5. 影差す箱庭
「ないよ。みんな、いつの間にかいなくなっちゃうもん」
――その返答を聞いた時、ああ、やっぱりな、という思いがアルグレンの胸中を占めた。
コトリに新しい友達ができるたび、そして前の友達の話題が少なくなっていくにつれて、なんとなく浮かんでいた予想だ。それは不安にも似ていて、口にするのも躊躇いがあった。
コトリは友達が死んだことを理解していない。単にどこかへいってしまっただけだと思っている。目の前から消え去り、もう二度と会えないのが死なのだと。それは間違いではないが、正解でもない。
死は永遠の別れであり、哀しみだ。たとえ喉が裂けるほど泣いても、哀しみはずっと胸の奥に残る。
消えない痛みが哀しみなのだ。
アルグレンは人間の専門家ではないから、自分の考えが絶対正しいとは断言できない。
だけど、彼にもかつて人間の友がいた経験がある。
彼女が死んだ時、彼は初めて哀しみを知った。それから何年経っても心の傷は癒えず、彼女が自分にとって特別だったことに気がついた。彼女が――一人の人間が、不死のアルグレンに死というものを教えてくれたのだ。
それ以来、彼は人間を遠くから眺めるだけに留めている。これ以上哀しみを増やしたくないから。特別にさえならなければ、誰が死のうと平静でいられる。そう、辛くない。
コトリは友達に会えないことの寂しさを感じても、胸が引き裂かれるほどの哀しみは感じていない。
それ自体が問題なのではない。いつか「死」の本当の意味を理解した時、コトリを痛めつけるであろうことが問題なのだ。
真実を知れば必ず、コトリは自分を責める。そしてそれは、気付くのが遅れれば遅れるほど研ぎ澄まされたナイフとなる。
真実を知った時、コトリはどうなるのだろう。魔力の暴走で済めばよいが、もしもアルグレンの予想を超えていたらと思うと、柄にもなく不安になってしまう。
たぶんだが、表面上はまだ大丈夫そうに見えても、実はかなり綱渡りなのではないかと思うのだ。
コトリ自身は気付いていないかもしれないが、「死」という言葉に過敏に反応する。さっきもアルグレンが寿命の話を持ち出してから、ずっと小刻みに震えていた。
無意識に恐れを感じていたのだろう。
死を理解していない彼女が、なぜ?
その答えは想像がつく。
「氷炎の時代。馬鹿兄貴と馬鹿マグナが引き起こした、災厄の時代か」
人間にも伝えられている古の話。それは神話やお伽噺などではなく、実際にあった出来事だ。
千年以上も昔のこと。一つだった大陸が四つに分断され、無数の島々が生まれた。大体は神官が語る通りだが、それだけで終わらない。
多くの命が、瞬く間に散っていった。燃え滾る炎の中に。あるいは氷の牢獄に。
災厄の原因は、女神の支えたる二つの柱、フォルスとマグナ。二人は互いに互いを滅ぼそうと、暴虐とも言える力を振るった。
海を割り、大地を沈め、星を落とそうとも止まることのない破壊の力。
クリフやアルグレン、キトラにトーザにラーナ、サーシャたちマグナの妹、そしてコトリ。眷属全員の力で、なんとか二人から世界を守ったのだ。
あれは恐ろしかった。アルグレンたちが全ての力を出し切ってなお、フォルスとマグナはそれを上回ろうとする。暴れる双頭の大蛇を必死に抑え込むような感覚は、思い出すと今でも指先が震える。
今だからこそ分かるが、あれは死の恐怖だった。死とは無縁の眷属たちに、そんなものを刻む込んだ事実もまた恐ろしい。
最終的に、女神の怒りを買った二人は力の大半を封じられ、アルグレンたちも力を使い果たした。
氷炎の時代の後の百年は沈黙の時代だなどと云われているらしいが、当然だ。フォルスたちは大人しくせざるを得なかったし、アルグレンたちも魔力を回復させるので手一杯だったのだから。指も動かせないくらい疲弊しきっていた。生き物はほとんど死滅したし、沈黙もなにも、喋る者がいなかっただけの話だ。
ともあれ、アルグレンでさえ命の危険を感じたのだ。コトリの恐怖は想像を絶するほどだったろう。
コトリは既に、死は怖いものだと勘付いている。ただ、今は気付いていないだけだ。心の幼さゆえに。
フォルスたちに植え付けられた「死」の恐怖と、友達の「死」――この二つが、いつどんな形で結びつくか分からない。
このままでは、確実にその時は訪れる。
だから、アルグレンは友を捨てるようコトリに言ったのだ。
「……一応兄貴に相談しとくか」
火蛇族が噴く火のブレスを丹念に掘りながら、アルグレンはぼそりと呟く。
さすがに「友達ごっこ」は言い方が悪かったかという気もしてきた。あの子が友達を大事にしているのは間違いない。
コトリは優しい子だ。
世間知らずで、愚かで、ちょっと我儘なところもあるけれど。
素直で、誰かが傷つくのが嫌で、平和を好む善良な性格。
何よりも自分の力を恐れている臆病な子。
アルグレンも同胞のことが心配なのだ。気持ちが過ぎるあまり、言葉まで過ぎてしまったが。
心配で。
「…………」
心配で――。
「ってあの馬鹿兄貴、ふて寝中だった! 使えねー!」
失意と怒りの絶叫が、海岸線にこだました。
感情の爆発は創作意欲に回された。
心の赴くままに、ガシガシと岩を削って削って削りまくる。形を失った瓦礫がぼとぼとと海中に沈み、ようやく絵の全体が様になってきた頃には、空はすっかり夕焼け色に染まっていた。
「さて、日も落ちてきたし、今日はこれくらいで終わりにするか。そういや、マグナに女神んとこ行くよう言われてたんだっけ。……ま、後でいっか」
岸壁も夕日色に色づき、彼の彫刻に美しい影を落としていた。コトリが綺麗な人と称した天人族長の上にも、光と影が絶妙な具合で陰影を描いている。
「うーむ。最高傑作」
満足気にニヤニヤしながら、ボキボキと関節を鳴らして、うんと背伸びする。その背後に、突如不穏な黒い気配が浮かび上がった。
ギクリ、と身を強張らせるのと同時。
「見てたわよ……」
「うお!?」
驚きつつ、転がるように慌てて距離を取る。
不気味なほど表情のない、黒髪の美女――キトラがそこに立っていた。いつもなら「美女」の前に「妖艶な」と修飾語がつくのだが、今はただただ気味が悪い。まるで寝起きの悪い魔女みたいだ。
「え? キトラ? なんでここに」
「尾けてきたに決まってるじゃない。コトリを」
「こわっ」
純粋な恐怖から、つい自分の腕を抱いて身震いしてしまう。
キトラは同族の中でも特に変わっている。嗜好が特殊なのだ。変だ変態だとは思っていたが、まさかストーカー行為に及ぶまでとは。
「ん? ということは、先程の一部始終を見ていたのか?」
「当然」
「いや、じゃあさっさと声掛けろよ」
「ふん。もしかしたらコトリが戻ってくるかもしれないじゃない。そしたら私があの子を尾行したことがバレるかもしれない。それだけは避けなければならないわ」
「自分のしてることが異常だって自覚はあるんだな」
キトラは、じわりと絡みつくような毒婦の笑みを浮かべた。
「さて、覚悟はできてるわよね? アルグレン。可愛い娘を泣かせた罪は重いわよ」
「え、いや、さっきのは違くて……。別にコトリを泣かせたいとか、そんな意図は一切なく」
「問答無用! 喰らえ、美女の鉄槌!」
「自分で言うな――ってぎゃあああ!! オレの渾身の芸術があー!!」
ガラガラと崩れ落ちる天人族長ジル某の顔に手を伸ばしながら、アルグレンは悲痛の叫びを上げる。キトラはそれを、無情にも「ふんっ」と鼻を鳴らして見下ろすのだった。
――後世、発見された彼の彫刻を、人々は神の芸術と呼び称賛した。中には古の種族同士の争いを描いた作品も含まれ、芸術的価値の他に歴史的、民俗学的な観点からも注目を浴びることになった。
特に、顔のない有翼の女像には、美しさのあまり嫉妬した女に破壊された説、古代の宝の手がかりが隠されていた説、罪人説が語られるなど、大きな関心を集めたという……。
+++
「それで、柵は完成したの?」
ふと思い出し、コトリは黄色い果実の皮を剥く作業に没頭中のゴノムに尋ねた。なにぶん体に比べて実が小さいので、皮を剥くにも神経がいるのだ。
一方コトリの手には、すでに四つ目の果実。紫と緑のグラデーションが美しい水葡萄だ。これは実ではなく、果汁を楽しむ。綺麗な水の周りでしか育たない珍しい果実である。
ゴノムは手元から目を離さずに答える。
「うん。昨日、出来上がったよ。上から見えなかった?」
「北の海から飛んできたから」
「ああ、そっか。完成した柵はここよりも南だからね。みんな頑張ったんだよ。ほら、オイラたちは手先があまり器用じゃないでしょう? 何本も丸太をダメにしちゃった。それでどうしたかって言うと……」
失敗話を面白おかしく語るゴノム。コトリは時に声を上げて笑いながら、彼の話に華を添えた。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、だんだんと日が高くなってきた。風は止み、暑さばかりが増していく。コトリは暑くても平気だが、ゴノムは時々手で扇いでいた。
「あ」
「うわっ」
突然、グラグラと視界が揺さぶられた。一瞬目眩かと思ったが、地面が揺れているのだと気付く。
立っていられないほどではない。だが、気にせずにはいられない。
揺れは三十秒ほど続いてピタリと止んだ。
「最近地震が多いなぁ」
ゴノムが空を見上げながらぼやいた。地震と言いつつ、上を見るのはなぜなんだろう。
彼が言った通り、このところ北大陸では小さな地震が頻発していた。揺れは大したこともないのだが、だんだんと回数が増えてきている。揺れる時間も少しずつ長くなっているのは、気のせいではない。今の三十秒は、最近の中で最長だった。
「なんか怖いね……」
コトリは視線を地面の下に向けながら、本音を零した。
胸の辺りがざわざわする。今までに感じたことのない厭な気配が、見慣れた景色に染みのように滲んでいる。
――誰かに見られている?
ふと、コトリはゴノム越しに森の奥へ目をやった。
その瞬間、森の奥で何かがキラリと煌めいた。
「がああっ!」
「ゴノム!?」
突然、ゴノムが顔の半分を押さえ、獣が吠えるような悲鳴を上げた。大きく仰け反った拍子に体が果物の籠にぶつかり、中身が盛大に散乱する。
ボタボタと真っ赤な鮮血が地面に落ちる。
押さえた指の間からは矢柄が飛び出て、それがゴノムの左目に突き刺さっていた。
「う、うあああ!」
「ゴノムっ! 暴れちゃダメ、怪我がひどくなっちゃうよ!」
「うぅぅ……だ、だめだ、コトリ……こっちに来ては……」
その時だ。
ゴノムの向こうの森の中から、いくつかの影が風のように飛び出してきたのは。
「よし、当たってるぞ! 取り押さえろ!」
「殺人鬼の巨人族め! 仲間の痛みを思い知れ!」
雄々しい鹿の角に緑の大きな目――南平野に暮らす獣人族のガーツと、その仲間たちだった。




