12. 時計台にて
陽光が燦々と降り注ぐ夏の時計台。
地区教会に寄り添うように建てられた時計台の足元はちょっとした憩いの場になっており、今は元気に駆け回る三人の少年少女、そして一羽の黒いニワトリ(もどき)の姿があった。
「待てぇぇ! デーアーちゃーん!」
「コケーッ!!」
「逃げても無駄よっ。早く諦めて、大人しくお縄になることね!」
「コケッ! コッコッコ! コケーーッ!!」
「ディーノ、反対側に回って。三人で囲もう」
「分かりました!」
「きゃあ!? 痛いっ」
「あ、フェリスさんの髪がついばまれてる」
「ナイス、フェリス。ディーノ、今のうちに!」
「囮扱い……」
ノアの指示にぼそりと呟きつつも、ディーノはそっとフェリスの背後から近づき、金色の髪をぐいぐい引っ張っている鳥を引き剥がした。
「コケっ? コ、コケー!」
「あっ、ちょ、暴れるな」
突然体の自由を奪われたことに驚いたデアレッドが、大きな羽をばたつかせてもがく。嘴が開いたおかげで、フェリスは髪の毛をついばまれるという残虐な行為から解放された。
が、ショックが強かったようで、ぺたんと座り込んだまま呆然としている。綺麗に編み込んだ髪はあちこち解れてしまって、見る影もない。小人たちと言いデアレッドと言い、どうして彼女の髪に食いつくのだろう。
さすがに可哀想な気がした。
そしてそんな気の緩みを、デアレッドは見逃さなかった。
「コケ!」
「あっ」
今までは手を抜いていたのか、物凄い力だった。
ディーノの両手を支点に一気に体を持ち上げ、羽を広げて一瞬の浮遊。
「げふ」
鋭い趾で彼の顔ど真ん中を踏みつけ、拘束が緩んだ隙にまんまと脱出したのだった。
「コッケコー」
腹立たしいくらい勝ち誇った鳴き声を残し、デアレッドは開いた窓から時計台の中へと消えた。向こう側へ飛び降りる寸前、ちらりとこちらを振り返って笑ったように見えたのは気のせいだろうか。……そうだと思いたい。
「大丈夫? ディーノ」
「だ、大丈夫、です」
額を押さえつつノアに応じる。爪が食い込んで痛かったが、少し血が滲んだ程度だ。唾でも付けていれば治るだろう。
「ノアさんはフェリスさんに付いていてあげてください。……なんだか可哀想なので」
フェリスは相変わらず呆然としている。焦点の合っていないその姿を見て、ディーノと同じことを感じたのか、ノアは頷いた。
「了解。でも一人で大丈夫?」
「デアレッドは時計台に入っていきましたから……。他に出口ってありませんよね?」
「ないね。正面の一箇所だけ。窓から降りてきたら、すぐに気づくよ」
だったら、とディーノは気合いを張る。
「おれが捕まえてきます。もし降りてきたら、その時はお願いします」
「分かった。それが良さそうだね」
「はい!」
「――ま、待って」
震える声がディーノを引き止めた。
見やれば、涙の滲んだ目を怒りに吊り上げたフェリスの姿が。
「わたしも行く。ゆ、許さないわ。あのトリ。絶対、絶対に絶対、ぜったい、ぜつ、ゼツ、ぜつぜツ」
我に返ったかと思えば、ショックですっかり壊れていた。
これはどうしたものかとノアを振り返ると、パクパクと口を開けたり閉じたりしている。同時に、掌で叩く動作を繰り返す。
な、お、し、と、く、か、ら、いっ、て。
「…………」
壊れたフェリスを叩いて直すという意味だろうか……。
直るのだろうか……。
更に壊れるのではないかという心配を抱いたが、彼女の友人であるノアに任せておけば間違いはないだろうと半ば現実から目を逸らしつつ、ディーノは時計台の正面扉へと走るのだった。
時計台と言うが、誰の目にも分かるような時計は設置されていない。本体は内部に置かれてあり、一時間ごとに連動した鐘が鳴らされる仕組みだ。
中に入ると、建物の中央に装置を詰め込んだ大きな部屋、その周りをぐるぐると囲うように階段が伸びていた。
人が大勢で上ることは想定していないらしく、階段は一人二人が並べる程度だ。
今更だが関係者以外は立入禁止だったりしないだろうかと、不安が頭をもたげる。しかし階段の端にチラッと黒い影が見えたことで、そんな懸念は吹っ飛んでしまった。
すぐに追って走り出す。デアレッドも彼の存在に気づいたようで、驚いて一鳴きすると、羽を駆使して懸命に階段を登りはじめた。
「待てー!」
「コケー!」
「待てってば!」
「コケッコ!」
「待ってください!」
「ケーコッコ!」
ついつい、そんな押し問答(?)をしてしまう。デアレッドも律儀に返してくれるものだから、なんだかちょっと楽しくなってきた。
――そういえば。
階段を駆け上がりながら、ふと思い出す。
ロジェの使いである小人、もとい木の精が言っていた。
デアレッドは、「あいつがどこかに去るまで帰りたくない」と話していたと。
彼女は誰かに会って、嫌な思いをした。だから家には戻りたくない。
『あいつ』とは誰のことだろう?
クランのメンバーではないと思う。デアレッドはジラルト相手に一歩も引かない大物である。嫌な思いをしたからと言って、家出を決め込む性格ではないのではないか。ノアも思い当たる人物はいないようだった。
ということは、『あいつ』は部外者の可能性が高い。
――『あいつ』はまだ近くにいる?
そこまで考えた時、ディーノの背筋がぞくりと粟立った。足が強張って、危うく転びそうになる。咄嗟に踏ん張って転倒は免れたが、デアレッドとの距離が三段分くらい開いてしまった。
――今、誰かに見られなかったか?
窓もないし、そんなわけはないのだが。
誰かいるとしたら、数歩先を駆けるデアレッドだけ。今は一生懸命羽をばたつかせていて、後ろを振り返る余裕もなさそうだ。
(気のせい……か。うん、そうだよな。そうに決まってる)
まだ少し心臓がドキドキ鳴っている。しかし錯覚だと結論づけると、すぐに不穏な気配は散っていった。
一瞬でも動揺したのが不思議だとさえ思えてくる。
階段を上るたびに、ギシギシと木の踏み板が軋む。民家にして軽く五階分を超える高さを、休むことなく駆け上がる。息ひとつ乱れないのは、訓練の賜物か。一角タイガーに追われ続けた二週間は意味のないものではなかったのだ――と、ちょっとした感動に浸っていると、上部から差し込む光が見えてきた。
鐘のある見晴らし台部分に辿り着いたのだ。
扉は開け放たれている。デアレッドの仕業とは思えないから、最初から開いていたのだろう。
ディーノは勢いをつけたまま、光の中へと飛び込んだ。
「――っ!」
太陽の光が、瞼の裏を強く刺激する。ズキッとする痛みに顔をしかめたのも束の間、体がぐらつくほどの突風が彼の横手から吹きつけた。
近くにあったものにしがみついて耐える。
風の音がうるさい。ビュウビュウと、まるで空が唸っているようだ。身構えていれば立っていられないほどではないが、突然のことだったので驚いた。
……そうだ、デアレッド。あの小さな体は風に飛ばされてやしないか。
ディーノはおそるおそる目を開き、そして息を呑んだ。
――街が広がっていた。
どこまでも、どこまでも。
遥か遠い足の下に、粘土で作った細工のように不揃いで整った町並みが、視界の続く限り広がっている。
いや、さすがに視界の限りは言い過ぎか。街の外側は城壁に遮られてほとんど見えない。この時計台よりもっと高い場所からなら、北の山岳や森林地帯も眺めることができるのかもしれないが。
それでも、街は広かった。
手を伸ばしても届かないほどに。
敷き詰められた白い石畳。
その上を行き交うたくさんの人。大人がいて、子供がいて、老人がいる。
荷車に積み上げられたリンゴ。威勢のいい客引き。商人が物を売り、買う人がいて。数人連れの戦士に少年が見惚れて、その手を母親らしき人が引く。
茶、黒、灰、金。
顔は見えないけれど、表情は分かる。知っている。ディーノも彼らと同じ。この街に生きる人間の一人だから。
花と光あふれるこの街に。
「……嘘だ」
グラムウェルには空がない。
そんなのは嘘だ。
誇張ですらない。
だって、こんなにも大きくて青い空に包まれているではないか。
空からキラキラと降り注ぐ陽光に照らされて、グラムウェルの街は天上のように輝いて見えた。
「…………」
大きいニワトリのような黒い鳥が、欄干に掴まって下を覗き込んでいる。ここから逃げようたって、行き場がなければどうしようもない。追いかけて追いかけて、ようやく追い詰めることができたのだ。
デアレッドはもうすぐそばにいた。あと数歩歩けば捕まえられるくらいの距離に。
「デアレッド」
ディーノはその名を呼びかけ、ゆっくりと前へ踏み出した。
デアレッドがびくりと揺れ、首だけ曲げて振り返る。ジラルトを迎え撃った時とは違い――結局その役はアイーダが担ったが――、その目にはどこか怯えのような色が見えた。
意味があるのかどうかは分からないが、彼女を落ち着かせようとディーノは微笑んだ。
「もう気は済んだ? 済んだなら帰ろう。マカロフさんが待ってるよ」
「…………クゥ」
「木の精さんから聞いたよ。嫌な思いをしたんだって? だから帰りたくないんだ?」
「コケ! コッコッコ、コケーッ!」
「あはは、何言ってるか全然分かんない」
「コケ……っ」
デアレッドはショックを受けたように固まった。面白いことに、彼女にはディーノ――というより、人間の言葉が分かるようだ。マカロフ辺りが仕込んだのだろうか。それにしても知能が高すぎるように思うが。
ともあれ言葉が無力でないことを知り、ディーノの心は上向いた。
「大丈夫だよ。怖い人がまだいたら、おれが一緒に立ち向かうから。ほら、だってさ。『仲間の危機を見過ごさぬこと』――だろ?」
「…………!」
デアレッドの双眸が、うるりと輝いた。金色の目いっぱいに涙を浮かべて。
その姿を見て確信した。
やはり怖かったのだろう。思わず逃げ出してしまうくらいに。脱走は衝動的だったのだろうが、飼い主に訴えるために戻る勇気も出なかった。
だけど本当は帰りたかったに違いない。信頼できる人のいるホームこそが、彼女にとって最も安心できる場所だったのだ。
「コケ! コケーーー!!」
ばさばさと翼を広げ、全身で喜びを表現するデアレッド。ディーノの気持ちが伝わったようである。
彼は内心ほっと息をついた。もしかしたら理解してもらえず、やぶれかぶれに飛び降りたりするんじゃないかと心配だったのだ。
なにせここは地上から遠く離れた時計台の上。万が一落ちたら、たとえ羽があろうと無事ではすまない。デアレッドは飛べないのだから。
「コケ! コケ! コケ!」
「こら、そんなに飛び跳ねたら危ないよ。嬉しいのは分かったから」
「コケ! コケ! コ――」
びゅううぅぅぅぅ。
「ッケエエェェェェ!?!?」
ディーノが広げた腕に飛び込もうと跳ねた瞬間。
横手から吹いてきた強風が、デアレッドのでっぷり太った体躯をあっという間にかっさらっていった。
「で、デアレッドー!?」
慌てて欄干に飛びつくが、時既に遅し。デアレッドは翼の力及ばず、落下を始める。
迷う暇はなかった。
『仲間の危機を見過ごさぬこと』
ディーノの頭にあったのはただ一つ。フォルスが最初に示してくれた道筋だけだった。
もしかしたら、この判断は間違っているのかもしれない。自分の命と他者の命。冷静に考えたら、いや考えなくても、どちらが大切かなんて比べるべくもない。
けれど、暗闇の中に放り込まれた彼にとって、誰かに与えられた道というのは光そのもの。
怖いのだ。
一度でも約束に背いたら、二度と〈千年氷柱〉へは帰れないのではないかと。ようやく得た仲間を失ってしまうのではないかと。
それは一種の強迫観念だ。いくら大丈夫と自分に言い聞かせても、不安はなかなか消えてくれない。
だから――。