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「ただいま」
家のドアを開けて、ワチコが言う。
中から返事はなかった。
「だれもいないみたいだな。まあ、入ってよ」
促され中に上がると、予想どおりの普通の家だった。
直人が、靴箱の上に置かれたロボットのプラモデルを見て、
「へえ、ワチコってこういう趣味もあるんだな」
と、早速からかう。
「バカ、コレはお兄ちゃんのだよ」
「ワチコってお兄ちゃんいたんだ」
「いるよ。六コ上だから、お前らは見たことないだろうけど」
少しイヤそうに言い、ワチコが三人に手招きをして、階段を上がっていく。
「あたしの部屋ここだから、中に入って待ってて。なんか飲み物とか持ってくる」
部屋は、普段のワチコからは想像できない、メルヘンチックな雰囲気だった。寝心地の良さそうなフカフカのベッドのシーツはピンク色で、掛け布団や枕もおなじ色だった。床には花柄のカーペットが敷かれ、出窓の棚には、たくさんの動物のぬいぐるみが飾られている。
その中に片目のとれたクマのぬいぐるみがあり、
「おい、ワチコってば、クマ大事にしてないじゃん」
と、直人が眉間にシワを寄せた。
「でもさ、あのクマの目って、最初っから取れかけてたよ」
「そうだっけ? くそ、あのオジサン不良品を渡したのか。ムカつく!」
怒る直人のうしろに立つ奈緒子は、壁際に据えられた本棚を興味深げに眺めていた。
「ワチコって本とか読むんだね」
「うん。UFOとか妖怪の本が多いけど」
「あ、ホントだ」
「そこだけワチコらしいな」
直人の軽口に顔を綻ばせた奈緒子が、疲れたようにカーペットに座り込んだ。
重たそうに肩に提げていたボストンバッグが、元気を奪ったのかもしれない。
「お待たせ」
ワチコが、大きな丸盆を持って部屋に戻ってきた。その上にオシャレな白いティーカップが四つ並び、ハート型のクッキーがガラス皿に乗せられていた。中央のティーポットの口からは湯気がゆらゆらと立ち上っている。
「あ、美味しい」
出されたクッキーをひとかじりした奈緒子が目を丸くし、それに触発された慎吾と直人もそれを食べてみた。
バニラの優しい香りと丁度いい甘さが、口内に広がっていく。
「ホントだ、美味しい!」
二個目のクッキーを取りながら感心する慎吾に、
「当たり前だろ、あたしが作ったんだからな」
とワチコが鼻を鳴らし、紅茶を注いだカップを、手際よく三人の前に置いていった。
「これワチコが作ったの? お前、こういうシュミがあったんだな」
「ハッハッハ、あたしをナメてただろ?」
「でもホント意外だね、クッキーと紅茶が出てくるとは思わなかったよ」
「部屋も意外だよね。ワチコちゃんの部屋とは思えない」
「お母さんのシュミなんだ、あたしはイヤなんだけど。だからこれだけがあたしの救いだよ」
ワチコが、本棚の下段からクモの入った瓶を取りだして、射し込む陽の光にかざした。
「だけどさ、もう死んじゃったよ」
瓶底に、干からびたクモが転がっていた。
「エサ、ちゃんとあげてたのかよ?」
「あげてたよ。でもさ、虫ってすぐ死んじゃうじゃん」
「なんでみんな、とつぜん死んじゃうんだろうね」
不意に奈緒子が沈んだ声で呟いた。
「バッカだなあ、奈緒子。ずっと生きてたって、暇なだけだぜ」
「死んじゃうよりマシじゃん。死んでほしくない人とか、直人君にはいないわけ?」
「そんなの考えたことねえよ」
「それは恵まれてるからだよ、絶対」
直人に思いのほか突っかかる奈緒子に、ワチコがそっと耳打ちをした。
「……ホントに大丈夫なの? 無理ならいいよ」
「大丈夫だよ。誰もいないし」
「ごめん、ありがとう」
「じゃあ、だれか帰ってきちゃう前に入っちゃってよ」
「うん」
「なになに?」
好奇に目を光らせた直人をなぜか睨みつけたワチコが、
「お前らはここで待ってろよ」
と言い、ボストンバッグを抱えた奈緒子を連れ立って、部屋を出ていった。
「どうしたんだろうね?」
「風呂だろどうせ。カバンを持ってったしな」
「あ、うん、そっか」
残された二人は、とくになにもすることがなく、直人が手持ち無沙汰に、本棚に収まっていた『花言葉辞典』という文庫本を取りだした。
「ワチコってこういうのも読むんだな」
「意外すぎるね」
「えーっと……あった、バラの花言葉」
「なんて書いてあるの?」
「赤いバラは《愛、情熱、あなたを愛します》だってさ」
「ふうん、色で変わるの?」
「白は《尊敬、純潔》とかで、ピンクは《美しい少女》とかだって」
「へえ、面白いね」
「あ、ちょっと待って、これ面白いぜ。赤黒いバラは、なんだと思う?」
「さ、さあ……」
「正解は《死ぬまで憎みます、化けて出ます》だってさ。バカじゃん、それって結局、死んでも憎んでることになるよな」
笑う直人を見ても、慎吾はそれを笑えなかった。
関係ないのに、どうしてもバラと奈緒子を結びつけてしまう。
飽きた直人はそれを本棚に戻し、次に『UFOの全て』という本を取りだして、パラパラとめくった。
「……なあ、奈緒子ってさ、最近、なんかちょっとおかしくない?」
「な、なんで?」
「だってさ、危ないって言ってるのに《バラバラ女のイタズラ》をずっと続けようとするし、それに昨日から家出もしてるみたいだし、ワチコの家で風呂に入ったりしてるんだぜ」
「やっぱり家には帰らせたほうがいいのかな?」
「それはいいんだよ、どうせ今日までだろ、家出は。でもなんていうかさ、必死で思い出を作ろうとしてるっていう感じがするんだよなあ」
「……そうかもね」
「やっぱり、家のことで悩んでたりするのかもな」
「直人、ぼくたちはそのことを気にしないって約束したじゃないか」
「おれたちの約束じゃなくてさ、奈緒子の気持ちだよ」
本から目を上げた直人は、いつになくマジメな顔をしていた。
「奈緒子のこと、やっぱり心配?」
「そりゃあ、心配だよ。だって友だちだからな。それなのにさ、奈緒子はチャーにだけホントは心を開いてるんじゃないかって思って、それが、なんかね……」
そういうふうに直人は感じていたのか。
そんなことはないはずだけれど、本当のところは分からない。
「で、でも奈緒子さ、あの縁日の帰りに、『直人君は沢田さんのこと好きなのかな?』って気にしてたよ。もしかしたら直人のことが好きなのかも」
心の中の引き出しにしまっていた黒いわだかまりが、つい、口をついて出てしまった。
「……チャーさ、お前それ本気で言ってんの? そんなことチャーが言ってたって奈緒子が知ったら、ガッカリすると思うよ」
「な、なんでさ?」
「おれは直人君で、ワチコはワチコちゃん、だけどチャーは、チャーだろ」
「言ってる意味が分からないよ」
「べつにいいよ、分からないなら」
戸惑う慎吾を笑った直人が、ふたたび本に目を落とした。
直人の言った意味が分からずに、ボウッと出窓に飾られたぬいぐるみを見ていると、急に背筋がヒヤリとして、クシャミが出た。
風邪がぶり返しているのかもしれない。
きっと、何日も奈緒子の夜遊びに付き合っていたせいだ。
それから何度かクシャミを繰り返し、その顔を直人に笑われていると、奈緒子たちが戻ってきた。
まだ濡れ髪の奈緒子が、妙に艶めかしかった。
「ああ、スッキリした。やっぱりお風呂は入らなきゃダメだね」
「でもナオちゃんさ、今日も病院に泊まる気なんだろ?」
「うん。やっぱりさ、都市伝説のバケモノを一度は見ておきたいじゃん」
バスタオルで髪をふきながら言った奈緒子が、ドライヤーをワチコから借りて髪を乾かし始める。その風に乗って鼻をくすぐるシャンプーの香りが、慎吾の胸を早く打った。
「なあ、ワチコの家って、ぜんぜん面白くないからどっか行こうぜ」
「ちょっと待てよ直人、それあたしの本だろ。勝手に見るんじゃねえよ」
「だって暇だったし」
悪びれる様子もない直人が本をしまい、大アクビをして涙目で慎吾を見た。
「なあ、チャーさ、ホントにもう、どこも知らないのか?」
「う、うん、ごめん」
髪を乾かしきった奈緒子がドライヤーを切り、
「わたしさ、まだゴハン食べてないからどこかに買いに行こうよ」
と、腹をさすりながら笑った。




