12. 火種
二人が部屋を出て行って少し経った頃、部屋の隅から押し殺すような笑い声が聞こえてきた。びっくりしたコトリが机の上に飛び乗って威嚇ポーズを取る。一方フォルスは胡乱な目で、最も影が濃い部屋の角にいる男を見た。
「出てくるなら一言声を掛けんか、クリフ」
「くく……っ。いえ、すみません。驚かすつもりはなかったんですが」
許可もなくひっそりと部屋に忍び込んでいたのは、光匣の前で立ち話をしていた四人組の一人、金髪の優男クリフだった。彼は女のように細い指で口元を隠し、可笑しそうに背を丸めて笑っていた。
「いやぁ、賑やかな子たちですね。鬼族の子が兄上の"娘"ですか?」
「違う。あれが赤ん坊の時から面倒を見ているだけだ」
「それを育ての親と言うのでは?」
面白がって窺うと、フォルスはふんっと鼻を鳴らした。これ以上話すつもりはないらしい。
入れ替わりに、コトリが黒猫姿から人の姿へと変化する。正確には変化ではなく、触れることの出来る幻――幻実という能力だ。〈千年氷柱〉のメンバーとして人の前に姿を見せなければならない時、彼女はこの能力を使って怪しげなローブ姿をとっている。
ローブの下は、銀髪の大人しそうな少女だ。線が細く儚げで、庇護欲を掻き立てるほど愛らしい。
昔そのままの姿に、クリフは自然と頬を緩ませた。
「こんにちは。クリフ」
「久しぶりですね、コトリ。元気そうで安心しました。あれ以来、姿を見ていませんでしたから」
「……うん」
「まあ、兄上と一緒なので心配はしていませんでしたけどね」
「うん」
「キトラも会いたがっていましたよ」
「…………」
「あはは、相変わらず彼女は苦手ですか」
「そんなこと、ないよ」
そう返したけれど、ついつい目が逸れた。可愛い女の子に目がないキトラは、コトリに構いすぎるのだ。周りが注意しても聞かないし、悪意がないのは分かっているので半ば諦めていた。
フォルスは肘掛けに頬杖して促す。
「で、お前は何の用なのだ、クリフ? 光匣の再稼働のことなら、恙無く済んだのを確認しているが」
「はい。そちらはもう。いやぁ、兄上もお疲れ様でした。マグナ様の尻拭い」
「ふん。奴は気に食わんが、今回のことは仕方がない。穏便に済ませるには、〈千年氷柱〉を使うのが一番だった。それに俺は何もしとらん。実際に動いたのは」
「彼女たち、ですか」
クリフは面白そうに目を細めた。途端に胡散臭さが倍増する。先程部下たちに「悪役っぽい」と言われたことを気にして、フォルスはさらに顔をしかめた。
「なかなかの者たちですよね。特に黒髪の娘、光匣の一撃をいとも簡単に避けてみせるとは。すごく目がいい。さすがは兄上の見出した者です」
「俺は何も見出しとらん。イオリはここに来た時からあんなものだったぞ。雲龍の奴に鍛えられたのだろう。雲の上の存在だとか言っておったがな」
「なぜ隠すのでしょう?」
「余計な詮索をされんためじゃろ。秘密主義だからなぁ、あの国の者らは。雲龍は雲龍で、同じ龍に殺されかけて以来、龍不信だしの」
「お気の毒ですねぇ」
「笑いながら言われたら、あやつもブチ切れるだろうよ」
「じゃあ目の前で言わないようにします」
「笑うのやめろよ」
フォルスは頬杖する腕を組み替えて、改めて問う。
「で? もう一度聞くが、何の用だ?」
「そうですねぇ。今日来たのは、そのー、ラーナのことなんです」
その名前を聞いたコトリは、唇をきゅっと結んで俯いた。
先日の対峙が脳裏に蘇る。彼女は自分のことを酷く恨んでいる様子だった。
見たことのないきつい眼差し、張り詰めた敵意。
当然だと思う。自分はとても酷いことを彼女にしたのだ。それなのに一言も謝っていない。恨まれて当然だ――。
突然体がぐらりと傾いたかと思うと、フォルスの膝に後ろから抱っこされていた。
驚いてきょとんと目を瞬かせる。
次に困惑がやってきた。
「に、兄様……」
今の彼とコトリはあまり背が変わらないので、顔がくっつくほど近い。昔はすっぽり収まっていたものだが。
慰めてくれているのだろうか。
最初はびっくりしたものの、かつてを思い出し、じわじわと懐かしく温かい気持ちになってくる。
が、この場所を巡ってラーナと取り合いっこしたことまで思い出して、しゅんと項垂れてしまうのだった。
「あの困ったさん、どうやら悪名高き魔神教に関わっているようでして」
「知っておる」
「あ、そうでしたか。ということは……。いやはや、ダメですね僕ら。夏の太陽よりものんびりしちゃって、身内が今何をしているのかも気づけないんですから。悪名高きなんて言いましたけど、ぶっちゃけさっき初めて聞きました僕です」
「その『さっき』とやらもどうせ一年前とかだろ」
「どうだったかな……」
と、クリフは斜め上を見てとぼける。
フォルスがシャムスからそれらしき報告を聞いたのは、つい数日前だ。シャムスはラーナのことを知らないし、名前も出なかったのであくまで推測だが。
特徴的な姿と言動。そして先日コトリが話したというラーナとの会話の内容。目的は分からないが、こちらと接触しようとしているのは明らかだ。
なぜ直接会いに来ないのかは謎だが……思い当たる節がないわけではない。
「それにしても"魔神教"とは。ふざけとるにも程があるわ」
「仰るとおりです。で、ですね。もしあの子が妙な真似をした場合、どうしようかなぁと。時勢が時勢ですし。さすがに無視はできないでしょう? でも僕たちが普通にやり合えば必ず周辺に被害が出ます」
具体的に言うと、地形が変わったり、潮の流れが変わったり、世界規模の災害が闊歩したり、数百年単位で気候が変化したりといったことだ。生態系にも深刻な被害が出る。人間も大勢死ぬだろう。
しかし一番の問題は、魔力のバランスが崩れることだ。
全ての人間は生まれた時から微量の魔力を持っている。人間が死ねば魔力は大地に還る。そして新たに生まれる人間に、ほんの僅かな分だけ宿る。
こうしたサイクルは、女神も預かり知らぬところでいつの間にか出来上がっていた。大地も人間も女神の創造物。全ての魔力はもとを辿れば女神のもの。共鳴し、互いの間を行き来する関係は自然と生まれた。
だが、大地の魔力を奪う邪魔な存在がある。
魔物だ。
奴らは、女神の魔力をいわば穢す存在。明確な敵なのだ。
人間が死ねばその分の魔力が大地に還り、魔物がそれを養分として生まれる。
そうなれば千年級が復活する土壌が完成し、いよいよ人類は詰む。
人類対魔物の戦いは、大地の魔力の奪い合いでもある。
人類がこの世から消え去ったところで女神やフォルスたち眷属がどうにかなるわけではない。が、人類の敗北は女神の敗北も同然だ。だからフォルスたちは人類に加担するのだ。
「どうします? ラーナのこと。さすがに母上に背くことはないと思いますが、あの子、思い込んだら苛烈なところがありますからね。勢い余ってやっちゃった、みたいなことにならなければよいのですが」
クリフとしては、ラーナが何かしでかす前に手を打つつもりだ。しかし、釘を差すだけのつもりが要らぬ刺激になってはまずい。フォルスの言葉なら素直に受け止めるだろうと思って相談に来たのだが――。
「今のところは捨て置いて構わん。目に余るようなら、わしが仕置きする」
指先ほどの熱もない声音に、さしものクリフも笑みを凍りつかせる。コトリも兄の膝の上でビクリと体を震わせた。
「……えーっと。その様子ですと、すでに兄上の怒りを買ってしまっているようですね。……ご愁傷様です」
「なに、お前が気にすることではない。代償はあやつに支払わせるからな」
「いえ、ラーナがですね……ハハ、ハ……。うわー、本気ですねぇ。せめて場所は選んでくださいね?」
「分かっとるわ」
ラーナがコトリを殺しかけたことをクリフは知らない。彼は仲の良い二人しか知らないから、そのようになっているとは想像もつかない。しかし過去稀に見るマジギレ状態のフォルスを目の当たりにして、ただ事ではないと察した。
(早く謝った方がいいですよ、ラーナ)
痛い目を見なければいいが……と、久しく会っていない同族を心配するクリフだった。
第四話 古き聖者の探訪記録 (終)
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。