5. 愉快な横槍
「やれやれ。やっと出したか」
内心ウツボに手を焼いていたクロムは、視界の隅で動く人形二体の姿にほっと胸を撫で下ろした。
正直なところ、人手が欲しいと思っていたところだ。
胴体があまりに長いので、頭を背後へ回されると次にどこから出てくるのか分からない。しかも篝火から離れているため闇が濃く、カンテラの明かりだけでは見逃してしまう恐れがあった。
せめて敵の注意が分散されていれば、隙もみつけやすいのに。
〈千年氷柱〉で支給されているカンテラは特注品。使用者の魔力を直接明かりに変換するという、なんだかよく分からないが高度な技術が使われている。そしてこれもなんだかよく分からないが、注ぐ魔力の量を増やすと明るさも増す便利機能を搭載。最大まで上げると眩しすぎるので使わないが。
追加された人形はメリアゴール、ルドアン。二体ともバリバリの前衛タイプ。それを同時に操るシャムスの制御能力は尋常じゃない。
マリオネットという魔術は、一体か二体、多くても三体同時操作が限界と言われる。しかし、シャムスは今、四体を同時に操っている。さらにそのうちの二体は、より神経を使う近接攻撃型。普通の使い手なら意識を失うレベルだ。
相棒の腕は信頼している。
だからクロムは、安心してさらに前へと踏み込んだ。
地鳴りのような音とともに、地面を削りながら魚の腹が迫ってくる。
上に逃げたら敵の的だ。
そう直感して足を止める。
そんな彼の横をすり抜けて高く跳躍した影は、メリアゴール。
思った通り敵の魔法の的となり、腹部で受けて吹き飛ばされる。
それには見向きもせず、クロムは薬で強化した脚力で横手に回り込んだ。
目が眩むような速さで動く景色の中、突然目の前にウツボの顔が現れる。
牙の並んだ大口を開けて待ち構える前方へ、クロムは躊躇なく飛び込む。
その口が閉じる瞬間、勢いを殺さずに上へ跳んだ。
ウツボの頭を足場代わりに、さらに跳躍。
宙へ逃れたクロムを追って、ウツボが頭をもたげる。
その時ルドアンが風のように舞い、手にした二振りの剣でウツボの頭を切り刻んだ。
血しぶきがクロムの白衣を赤く汚す。
(俺のメインは、治療術だ)
ドーピングは本来の治療術の使い方じゃない。その方法で敵に勝ったとしても、戦士本来の力ではない。それゆえ魔力強化に反映されないのではないかという考えが戦士たちの間にはあり、ドーピングは好まれるどころか忌避されている。
だがクロムは使う。禁じ手とも言える手段を。
彼は元々、他のクランに所属していた。その頃は真っ当な治療術士として、仲間の傷を癒やす毎日だった。
だが、とある出来事が原因で、10代から20代半ばまで過ごした思い入れのあるクランを離れ、〈千年氷柱〉に移籍することとなった。
その原因とは、賭けである。
クロムはかつての仲間に賭けの対象として差し出され、〈千年氷柱〉に売られたのだった。
酒の席で。
酔った勢いで。
本当に、ものすごくしょーもない理由である。後日、「やー、ごめんごめん」と笑って謝る仲間たちを問答無用で張り倒したのは言うまでもない。あの時のことを思い出すと、腹の底から怒りが湧いてくる。
しかし、彼らとは今でもたまに一緒に酒を飲む仲である。それくらい共にいた時間が長かった。もちろんギャンブルは抜きだが。
わだかまりはない。いや、少ししかない。
そんなこんなで〈千年氷柱〉の一員となったクロムは、それからというもの何度も死にそうな目に遭った。
戦士である以上、死とのお付き合いは必須事項だ。
だが迷宮では三桁の魔物に追いかけ回されることはまずないし、魔物に滅ぼされた死の都を冒険する必要もなく、間違っても本物の龍――魔物ではないが、魔物以上に危険だ――を怒らせることもない。
普通の人間なら三秒で音を上げるような死地へ、前衛戦闘員として送り込まれたクロムの心は病みかけた。
治療術士だっつっとるのに。
無理だっつっとるのに。
ドラゴン――こっちは魔物だ――を笑いながら片手で捻るような異常者と一緒にされてはたまらない。
少しでも生き残るためにドーピングは必要だった。まさに命綱だったのだ。
結果、何度も死にかけたが一応生きている。
〈千年氷柱〉で、いや、戦士として生き延びるということは、強くなるという意味である。
魔力強化。
単に筋力や魔力が上がるだけではなく、時に特殊な能力を授かることもある。
その儀式でクロムが得た力が、墨のように黒く染まった左右の腕。
彼の両腕は、触れたものを全て腐らす。木だろうと鉄だろうと、あらゆるものを脆く柔くし、崩して壊す。
それが、
「腐蝕の腕」
発動と同時に、白衣の裾が肩まで黒く染まり、ボロボロと崩れた。
その様を異様に感じたのか、女の顔が歪に引き攣る。慌てて魔法の球を生成するが、今しがたメリアゴールに食らわせたばかりだ。
クロムの狙いは、頭部か心臓。当たれば強力だが、効果範囲が極めて狭いのがこの腕の弱点だ。
外せば次からは警戒される。
だからこその、一撃必殺。
伸ばした指先が魔物女の胸に触れようとしたその時、敵の体が後方へ傾いた。
避けようとすることは十分考えられた。その上で勢いをつけた。
けれど。
「へっ?」
背中から浜に倒れ込むほどとは、予想していなかった。
一瞬にして、目の前が拓ける。
下の方では、魔物が倒れた際の地響きがした。
それだけではない。
なんと、敵は腕を使って這いながら逃げていくではないか。
その姿はまさに、必死。傍から見た滑稽さなど顧みない様子で、海水をばしゃばしゃと飛ばしながら離れていく。
クロムもシャムスも呆気にとられた。クロムなど、着地してからも口を開いていたくらいだ。シャムスが操る人形も当然ながら動かなかった。
我に返った時には、敵の体は半分ほど海の中だ。
「まずい!」
クロムは叫ぶと、躊躇なく走り出した。
目を丸くしたのはシャムスである。
「センセイ!? まさか追うのですか!?」
「当たり前だろ! 逃したら人里を襲う。あの子たちが死んじまう!」
「待ってください、センセイ! センセイっ」
制止の声を振り切り、彼は敵を追い海へと潜っていった。
泳げないシャムスは、真っ暗な夜の海に尻込みしてしまう。崖上に灯った篝火の炎さえも心許なく思え、胸の前でぎゅっと手を握りしめた。
「センセイ……」
なんて無茶なことをするのだ、と彼女の顔が物語っている。常人よりもはるかに丈夫な戦士だからと言って、危険な場所に自ら飛び込むのは明らかに悪手だ。
敵は半人半魚の魔物。海はヤツのテリトリーだ。勝ち目は薄い。倒すなら三分、いや一分を目指さなければ、いくらなんでも息が続かないだろう。
なんとか援護する方法はないか。
考えを巡らせはじめた時だ。
場違いなほど呑気で、幼い声が耳に入った。
「あれー? おねーさんはアイツを倒しに行かないのー?」
ぱっと振り返る。
崖の下に、声から連想した通りの小さな子供が立っていた。
一目見て、サルージュ島の子供が迷い込んだのかと思った。
そう感じたのは身なりのせいだろうか。
胸に晒しのような布を巻き、三角を連ねたようなシェブロンストライプで縁取りしたチョッキを羽織っている。下はスカートではなくダボダボのズボンで、素足にはやはり布を巻いただけ。
一見しただけでは、男の子か女の子か分からない。
年の頃は10歳くらい。肌はよく日に焼け、褐色に見えるほど。銀色の髪が肩の上で外側に向かって跳ねている。
最も印象的なのは、ルビーのように赤い瞳だった。やや釣り上がり気味だが、大きくて丸いからか愛嬌を感じた。
戸惑いながらも、シャムスは極力優しい声をかける。
「あなたは村の子? こんなところで何をしているのですか? 危ないから、家に――」
「あー、いいよいいよ。そんな決まり文句。ボクはサルージュの子じゃないし、すごく強いから危なくなんてないのさーっ」
と言って、ばちーんと大胆なウインクを決める。
シャムスがついていけずに目を瞬かせると、子供はつまらなそうに頬を膨らませた。
「ぶー。せっかく可愛こぶったのに、反応がないとつまんないよー」
「も、申し訳ありません。いまいち状況が飲み込めず……」
「――くすっ。真面目だね?」
ブラブラさせていた腕をぴたりと止め、目を細めて笑う。すると子供っぽさが薄れ、どことなく老獪な雰囲気を帯びた。
シャムスは、指先がかじかんでいることに気づいた。サルージュ島は暖かく、夜でも寒さに震えることはない。しかも今は初夏。時折吹く風が心地よいくらいだ。
だと言うのに、凍えるような冷たさが指の先から侵食してくる。
これは一体どうしたことか。
驚いて固まっていると、人の心を見透かすような声で子供が語りかけてくる。
「おねーさん、今はこんなことしてる場合じゃないのにって思ってるね。あのおにーさんを助けなきゃいけないもんね。おにーさんが海に飛び込んで、もう何分経ったかなぁ? 一分? いや五分? もしかしたら一時間かもしれないよ。ふふふ。決着はついたかな? どっちが勝ったかな? 負けたかな?」
「何を言って……」
一分も経っているはずがない。クロムはついさっきイビル・メロウを追っていったばかりなのだ。せいぜい四十秒か五十秒――。
「あ、れ……?」
つい、さっき?
本当にそうだっただろうか。自分が一人で残された時間は、もっと長くはなかっただろうか。
三十分は過ぎているような気がする。いや、この子が言っているように一時間かも?
足元が震えてきた。薄氷の上に立っているような恐ろしさが、ゾワゾワと這い上がってくる。
幾度となく死線をくぐり抜けた自分でも、死は怖い。
(死? わたくしは何を考えているのです? 危ないのはセンセイの方であって、わたくしの目の前には……)
そこまで考えて、はたと目の前の少女に目を留めた。
少女は薄ら笑いを浮かべ、シャムスを観察していた。
その異質な気配。
なぜ今まで気づかなかったのだろう。
これは、ただの村人なんかではない。
「あなたは何者です?」
険しい顔つきで問い質す。指先から思念の糸を放ち、いつでも人形を呼び寄せられるよう構えた。
そんな彼女の警戒を嘲笑うような軽さで、少女は答える。
「名乗るほどの者じゃないよ。ただ、そうだなぁ。魔神教の敬虔な教徒――とだけ言っておこうか」