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秋の涼風が、背筋を撫でて流れていった。
もう九月も終わり、秋の足音が近づいている。
この一ヶ月、慎吾は死んでいた。
あのあと、どう動き、そしてなにを思ったり考えたりしたのかまるで覚えていない。おぼろげな記憶を掘り起こしてみても、断片的に、ずぶ濡れになりながら茶の間に飛び込んでお母さんに泣きついたこと、風邪がぶり返して三日三晩うなされていたこと、警察の人たちに色々と聞かれてそれに答えられなかったこと、そして気づいたら奈緒子のお母さんがこの町から姿を消していたこと、などといったことが色のない映像とともに浮かび上がるだけだった。
でも、まだ右手には奈緒子の柔らかい左腕の感触が残っている――
――奈緒子が、死んだ。
それだけが揺るぎない事実で、それからずっと、慎吾は死んでいた。
開けはなした窓から赤とんぼが一匹はいってきて、教室がにわかに色めき立った。次郎が騒ぎ、太一が赤とんぼを追いかけ、紀子や清実が笑い、みんながはしゃいでいた。そして教室を悠然と飛び回る赤とんぼは、導かれるようにワチコのうしろの席に舞い降りた。
そこに、奈緒子の姿はない。
主人を失った席でくつろぐ赤とんぼを、太一が捕まえ、窓から逃がした。
「騒ぎすぎなんだよ、みんな」
うしろの席の純平が、教室の騒ぎを小バカにして、ため息を吐いた。
みんなにとって、もう奈緒子は、遠い記憶の底に沈んだ存在に過ぎないのかもしれない。
秋の涼風が、また背筋を撫でて流れていった。
◆◆◆
帰り道、慎吾は独りぼっちだった。
うろこ雲に覆われた茜空の下で、たくさんの赤とんぼが飛んでいた。
結局、奈緒子に返せなかったタオルは、引き出しの奥のほうにしまっていて、それだけが、慎吾にとっての奈緒子のかけらだった。
あれからずっと、それを毎晩のように眺めながら、慎吾は奈緒子の言った「ありがとう」の意味を考えていた。
だけどその意味は、ずっと分からないままだった。
「チャー!」
振り向くと、そこに直人がいた。
「直人……」
直人は、なにを言っていいのか分からないという戸惑いの表情を浮かべていた。
「……一緒に帰ろうぜ」
「うん」
直人が横にならび、慎吾はなにも言わなかった。
「……寒くなってきたな」
「うん」
「チャーは太ってるから、あんまり寒くないんじゃないか?」
「うん」
「ちょっと前まで暑かったのに、時間って、早いよなあ」
「うん」
「病院さ、取り壊されるらしいぜ」
「うん」
「……おれさ、泣けないんだよな」
「うん」
「いきなりだったからさ、まだ信じられないっていうか……」
「うん」
何も言えないし、何も言いたくなかったから、何も言わなかった。
直人にもワチコにも、あの日の夜のことは話していない。
直人とワチコは、三十一日に廃病院へ行って、封鎖されている鉄扉の前に立つ警察官にそのことを聞いたという。
慎吾が布団にくるまって涙の海で溺れていた時分だ。
「なんでなんだろうな……なんでなんだろう?」
直人の独り言が、秋風に流れてゆく。
奈緒子の死の理由を知っている者は、どれくらいいるのだろう?
慎吾にも、本当のところは分からなかった。
たそがれ坂をくだっていると、奈緒子のことをどうしても思い出してしまう。
直人の言葉も、耳に届かない。
「あ」
神社の石段から、不意にワチコが現れた。
「よお」
直人がウソみたいな笑みを浮かべて、ワチコに言う。
「お前、まだ名前なんか見てるのかよ?」
「今日は久しぶりだよ」
「だれかの名前あった?」
「ねえよ」
ワチコが加わり、横並びにたそがれ坂を下った。
あと一人、足りない。
それが、とても淋しかった。
「そういえばさ、失恋大樹にチャーの名前を書いたのって、だれだったんだろうな」
「直人、結局、分からなかったのかよ」
「うん、ごめん。ぜんぜん分からなかった。もっと必死に考えてれば」
直人がハッと口をつぐんだ。
きっと、「もっと必死に考えていれば、奈緒子は死ななかったかもしれない」と言おうとしたのだ。
慎吾にとっての最大の不幸が、奈緒子が死んでしまうことだったなんて考えたくなかった。
「関係ないよ、あんな樹」
そう、関係ないのだ。
奈緒子が死んだのは三十日で、三十一日ではないのだから。
直人もワチコもそのまま押し黙ってしまった。
無言のうちにたそがれ坂を下る三人。
坂を下りきると、町を電子音の『夕焼け小焼け』が包み込んだ。
思い出す、奈緒子の涙を。
気づくと、慎吾は振り向いて『たそがれ坂』を見上げていた。
そこに――
――そこに、白いワンピースを風に揺らめかせた少女が佇んでいた。
ここからは顔がよく見えない。
だが慎吾には分かっていた。
あれは、奈緒子だ。
気づくと、涸れたはずの涙があふれ出していた。
直人も。
ワチコも。
みんな、坂を見上げながら泣いていた。
『夕焼け小焼け』が鳴り止み、辺りがウソのように静まりかえった。
三人の鼻をすする音だけが聞こえる。
もう、坂の上に奈緒子の姿はなかった。
「ねえ」
確かめたかった。
二人も奈緒子を見たのかどうか。
だけど、言えない。
それを言ったら、奈緒子との思い出が消えてしまう。
おなじ思いを胸に秘めるように、二人が慎吾を涙目で見つめていた。
「……ねえ、地を這うヘビと糸を生むクモ、どっちが好き?」
「……おれは、ヘビかな」
「……あたしはクモ」
「……ぼくは、どっちも嫌い」
言って、慎吾は笑った。
直人も。
ワチコも。
どこからか、透きとおるような優しい笑い声が聞こえたような気がした。
いまも「ありがとう」の本当の意味は分からない。
だけど、と慎吾は思っていた。
だけど、この町に『バラバラ女』を溶かそう、と慎吾は思っていた。
奈緒子を、忘れないために。




