19. とある一日の終わり
南西居住区の一角。民家と呼ぶには少々大きな古い屋敷。四角い敷地の中には前庭があり、二階建ての母屋があり、中庭があり、並木道があり、小さな離れが目立たずに埋もれている。
白と黒のシックな壁と屋根。レンガの煙突。宝石のような青い花々。
〈千年氷柱〉の本拠地――ご近所ではひっそりと『アネモネ屋敷』のあだ名で呼ばれる建物だ。
今は夜闇の底に横たわり、まるで大きな生き物のように静まり返っていた。
しかし、ただ一室、二階の中庭に面した部屋にだけ、炎による明かりが灯っている。
フォルスの自室だ。
窓は開け放ったまま、心地よい風がカーテンを揺らす。ゆらゆら、さらさらと。
机に向かって何やら書物をしているのは、この部屋の主。そして扉に近いところに、二人の男女が少し間隔を開けて立っていた。
ジーン、そしてアイーダだ。
冷めた銀髪と燃えるような赤髪。腕を組みまんじりともしない男と、壁に凭れかかり眠そうに欠伸を繰り返す女。夜は弱いのか、ともすれば背中からずり落ちてしまいそうだ。瞼が落ちるたびにハッと我に返り、パシパシと目を瞬く。そしてまた落ちかける……の繰り返しで、いつ寝入ってしまってもおかしくなかった。
二人を放ってフォルスは何をしているのかと言うと、机に向かって手紙を書いているのだった。
誰に宛てたものなのか、どんな内容なのかの説明はない。だが、ジーンもアイーダもあえて聞こうとはしなかった。フォルスが何も言わないのは、自分たちが知る必要のないことだからと知っているのだ。
そういう時、不用意に尋ねてしまうと思わぬ重荷を背負ってしまうことになる。そうやって藪をつついて、聞かなければよかったと後悔した経験が二人にはあった。
知らなくてもいい上に聞いたら後悔するなら、聞かない方がいいに決まっている。
というわけで、アイーダは眠い目を擦りながらも、じっと沈黙を保つのだった。
聞かない方がいいと言えば、もう一つ、この部屋にはあえて触れない方がよさそうものが存在した。
机の脇に置かれた異質な長物だ。白い布で厳重に巻かれており、中身を窺い知ることはできない。だがアイーダは経験から、槍だと見当を付けていた。
異質なのは長さではなく、存在感だった。
熟練の戦士ならば、生き物の気配というものをある程度感じ取ることができる。息遣いや物音、匂い、温度、そのものが放つ個性。
慣れると、相手が隠れていてもなんとなく分かるようになる。強いか弱いか。脅威かそうでないか。目の前に見えているとなればなおさらだ。
白布の長物で言えば、強い。脅威ではない。しかしそんな気配を物言わぬ物体に感じることが、すでに違和感だった。
だがアイーダは似たものを知っている。戦士にとって、とても馴染みの深いものだ。
それは――。
(いやいやいや、考えるな。考えちゃダメだ。絶対面倒なことになる、いやもうなってるから)
白布の長物が予想通りの品であるなら、そんなものがフォルスの部屋にあること自体、面倒事がウォーミングアップを始めている証だ。
ある意味面倒事を捌くのが自分たち討伐戦士の仕事だが、人の手に負えない厄介事は御免である。絶対、ぜったいに、関わりたくない。殴ればなんとかなるならまだしも。
(知らないふり、知らないふり……)
たぶん〈千年氷柱〉の誰かが背負うことになるんだろうなと思いつつ、それが自分でないことをひたすら祈るアイーダだった。
カリカリとペン先と紙が触れ合う音が、暗い静けさを掻き乱す。
フォルスは一度も手を休めることなく、最初から最後まで一定のリズムを刻んで文字を綴っていく。
それほど長くない手紙を書き終えると、彼は慣れた手つきで便箋を三つに折りたたんだ。少しのズレもない仕事を見るに、これまで何百何千と便箋を折ってきたのだろう。
彼はそれを封筒に収めることなく、机の上に置いてあるランプの蓋を開けて炎に翳した。
紙の端が炎に触れると、一瞬だけ大きく燃え上がり、あっという間に便箋全体を包み込む。かと思えば、灰も残さずに消えてしまった。
燃え尽きたと言うよりも、まさに消えたのだ。手品のように。
フォルスはペンをペン立てに戻すと、「さて」と呟いて椅子ごと背後に向き直った。
「ではそろそろ始めようか」
宣言した瞬間。
風がぶわっと雪崩込み、カーテンが大きく広がった。数枚の花びらが一緒に舞い込んできて、ほのかな匂いを部屋に散らす。
ほんの僅かな時間。
部屋の真ん中に片膝をついて現れたのは、艷やかな長い黒髪をポニーテールにした、涼やかな眼差しの女だった。
幼さの残る顔つきに反して、落ち着きのある表情。
藍染のシャツに、白の短パン。夜闇を溶かしたような袖なしの羽織を纏い、細い腰帯で留めている。帯には小刀が、漆塗りの鞘に収められて挟まっていた。
「すまない。遅くなった!」
女は長いポニーテールを揺らして立ち上がりつつ、開口一番に遅れを詫びた。
フォルスは口の端を上げ、背凭れに寄りかかって手を組んだ。
「よい。丁度これから始めるところだ。今まで手紙を書いていたのだ」
「手紙?」
「ああ。炎龍に野暮用でな」
なんでもない風に答えるフォルスに、イオリはしばしきょとんとした後、苦笑した。
飛滝伊織。
フリギア大陸北東に領土をもつ小国、風音ノ国の出身者である。
風音は、かつてトラン王国と熾烈な戦をしていた国だ。国土は小さいが兵士の質は非常に高く、そのうえ暗殺や奇襲に特化した組織のせいで王国軍は苦戦を強いられた。
結果的に両国は和睦を結んだが、当時すでに大国と呼ばれていた王国からすれば、敗北に等しい結末だった。
なにせ王国は、完全に風音を取るつもりだったのだから。
だが、百年以上に渡る和平を現在も保ち続けている。
王国には風音ノ国に手を出せない理由があった。
「龍相手に野暮用とは。相変わらず謎な方だな、マスター殿は」
「お前にとっても龍など珍しくないだろう。風音には雲龍がいるではないか」
そう。
風音ノ国は、人族の国家にもかかわらず、龍に庇護された国なのだ。
風音の少数精鋭を大軍で押し潰そうとしたその時、突然王都に雲龍が現れて警告したのだと云う。
――俺の身内に手ぇ出したら殺すぞオラ、と。
そんな乱暴な物言いではなかっただろうが、ニュアンスとしては似たようなものだ。
王国は手を引かざるを得なかった。
なんたって龍はこわい。つよい。かてない。
国中の戦士を集めればもしかしたら討てるかもしれないが、そんな策は現実的に無理がある。そもそも戦士は兵士と違い、国のために戦う理由がない。そればかりか、龍を敵に回した愚かな王と見限られる可能性の方が高い。
そんなこんなで戦は終わった。めでたしめでたし。
「いやいや、私のような一介の戦士でしかない者にとって、雲様は文字通り遥か雲の上のお方だ。お会いしたことなど一度もないよ」
「ふーむ? アイツのことだ。知らぬ間に会っていたとしてもおかしくはないと思うがな」
「……もしかしてとは思ったが、マスター殿、雲様とお知り合いか?」
「知り合いと言うほどではない。アイツがガキの頃にちょっと話をしたことがあるだけだ」
「そ、そうか」
軽く顔を引き攣らせるイオリに、アイーダが横から物を言う。
「反応するだけ無駄だよ、イオリちゃん。あたしなんか『あーはいはい』で流しちゃうもんね」
さっき必死で知らないふりをし通したことは脇に置き。
「それは、アイーダ殿とマスター殿の付き合いが長いからだろう」
「腐れ縁さ」
などと欠片も思っていない顔で嘯くアイーダに、イオリは微笑んだ。まるで年の離れた妹をみつめる姉のようだ。年齢はアイーダの方が二つ上だが、イオリの大人びた雰囲気はそれを上回る。そのことにアイーダが気を悪くする様子はない。色んな垣根を超えて対等な二人だった。
続いて、イオリは腕を組んで佇む銀髪の男に目を向けた。
「ジーン殿も久しぶりだな」
「ああ」
「機会があれば、また手合わせ願う」
「承った」
一通りの挨拶が終わったところで、三人は並んでフォルスと向かい合った。
明かりは小さなランプの炎がひとつ。そして、窓から差し込む星あかり。そこに水鉢に浮かんだ水晶の花がぼんやりとした光を放ち、幻想的な光景を生み出している。
光を背にしたフォルスの顔は、どことなく挑戦的で、挑発的でもある。
「お前たち三人に命じる。裏の仕事だ」
彼が告げた言葉に、アイーダらの顔が一瞬で引き締まったのは言うまでもなかった。
第三話 金の卵の捕物記録! (終)
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
次話以降も頑張ります。