそれだった。
だが、その言葉に説得力は一切ない。
「控えめ、でございますか……」
リゼットは一瞬だけ沈黙し、次いで、諦めたように一礼した。
「問題ありません。障害はすべて排除されております」
「ええ、ありがとうございます」
そのやり取りを少し離れた場所から見ていた青年――エルド・グレイシスは、額を押さえていた。
「……問題しかありませんが」
「エルド?」
「いえ、何でもありません」
何でもある。大いにある。
まず、この山脈は国境線だった。
次に、この規模の地形変動は歴史書に載る。
最後に――
(この方は、それを“少し”と認識している)
それが最大の問題だった。
「それで、セレスティア様。本日はここまでに致しましょうか」
「いえ、もう少しだけ」
セレスティアは空を見上げた。切り開かれた視界の向こう、遥か彼方まで続く青。
「向こう側も、少し気になりますので」
その横顔は、あまりにも美しかった。
ただ空を見ているだけで、絵画のように完成されている。
――だからこそ。
(この方が今、国境そのものを消し飛ばした張本人だと、誰が理解できる)
エルドは小さく息を吐いた。
「“少し”で済めばよろしいのですが……」
その呟きは、誰にも拾われなかった。
セレスティアは満足げに頷き、剣を鞘に納める。
その一連の動作もまた、完璧な淑女のそれだった。
無駄がなく、美しく、そして――
致命的に、場違いだった。
「では、参りましょうか」
「はい、お嬢様」
「……はい」
三人は歩き出す。
消えた山の、その向こうへ。
――数刻後。
小さな村に辿り着いた彼女たちは、すぐに異変に気づいた。
村の中央に、巨大な魔物が居座っていた。
体長は十メートルを優に超え、全身を黒い鱗で覆われている。呼吸のたびに、地面が震えた。
村人たちは遠巻きに怯え、誰も近づけずにいる。
その中で、ひとりの少女が前に出た。
銀の髪が揺れ、陽光を反射する。
その姿は、あまりにも美しく――
場違いなほどに、静かだった。
「困っているようですね」
柔らかな声。
それだけで、張り詰めていた空気がわずかに緩む。
「お嬢様」
「大丈夫ですよ、リゼット。少し話をするだけですから」
その微笑みは、安心すら与える。
だから、誰も止められなかった。
彼女が何をするかを、理解できなかったからだ。
「話で済む相手では――」
エルドの言葉は途中で途切れた。
セレスティアは、すでに魔物の懐にいた。
そして。
「失礼します」
優雅に一礼し、
軽く、剣を振るった。
音は、なかった。
魔物は一瞬遅れて、真っ二つに分かれた。
血すら飛ばない、あまりにも滑らかな断面だった。
「……これで、大丈夫でしょうか?」
振り返るその姿は、先ほどと何一つ変わらない。
ただ、あまりにも美しく、ただ、あまりにも穏やかに微笑んでいるだけだった。
――だからこそ。
「……綺麗だ」
誰かが、そう呟いた。
その直後、ようやく現実が追いつく。
巨大な魔物が、倒れている。
村を脅かしていた存在が、一瞬で消えた。
「……なんだ、あれは」
「人、なのか……?」
「いや、違う……」
恐怖が、遅れて広がる。
エルドは小さく息を吐いた。
(やはり、こうなる)
リゼットは当然のように周囲を警戒し、セレスティアは少し困ったように微笑む。
「怖がらせてしまいました?申し訳ありません」
その言葉は、心からのものだった。
だからこそ、余計に恐ろしい。
「お礼を……!」
村人の一人が、震えながら近づいてきた。
「いえ、お気になさらず。困っている方を助けるのは当然のことです」
セレスティアは優雅に微笑み、軽くスカートの端を摘んで礼をする。
完璧な淑女。
誰もが理想とする王女の姿。
――ただし。
「では、ひとつだけお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「は、はい……!」
村人は姿勢を正した。
その美しさに、思わず背筋を伸ばしてしまう。
「このあたりに、“神様”はいらっしゃいますか?」
空気が、止まった。
「……え?」
「神様、です。もしご存知でしたら、場所を教えていただけると助かります」
あまりにも自然に、あまりにも穏やかに。
セレスティアは続ける。
「少し、聞いてみたいことがありまして」
エルドが、ゆっくりと顔を覆った。
リゼットは、わずかに目を細めた。
そして、村人たちは――理解できなかった。
何を言っているのか。
何をしようとしているのか。
ただ一つだけ、分かることがあった。
この少女は。
目の前の“それ”は。
――触れてはいけない何かだと。
「……どんな、ご用件で……?」
恐る恐る問われたその質問に、
セレスティアは、少しだけ首をかしげてから答えた。
「大したことではありませんよ」
そして、微笑む。
あまりにも無邪気に。
「神様って、斬れるのか確かめたいだけですから」
その瞬間。
世界が、ほんの少しだけ――歪んだ気がした。




