2. ひとときの休息
夜になった。正確な時間は分からないが、蝋燭の明かりだけでは心許ないほどの暗さだ。一応月明かりはあるが、あまり頼りにならない点では蝋燭とそんなに大差ない。室内ではなおさらだ。
浜辺で村長と別れた後、クロムとシャムスはしばらく海を観察してみた。魔物は海からやってくるからだ。
けれど、結局その時は何の兆候も見つけることができなかった。
別口で見張りを立てていることもあり、二人は充てがわれた部屋に入った。もちろん別部屋だ。で、もう一度合流して軽く夕食を摂った後、再度浜を見回ってからそれぞれの部屋に戻ってきた。
今までに魔物が現れたのは、島を出る船が襲われた時を除けば、全て夜が更けてからのことらしい。だから動きがあるなら暗くなってからだろうと、クロムはその時が来るまで仮眠を取ることにした。
ベッドはあるが、そっちは使わない。床の方が落ち着く、というわけではない。単に、ベッドで寝たら朝まで起きないかもしれないことを恐れたからだ。クロムは心配症だった。
そして数十分の眠りにつき、ふと目が覚めると。
窓から差し込む月明かり。
浮かび上がる女の姿は幻想的で美しく――。
「あ、あ、あの、しゃしゃしゃシャムスさん?」
「なんでございましょう、センセイ?」
「なんでございましょう? じゃなくてですねっ? なんで、その、あの、その?」
要領を得ないクロムの問いかけに、シャムスはこてんと首を傾げる。まるで純粋な箱入り娘のような仕草と表情だが、その姿勢がありえなかった。
横になったクロムの上に寝そべり、分厚い胸板に頬杖を突いている。二つの柔らかいものがみぞおちに押し当てられ、不覚にも大胸筋がピクピクと痙攣した。
シャムスのベルトに吊り下げられた木彫りの小物がぶつかり、カランと乾いた音を立てた。
彼女は可笑しそうにクスッと息を漏らし、妖艶な眼差しでクロムを見下ろした。
「夜這いをかけに来たに決まっているではございませんか。それ以外の何に見えましょう?」
「ぎゃー!!」
どん!
起き上がると同時にシャムスの体を突き飛ばし、クロムは部屋の隅っこで頭から白衣を被ってガクブルと震えはじめた。
「ごめんなさいごめんなさいもうしません許してもう二度と金輪際天地神明に誓ってしませんからあ、あああ」
最後はもはや言葉にもならず、ただただ呻くだけのものと化してしまった。
突き飛ばされ尻餅をついたシャムスは、唇に指先を当て「ふむ」と考える。
「予想外の反応です。大丈夫ですか?」
「全然大丈夫じゃないわいっ」
白衣を被ったまま、鬼気迫る表情でぐわっと後ろを振り返る。実際、彼の目には鬼が映っていた。幻だが。
「あのな、シャレにならないから! 奥さんいるって言っただろ! 死ぬよ!? 俺が!」
「死にますか」
「殺されるの!」
「それは大変でございますね」
全くそうは思っていない顔で相槌を打つシャムス。
ふむふむふむと三度頷いたところで、淡緑の涼し気な視線がぴたりとクロムの顔に留まった。
「ところでセンセイ。先ほどの『もうしない』とは?」
「…………」
つつー、と。
クロムはさり気なく顔をそらす。その顔には「マズイ」と書いていた。
「ま、まあ、そんなことはいいじゃないですか。とにかく、奥さんに知られたらヤバげなことはやめてください」
「はい。もういたしません。お騒がせして申し訳ございませんでした」
そう言ってぺこりと頭を下げる。なのにクロムは疑わしげだ。
「本当に……?」
「本当でございますよ」
「な、ならよかった」
白衣の隙間からシャムスを窺っていたクロムは、ほっと安堵の息をついた。が、すぐにまた警戒の色が走る。
「ちょっと待って。あの、今の奥さんには内緒に」
「承知いたしました。わたくしとセンセイの秘密でございますね」
「その言い方やめてください」
真顔で言い切るところが切実さを物語っている。
シャムスはからかうのをやめ、その場に姿勢を正した。
「では、本題を」
「本題?」
「ええ。さすがのわたくしも、センセイをからかうためだけに夜這いをかけたりしませんよ」
本当かなぁ、とクロムの目は一層胡乱さを帯びたが、とりあえず正座して聞くことにした。
「まず、海の魔物について――呼称がないのは不便ですね。実態が分からないので仕方ないですが。『目』には今のところ何の反応もありません。ですがまだ夜は始まったばかりですので、今夜中に襲撃がある可能性は十分あります。引き続き見張りを続けます」
「うん。で、二つ目は?」
「はい。先ほど、わたくしの部屋にコトリがやって参りました。『目』をかいくぐって」
「コトリが?」
クロムの目が一瞬見開く。
「シャムスの見張りを突破って、どうやって……って、愚問か。あいつなら鍵のかかった宝物庫だって容易に出入りしそうだ」
全身を黒マントで覆い隠した神出鬼没な仲間の姿を思い浮かべ、クロムは乾いた笑いを漏らす。
彼もしくは彼女は、クロムが入団した七年前よりも前から〈千年氷柱〉に在籍している。魔物討伐はせず、もっぱら単独で伝令役のみという異色の団員である。その踏破力は尋常ではなく、山だろうが川だろうが障害にならない。聞いた話によると戦場のど真ん中を通ってきたこともあるらしく、小柄な体格から子供だろうと見当をつけていたクロムは驚くばかりだった。
一言も声を発さず、余計な身振りは何一つなく。
個性的なメンバーの多い〈千年氷柱〉の中で、最も謎の多い人物と言っていいだろう。
「用はマスターから? なんか急な仕事?」
シャムスはがさごそと紙片を取り出し、覗き込みながら、
「そんなところですね。メンバーが一人増えたみたいですよ。『歓迎パーティするから帰りに赤月オーロックス三頭狩ってきて』……だ、そうです」
「狩ってきて!? 買ってきてじゃなく?」
「はい。間違いありません」
クロムは思わず額を押さえた。
赤月オーロックスは赤月岬に生息する野生の牛で、大海の荒波に文字通り揉まれた屈強な生き物だ。ネジのような二本の角を持ち、大きさは熊に近い。図鑑によれば、全力の突進は硬い岸壁すらも打ち砕くほど強烈らしい。毛皮は分厚く、弓矢は通らない。並の狩人では太刀打ちできない強敵だ。
どこぞの国では、かつて赤月オーロックスを調教して兵馬ならぬ兵牛にしようと試みたそうである。どこぞと言うか、この国のことだが。過程は語るのも面倒なので端的に結果だけ述べると、失敗した。
それを三頭。
まるごと一頭を市場で買うとなれば二百万ダランは下らない。もちろん、そんな大金は現在持ち合わせていない。拠点の金庫にならあるだろうけれども。そもそも市場に出回ることが少なく、「買え」ではなく「狩れ」というのもある意味頷ける話である。
しかし、だがしかし。
クロムは声を大にして言いたかった。
馬鹿じゃないの、と。
「赤月オーロックスってあれでしょ。発見当初、牛か魔物かで学者の意見が分かれたっていう。狩るには狩人じゃなくて熟練の戦士が必要だっていう。無理無理、俺無理」
「肉は極上だそうですよ」
「仕方ない。なら狩ろう」
ぴしゃりと膝を打ち、クロムはあっさりと了承した。旨い肉の前に否やはないのである。
「そんで、新しい仲間って?」
「素人の少年だそうですよ。15歳ですって」
「若っ! また十代かー。しかも半年足らずで二人加入って。一体ウチに何が起きてるんだ……?」
「まだまだ戦い方を知らないので、アイーダさんが教育するそうです」
驚きながらも喜んでいたクロムは、途端に何とも言えない顔になった。
「…………。大丈夫かな。その子」
「……死にはしないかと」
そこはハッキリ大丈夫と言ってほしかった。
「アイーダは加減を知らないからなぁ。というか、加減の上限が高すぎなんだよな」
「育ての親があの方ですからね」
「ううむ。親が親がなら、ってやつか」
なぜかぶるりと悪寒が走ったので、この話はおしまいとなった。
さて、とシャムスが改めて姿勢を正す。彼女の姿勢はいつも完璧だが、意識を切り替えた瞬間は更に美しく映える。
「用件は以上です。コトリの方は討伐を終えてからでも良かったのですが、暇でしたしついでに――」
「どうした?」
「お静かに」
不意に言葉を切ったシャムスに問うと、彼女は人差し指を口に立てて警告を放った。
彼が黙ったのを確認すると、目を瞑って何かに意識を傾ける。クロムも聴覚に集中してみたが、聞こえるのは風とさざ波の音ばかり。島民たちは寝ているのか、それとも息を潜めてじっとしているのか、話し声などは一切しない。
やがてシャムスはうっすらと目を開き、艷やかな唇でにこりと微笑んだ。
「センセイ。診察の時間でございます」
その言葉で、目的を果たす時がやってきたのだと分かった。