4. 女神の眷属
夏の終わり――。
燦々と降り注ぐ陽の光が、コトリの上に梢の影を落としている。ふと眩しさを感じて上を見上げれば、突き刺すように鋭い日差しが目に入り、コトリはさっと顔を伏せた。
形の良い眉を八の字に下げ、気怠げに溜め息をつく。
「はぁ……」
憂鬱な心とは反対に、湿り気を帯びた柔らかな地面はとても気持ちがいい。背を預けた木の幹はすっぽりとコトリの体を包み込んでいて、特製の椅子のようだ。北に位置するため夏の暑さは南ほど厳しくない上、カラッとした風が心地よくて、いつものコトリならうっかりうたた寝してしまうほどいい天気だった。
でも、あいにく今日はそんな気分じゃない。
長く伸びたハマスゲの葉に、最近はあまり見かけなくなったテントウムシがよちよちとよじ登っている。そのなんとも言えない可愛らしさに、思わず小さな笑みが溢れた。
「ああ、やっと笑った」
少し遠いところから降ってくるゴノムの声。
柔和な顔に静かな微笑みを浮かべた彼が、背中を曲げてコトリを見下ろしていた。
しかし、真っ先にコトリの目に入ったのは、彼が抱えている大きな籠――の、中身だ。
なんと、赤や黄、紫など色とりどりの瑞々しい果実が、山のように盛られているのだ。丸みを帯びた表皮に水滴が貼り付き、キラキラと神々しい光を放っている。芳しい香りがコトリのところまで漂ってきて、思わずクルルと喉が鳴った。
「そ、それ、どうしたの?」
興奮でつい声が震えてしまった。
ゴノムはくすりと笑いを漏らし、
「今朝、妖精族のアルムプーケリアがお裾分けしてくれたんだ。たくさん採れたからって」
「プーケが?」
コトリは目を瞬かせた。
改めて籠を見ると、確かにどれもこれも西の森で採れるものばかりだった。それに、巨人族の縄張りで採れたにしては小さ過ぎる。
――本当に妖精族が採ってきたんだ。
じんわりと、言葉にできない温もりのようなものが胸に広がった。
妖精族は、臆病という点では巨人族にも勝る。臆病ゆえに、滅多に他の種族の前には姿を現さない。
例外はコトリと人魚族だけだ。たぶん、どちらも見るからにか弱そうな姿だから心を許したのだろう。
反対に、巨人族や獣人族のような力の強い種族は妖精にとって恐怖の対象だ。
妖精族は、巨人族が誤って踏み潰してしまえるほど小さいのだ。自分より大きいものに対して、恐れを抱いてしまうのは仕方がない。
それに、巨人族の縄張りと西の森は離れているから、接する機会もない。
考えてみれば、わざわざ妖精族がお裾分けに訪れたというのはびっくりだ。風の魔法を使っても、彼らの体力では二、三時間はかかるのに。
どんな心境の変化があったのだろう。
「アルムプーケリアがコトリのことを話していたよ。コトリ、オイラたちのことを妖精族に話してたんでしょ? それを聞いて仲良くできるかもって、勇気を出して来てくれたんだ。プーケの他にも何人かいて、お話もしたんだよ。楽しかった」
「わあ、本当に! じゃあ、今度みんなでいっしょに遊ぼうよ! きっともっと楽しいよ!」
「うん!」
光のような笑顔につられて、ゴノムも満面の笑みで返す。嬉しいのは彼も一緒だ。コトリは前々から妖精と巨人は仲良く出来ると確信していたし、ゴノムも実は妖精族のことが気になっていたのだ。コトリがとても楽しそうに彼らのことを話すから。
目の前には、明るい未来が拓けていた。二人とも、これから起こる楽しい予感で胸がいっぱいだった。
ゴノムは籠の一番上に乗っていた果実に手を伸ばし、「はい」とコトリに手渡す。
「ありがとう」
木苺を手のひらサイズに大きくしたような、真っ赤な果実。ぴかぴか光る粒が美味しく食べられるのを待っている。その一つを口の中に放り込むと、甘酸っぱい汁がいっぱいに広がった。
「ん~!」
「ふふっ」
頬に手を当て、足をバタバタさせるコトリを、ゴノムは微笑ましく見守る。妖精族の果実は巨人族の口には小さすぎたけど、彼は大事そうに味わって食べていた。
しばらく経った頃、ゴノムがちらちらとこちらを窺っていることに気が付いた。問いかける代わりに横目で見返せば、意を決したように口を開く。
「コトリ、最近元気ないよね。何かあったの?」
「あ……そうだった」
「忘れてたんだ」
「うん」
二種族の進展と果物の甘さは、彼女の気鬱もふっ飛ばしたらしい。それはそれでゴノムとしては嬉しいけれど。
けれど、落ち込む彼女の力になりたいと思ったのだ。
ここ数日、コトリが来ない日が続いた。そういうことは今までにもあったので特に気にしなかったが、数日ぶりに再会した彼女の顔を見た途端、楽観的な気分は崩れ去った。
表情は暗いし、肩は落ちているし、溜め息ばかりついている。のっぴきならないことがあったのだ。話だけでも聞いてあげたら少しは楽になるのではと、ゴノムはその機会を窺っていた。
「あのね、兄様が起きないの。もう何日も呼びかけてるのに、全然、目を覚ましてくれないの」
「え?」
「一緒にお話したいのに。コトリ、って名前を呼んでほしいのに。なのに兄様、ずっと冷たい氷の中に閉じこもったまま」
「コトリ……」
ゴノムは痛ましいものを見る目でコトリを見つめた。
花のように美しい顔は、寂しげに下を向いていた。このまま萎れてしまうんじゃないかとゴノムは心配した。
底知れない力を秘めていても、それ以外は普通の小さな女の子だ。巨人族からすると大抵の生き物は小さいが、もちろんそういう意味ではなく。
コトリは幼い。外見もだが、心もだ。生きてきた年数に見合わないほど、無垢で幼い。
女神がそのように創ったのだろうか?
いや、違う気がする。
なんとなくだが……。
それはそうと。
何日も目が覚めない。冷たい氷の中。
これはもう、あれだろう。命ある者の宿命だ。どんなに可哀相でも、助けてやることはできない。慰めてあげることしか。
「兄様、冬眠しちゃったの」
たぶん違うとゴノムは思った。まさかふて寝であるとは誰が想像するだろう。
「兄様の氷を溶かせるのは、マグナ様しかいないんだけど、本当にきらわれるからイヤだって。だいじょうぶ、何年かすれば飽きて出てくるよ、って言われたんだけど」
「え? 本当に冬眠なの? 永眠じゃなく?」
まだ夏だけど。
コトリはふるふると首を振る。ゴノムのうっかり失言には気づかなかったようだ。
「わたしたちは、死なないの。母様の力を分けてもらったから」
「コトリたちの母様って、女神様のことだよね」
「うん」
こともなげに頷く彼女を見て、ゴノムは改めて自分とは違う次元の存在なのだと痛感する。
創造神エルプトラの子であり、眷属。それがコトリやラーナたちの正体だ。
神官が伝える古の神話によれば、世界が今の形――すなわち四つの大陸と無数の島々――に整えられたのが"氷炎の時代"の出来事で、眷属が主だって活躍した最後の時代であったという。
まだ人間種が存在していなかった頃だ。
消えない炎と解けない氷が世界中で幾度となくぶつかり合い、風は常に荒れ、空には分厚い雷雲が渦を巻き、大地が分断され、海が動き、新たな島が無数に生まれた激動の時代。その後の百年は、あらゆる命が息を殺して生きる沈黙の時代となった。
そういった話を、ゴノムは子供の頃に巨人族の神官から聞いた。ゴノムだけではなく、大抵の子供は神話を聞かされて育つ。他の種族も同じだ。
神話がどこまで本当なのかは分からない。コトリがその眷属だと言うが、普段の姿を見ているととてもそうは思えない。
だが、ラーナなら分かる気がする。一見無邪気な子供の顔をしていながら、たまにゾッとするような表情を見せるのだ。
あれは、遥か高みから下々を睥睨する顔だ。
ゴノムは時々、ラーナに名前すら覚えられていないのではないかと感じることがある。たまに思い出したように声をかけられた時など、取るに足らない生き物だと言外に言われているような気がする。なので、彼女のことはちょっと苦手だった。
「コトリはさ、なんでオイラたちと仲良くなろうと思ったの? 女神様の眷属と巨人族とじゃ、絶対釣り合わないよね。普通は、オイラたちのことなんか目もくれないんじゃないかい?」
新しい果実を手渡しながら問うと、コトリはしょんぼりした目でゴノムを見上げた。
「……仲良くなっちゃ、ダメなの?」
「そんなことないよ。オイラはコトリと仲良くなれて嬉しい。コトリを肩に乗せて歩くの、すごく楽しいんだ。みんなに羨ましがられる」
するとコトリは顔を輝かせる。
「わたしも、ゴノムの肩に乗るの好き! 空のずっと高いところを飛ぶのも好きだけど、ゴノムの肩は、色んなものが近くに見えて、いい!」
「そ、そう? それならよかった」
思わず顔を赤くしてしまう。率直に好きだと言われると、さすがに照れるのだった。
一方、コトリはゴノムの言葉にウキウキしながらも、どこかチクリと刺さるものを感じていた。
先日、百五十年ぶりに、同胞の一人に会いに行った。
アルグレンだ。
くすんだ灰色の髪に深い青の目をしていて、目つきが鋭い。とにかく鋭い。一度睨んでいるのかと聞いたことがあるけれど、元からだと怒られた。
口も態度も悪く不良少年そのものといった振る舞いをする彼だが、意外と真面目だ。誰かの頼みはきちんと受け取るし、約束は破らない。
最近は彫刻に凝っているらしく、南東大陸の荒波打ち付ける岸壁に、天人族と火蛇族の戦いの様を彫っている真っ最中だという。それでコトリも見物に行ったのだ。その時交わした会話が、今も胸に刺さっているのだった。
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「このキレイな女の人は、なんていう人?」
「そいつぁ天人族の長だ。名前は……ジルなんとかっつったか。よく覚えてねぇや」
「アルグレンの友達じゃないの? すごく細かく彫ってあるよ。」
「人間の友達なんざいねぇよ。ンなもん作ったって無駄だろ」
岩壁を彫る手を休めず、面倒くさそうに答えるアルグレン。
コトリはぎょっとして言葉に詰まった後、恐る恐る聞き返した。
「……どうして?」
「どうしてって、分かるだろ。人間なんかすぐ死ぬ生き物なんだぜ。大体百年前後、早死にする種族だと、三、四十年生きりゃあ長生きだ。樹人族でさえ三百年程度。オレたちが生きた年月の十分の一にも満たねぇ。あくびしてる間に通り過ぎちまうようなヤツらと仲良くする理由なんかねぇだろ」
ガンガンと、淀みない手つきで岩を彫る。星銀製と思しき美しい槍が、どんどん形になっていく。
神業のようなその所作にさっきまで見惚れていたはずなのに、今は視界の片隅にも入らない。
コトリはアルグレンの主張を否定しようと、なんとか頑張って言葉を探した。
「そ、そんなことないよ。仲よくできたら、楽しいもん。おしゃべりして、果物食べて、相手のこと知って、それでもっと仲よくなれるんだよ。理由なんて、楽しいからで十分だよ」
「お前はヒトの懐に入るのがうまいからなぁ。見るからに無害だし」
褒めているのか貶しているのか分からない物言いに、コトリは微妙な顔をする。
「無駄じゃないもん……」
「ああ、悪かった悪かった。無駄ってのは取り消そう。けど、オレが言いたいのは無駄かどうかって話じゃない。覚悟の話だ」
「覚悟?」
「ああ。お前、友達の死に目に会ったことはあるか?」
コトリは一瞬震えて、聞き返す。
「死に目ってなに?」
「なんだよ、そこかよ。友達を看取ったことが――ああいや、ちゃんと最後の別れをしたことあるか、ってことだよ」
「ないよ。みんな、いつの間にかいなくなっちゃうもん」
「いなくなっちゃう、ね」
そう繰り返すと、アルグレンはガリガリと頭を掻いた。
彼の言いたい覚悟というものが、コトリにはよく分からなかった。大体、アルグレンにしては遠回しな言い方だと思う。もっとハッキリキッパリ言ってほしい。あーだの、うーだの唸ってないで。
悩んでいるのか。一体、何に対して?
しばし唸った後、アルグレンは道具を脇に置き、真っ直ぐにコトリを見据えて言った。
「お前さ、もう友達に会うのはやめろ。人間はお前に相応しくない」
「……え」
「今からでも遅くねぇ。人間と距離を置くんだ。じゃねぇと、後で絶対後悔するぞ。いや、もう遅いかもしれねぇが……少しでも早い方が、いくらか傷は浅くて済むだろう。いいか。オレの言うとおりにしろよ。友達ごっこは、もう終いだ」
ぷつんと、コトリの中で何かが切れた。
「な、なに……友達ごっこって。ごっこじゃないもん。本当に、本当の、友達だもん。ゴノムのことも、みんなのことも知らないくせに、なんでアルグレンにそんなことが言えるの!」
わなわなと拳が震える。胸の奥底から、煮えたぎるような圧力が込み上げてくる。ともすれば吐き出しそうな酔いと熱の中、キラキラと光る蒼い粒子が辺りに舞う。熱い体の内側とは逆に周囲の気温が一気に下がり、やけにうるさい波の音が岸壁に弾ける。急に荒れはじめた風に驚いた海鳥たちが、空で悲鳴をあげるように鳴いている。
はっと我に返った時にはもう、外側に出ていく力を抑えきれなくなっていた。慌てて止めようとすればするほど、魔力が乱れて収集がつかない。
「ああもう、落ち着けって。未熟者が」
アルグレンが煩わしそうに手を振ると、乱れていた魔力がふっと消えた。同時に風や気温が元通りになり、波の音も次第に静けさを取り戻していく。
コトリは呆然として、彫刻を続ける同胞の背中を見やる。
ほんの少しとは言え、魔力の暴走をいとも簡単に収めてしまった。魔力の制御が苦手なコトリには出来ない芸当だ。
悔しくて涙が滲む彼女に、アルグレンは振り返らずに言う。
「分かったか? お前は感情が爆発すると、魔力が暴走しやすい。今回はオレがいたからこの程度で済んだが、人間だらけの場所で暴発させてみろ。最悪、何百人も死人が出るぞ」
「…………!」
ぐっと唇を噛む。
アルグレンの言葉は真実味を含んでいた。きっと彼の言うとおりなのだろう。己の危険性の証明はたった今、自ら済ませたばかりだ。
けれど、何か言い返したかった。このままだと、全部アルグレンが正しいと認めてしまうようで嫌だった。
「ア――アルグレンが意地悪じゃなかったら、暴走しなかったもん! アルグレンなんかきらい! ばーか!」
結局、捨て台詞を吐いて泣きながら飛び去った。
思わず唖然として振り返ったアルグレンだが、その頃にはすでにコトリの姿は小さな影となり、雲の向こうへ消えていくところだった。
波打つ岸壁に一人、小さく溜息を落とす。
「そういうことだ。何もなければ……何も起こらない」
再びノミと石頭を手に作業をはじめたアルグレンは、ガンガンという硬い音を聞きながら、ポツリと呟くのだった。