エピローグ
エピローグ
沢田紀子の言葉の意味がよく分からず、
「誰だっけ?」
と、私は、自分でも驚くほど上擦る声で聞き返した。
「ほら、チャーよ、覚えてない?」
「ああ、うん、なんとなく。でもなんでまた?」
「分からない。犯人はまだ捕まってないみたい」
それ以上のことを、受話器の向こうの沢田紀子は知らない様子だった。
電話を切った私は、ひどい悪寒を感じていた。
娘がいなくなって二日目。きっと家出だろうと娘の級友を当たってみたのだが、ことごとく空振りで、ようやくなんらかの事故に巻き込まれたのではないかと胸に言いようのない不安が芽生えはじめていた。
それに加えて、今朝起きると妻の姿までもが消えていた。
買い物にでも出かけたのだろうと思い、大して気にもせず、娘の所在を確かめるために方々へと電話を掛けたなかに、沢田紀子の家があった。
それまで知らなかったのだが、紀子の息子が、私の娘と同級生らしかった。
そして、
「あのバラバラ死体の身許が、どうやら宮瀨慎吾らしい」
と、聞かされたのだ。
最初は、誰のことを言っているのか分からなかった。紀子の話を聞いているうちに、小学生まで一緒だった同窓生だということを思い出したが、その頃から特に親しかったわけでもなく、ましてや中学からべつの学校に通いだした私にとって、宮瀨慎吾はおぼろげな記憶の片隅に追いやられた、どうでもよい存在であった。
紀子が言うには、宮瀨慎吾は高校を卒業すると、すぐに世界へと飛び出し、長い放浪生活を経て帰国し、六年前ほど前から彫刻家として世間に知れ渡っていったという。
あの公園の、『蛇、或いは純潔の少女』という作品も、彼のものらしかった。
その宮瀨慎吾がなぜ、殺されたのか?
それもバラバラに切断され、頭部だけがまだ見つかっていないらしい。
不意に脳裡をあの血だらけのワンピースを着た女が過ぎった。
それが、娘の言っていた『バラバラ女』という、昔からある都市伝説のバケモノなどではないことはハッキリとしている。
私は、あのハナシが嘘であるということを知っているからだ。
あれは、小学六年生の時にクラスに転入してきた、山下奈緒子という少女と件の宮瀨慎吾が仕掛けたイタズラであったことを私は知っている。
その年の夏休みが終わろうかという頃、その少女は死んだ。
事故なのか、事件なのか、それとも自殺なのか、その当時、子どもだった私が、その理由を知る術はなかった。
山下奈緒子が死んだとき、私はひどく哀しかった。
そうなるはずではなかった。
死んでほしかったのは、そう――
――宮瀨慎吾だった。
……段々と、記憶が蘇ってくる。山下奈緒子が転入してきたその日、黒板を背にして挨拶をしたその少女に、私は一瞬にして心を奪われていた。それまで密かに想いを寄せていた紀子の存在を一瞬のうちに忘れてしまうほどに。それからというもの、勉強に集中しようと思うたび、脳裡に山下奈緒子の顔がチラつき、私は焦っていた。集中しなければ、努力しなければ、私のように頭のあまり良くない人間は成績を上げられないというのに、どう足掻いても、いや、足掻けば足掻くほど、山下奈緒子の存在が日増しに私の心をがんじがらめにしていった。話しかけることも出来ず、まんじりともせず奈緒子を盗み見する日々が続いているうちに、なぜかは分からなかったが、急に宮瀨慎吾が彼女と親しげに話すようになっていた。それを憎々しげに思いながら夏休みに入り、私は山下奈緒子と距離を置けることに、ホッと胸をなで下ろしていた。しかしそう思ったのもつかの間、紀子が塾で「宮瀨慎吾と山下奈緒子、それに林直人と高島佐智子が一緒になって遊んでいた」と、楽しそうに話しているのが耳に入った。ようやく勉強だけに集中できると思っていた私を、ふたたびあの少女の面影が締めつけていった。それから成績が思うように上がらなかった私は、皆が帰ったあとも夜遅くまで残り、山下奈緒子の甘やかな幻影を振り払いながら、がむしゃらに勉強する日々に身を窶していた。精神も肉体もボロボロになりながら夜道を独りで帰り、その時、私は赤いワンピースを着た山下奈緒子に遭遇したのだった。正直、あの時は一瞬、久しぶりに見た山下奈緒子に心が舞い上がっていたのを否定できない。それでも、私は努めて冷静に山下奈緒子と宮瀨慎吾を責めていた。責めながら、本当は私もその輪の中に入りたいと思っていた。しかしそんなことを言えるはずもなく、そして私は宮瀨慎吾に憎しみを抱き始めたのだった。それからしばらくはまた山下奈緒子のことも忘れて、「縁日に行こう」という誘いも断って勉強に励んでいた。宮瀨慎吾への憎しみが爆発したのは、縁日の翌日だった。紀子が嬉々として話す前日の話の中で、「宮瀨慎吾と山下奈緒子が一緒に来ていた」という耳を疑うものがあった。私は、私にはそれがどうしても許せなかった。今になって思えば、それはただの嫉妬だったのだろう。しかしそれを聞いたその時の私は、自分でも抑えきれないほどの憎しみを宮瀨慎吾に抱いていた。その日も夜遅くまで塾に残っていた私は、塾を出るとその足で神社へと向かっていた。たそがれ坂を下り、暗闇の衣をまとう神社を苔むした石段の下から見上げた私は、昨日、この神社に、この町の幸福がすべて集まっていたのであろうという哀しい思いに身をよじらせた。私は黒いものを胸の裡に秘めてゆっくりと階段を上り、そして参道を進み、『失恋大樹』の前に立った。まだ、縁日の残り香が漂っていた。ぬかるむ黒土の上に転がる五寸釘を拾った私は、《宮瀨慎吾》の名を彫ろうとして、はたと、そこに《林直人》といういびつな文字が刻まれていることに気づいた。「バカだな」と、私は独りごちていた。誰が彫ったのかは分からなかったが、この犯人はきっとこの『失恋大樹』が本物の呪いの樹であるということを知らないのだ。私はここへ名前を彫るのが二度目だった。前に彫ったのは、瀬戸正次という、紀子が惚れていたであろう男子であった。小五の初め、それまで私と紀子しか通っていなかった塾に、とつぜん瀬戸正次が通いだした。急速に仲良くなる紀子と瀬戸正次に黒い感情を抱いた私は、六年生に上がってすぐの頃、その気持ちを紛らわせるために冗談半分でここへその名前を彫り込んだ。それから十五日を経て、瀬戸正次は学校へ来なくなった。私はすぐ、彼になんらかの罰が下ったのだと確信していた。そしてそのことを誰にも言わずに、瀬戸正次が来なくなってうち沈むクラスメイトを、ほくそ笑んで眺めていたのだ。偶然かもしれない。しかし、私はそれを信じた。そして宮瀨慎吾にも同じ、いや、瀬戸正次よりも酷い罰が下るように願いながら、その名を、《林直人》の名前の横へと彫り込んだ。それから私はその日が来るのを指折り数えて待った。ミオカさんという変質者が捕まったと聞いて、私は瀬戸正次がどのような目にあったのか推察し、宮瀨慎吾にはどのような罰が下るのかと思い、胸が躍り、眠れぬ日もあった。そして、山下奈緒子が、死んだ。私には何が起こったのか分からなかった。宮瀨慎吾を地獄へ落とすための所業が、山下奈緒子の命を奪う結果に終わるとは夢にも思わなかった。それが宮瀨慎吾の最大の不幸で、それは私にとっても同様であった。山下奈緒子の死の理由は分からなかった。私は、軽はずみに宮瀨慎吾の名前を『失恋大樹』に彫り込んだ罪に長いあいだ心を苛まれていた。それを必死に抑えながら、私は教科書だけに向き合い、見事に難関私立の北科中学校に合格した。入学式の日、私は横に座る、隣町からやって来たという少女に山下奈緒子の面影を見た。一目惚れだった。すぐに山下奈緒子の影がぼやけ始め、一年を過ぎる頃には、山下奈緒子はたまに思い出すだけの存在になっていた。それから高校へ進み、また私はべつの恋をし、大学生、社会人になって幾度も恋をした。山下奈緒子の影はすっかり消え失せ、幾度目かに愛した女と、私は結婚した。娘が生まれ、ささやかながらも幸せな日々を過ごし、このまま私はその幸せの中でこの町で死んでいくのだと思っていた………
…………気づくと、夜になっていた。
山下奈緒子のことを思い出していて、いつの間にかリビングのソファでうたた寝をしていたらしい。
重い頭を起こし、暗いリビングを見渡したが、まだ妻は帰ってきてないようだった。
おかしい。
娘を捜しているのだろうか?
私は妻と娘を捜すために、懐中電灯を片手に家を出た。
◆◆◆
静まりかえる商店街。
そこに妻と娘の姿はない。
そこからさらに先へ進み、ビル街へと出た。
大きな国道を、右へ左へ車が走り抜けてゆく。
公園に行ってみよう。
そう思い歩いていると、ふとあの血塗れのワンピースの女が佇んでいた、ビルとビルの暗い隙間が視界の隅に入り、私は足を止めた。
まさか、あの女が妻と娘を……?
私はすぐにそのバカバカしい考えを頭から振り払い、ふたたび歩き出そうとした。
カサカサ……
暗い隙間の奥から、音が聞こえたような気がした。
「ハ、ハハ、そんなバカな」
独りごち、頭の中に渦巻く不安を払拭させるために、私はその中へ足を踏み入れた。
どこまで続くのかも分からない闇を、恐怖に怯えながら懐中電灯の小さい灯りだけを頼りに奥へと進むと、そこに、ナニカがいくつも転がっていた。
その一つ一つに光を当ててみると、手や足といったようなものだった。
大人と思われるものと、まだ成長しきっていない子どもの短い四肢だった。
それらが無雑作に転がっている。
「マ、マネキンかな?」
不安から口を吐いて出た言葉が、暗闇に谺する。
カサカサ……
また、あの音だ。
音のした方、奥にある段ボールに乗った黒い二つの影に光を向けた私は、現れた光景に、しばし唖然として声を失っていた。
そこにあったのは、妻、そして娘の――
――生首だった。
ナニカに驚いたような表情を作り、ぢっと夜空を見上げる二人の生首。顎が外れるほどに開いたどす黒い口内から、夥しい量の蜘蛛が這い出していた。
恐怖に戦いた私は、震える足をなにかヌルリとしたものにすくわれて地べたに尻もちをついた。
地面についた手を見ると、赤黒い血が、ベッタリと……
「あ、ああああああ!」
声にもならない声を上げながら這いすすんだ私は、妻と娘の生首を胸に抱いて、血の池の中で涙と鼻水に溺れた。
誰が?
なぜ?
答えなど出るはずもなく、私は泣き続けていた。
ふと鼻を、甘やかな薔薇の香りがくすぐった。
背後に何者かの気配を感じても、涙は止まらなかった。
――きっと、バラバラ女だ。
――きっと、愛する人の生首を胸に抱えている。
――きっと、その生首は幸せそうに笑っている。
鼻のホクロを濡らす汗や涙を拭うこともせず、
私は慟哭し続けた。
了




