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バラバラ女  作者: ノコギリマン
バラバラ女
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 八月二十九日。


 夜の(とばり)がすっかり降りた薄暗い細道を歩きながら、慎吾は、「夜に部屋を抜け出すのは何度目だろう?」と、胸の裡で独りごちた。

 幸いにもまだ一度もバレていない。

 その奇跡的な状況だけが不思議だった。

 床に就くフリをして部屋を抜け出したことが、もう遠い記憶の底に沈みかけている。


 廃病院に着いて、持参した懐中電灯の心許(こころもと)ない灯りだけを頼りに207号室に向かうと、


「だから、遅いって」


 と、先に来ていた奈緒子にまた遅刻を叱られた。


「ごめん。ちょっとお父さんとしゃべってたから」

「なにをしゃべるわけ? 将来のこととか?」

「そんなの、まだ早いよ」

「早くないでしょ。来年からもう中学生だよ。ちゃんと考えないと」

「そ、それよりさ、今日はなにするの? 早く帰ろうよ、怖いし」

「分かった」


 不釣り合いに大きなボストンバッグを肩に提げた奈緒子は、慎吾にひとつ手招きをして、そのまま屋上へと向かった。


「ここでなにするの?」

「いいからいいから」


 昨日の昼間に見たバケツに歩み寄った奈緒子が、ボストンバッグを重たそうにして下ろし、その中からペットボトルを取りだして、中の水をバケツに注いだ。


 その意味が分からずに眺めていると、次に奈緒子がバッグから線香花火を取りだした。


「ごめん、わたしあんまりお金がなくて、これだけしか買えなかったんだ」

「これやるために、今日は集まったの?」

「うん。だってやりたかったんでしょ、花火」

「そうだけど……」

「いいからいいから」


 促されるままとなりにしゃがみ込んだ慎吾は、奈緒子が手で風を遮りながら二つの線香花火に火を点ける様子を見ていた。何度も火が消え、それでも諦めずマジメな顔をしてライターをカチカチと鳴らす奈緒子が、少し可笑しい。


「ちょっと、見てないで手伝ってよ」

「う、うん」


 慌てて両手で線香花火を覆うようにかざすと、ようやくその先から儚げな赤い火花が四方に散りはじめた。


 ひとつを手渡され、横に並んだ奈緒子が、ぢっと火花に見惚れる姿を目の端に意識しながらボウッと眺めていると、ふと夏の終わりを感じた。


「……やっぱり、線香花火って、なんかさみしい気分になるね」


 奈緒子が、おなじ思いを口にした。

 火花にほの赤く照らされたその顔を、マトモに見ることができない。


「線香花火って、最後にやるってイメージがあるもん。これだけでやってもね」 

「なんか、わたしの計画に文句を言ってるみたいなんだけど」

「そ、そんなことないよ。ぜんぜん楽しいよ」

「そうだよ、楽しまなきゃ。きっとこれが最後の花火なんだから」

「最後のって、今年は、でしょ」

「今年最後の花火、か…… あ、落ちちゃった」

「あ、ぼくも」


 ふたたび火の点いた線香花火をもらい、散る火花を眺めながら、今年の夏休みももうすぐ終わるな、と当たり前の切なさに気づいて、そっととなりの奈緒子を見た。


「なんかさ」

「う、うん」

「さっきも言ったけど、チャーって、将来のこととか決まってるの?」

「まだなんにも決まってないよ。サラリーマンとかなんじゃないのかな、やっぱり」

「なんか、夢がないですねえ、キミ」

「そうかな?」

「そうだよ。あ、そうだ、彫刻家になれば? あの紙粘土のドラゴンとかすごく上手だったし、芸術家ってなんかカッコイイじゃん」

「えー、でもぼくそんなこと考えたことないよ」

「チャーってなんか、いつも自信がないことばっかり言うよね」

「そりゃそうだよ。ぼく、なんにもできないし」

「そんなことないって。だってキャッチボールもできるようになったじゃん」

「そうだけど、あれはタマタマだよ」

「大丈夫だって、自信持ちなよ」

「うん、でも」

「でもとか言わないで。あ、金魚すくいのときの《命令》ってまだだったよね?」

「う、うん」

「決まったよ」

「な、なに?」

「ちゃんと命令はスイコーしてよ。約束なんだから」

「うん、分かったよ。で、でも、ヘンなこと言わないでよ」

「命令は……『将来、彫刻家になるのだ!』です」

「えー、ちょっと待ってよ。将来を決められちゃうの?」

「アハハ、面白くない?」

「面白くないよ」

「でも、命令だから守ってよ」

「……」

「分かった?」

「うん、頑張ってみる……」


 線香花火と話題が尽きて、奈緒子が立ち上がり気持ちよさそうに伸びをした。暗闇に揺らめく、白いワンピースから漂うバラの香りが、慎吾の低い鼻を優しくくすぐる。


「じゃあ、帰る?」


 そう言った慎吾を見て、奈緒子がかすかに笑い、


「わたしは帰らないよ」


 と、言った。


「え、どういうこと?」

「やっぱね、血塗れナースに会いたいから、今日と明日はここに泊まろうと思うの。家には帰らないつもり」

「えー、でもそれマズいよ。家出ってことじゃん」

「大丈夫だよ、二日くらい。どうせ、心配するヒトなんていないんだから」

「でも、ゴハンとかどうするの? お風呂とか着替えとかは?」

「ゴハンはどこかで買えばいいじゃん。お風呂も二日くらいなら大丈夫でしょ。それに着替えは、もうここに準備してるからね」


 そう言って、奈緒子がボストンバッグを指さした。その顔には「なにを言っても無駄だ」という固い意志が、ありありと浮かんでいる。


 こういうとき、慎吾は奈緒子に何も言えない。


「ぼくは、帰らなきゃ」

「うん」

「……『一緒に残って』って言わないんだね」

「強制はわたしの趣味じゃないから。夜につきあってもらってるだけで十分だよ」

「それを《命令》にすればよかったのに」

「アハハ、そうだね。でもそしたら、チャーが彫刻家にならないじゃん。だからいいよ」

「でも」

「でもとか言わないで。知らないの? 女子にはね、ひとりになりたいときがあるんだよ」

「それは男子もおなじだよ」

「いいから。もう帰っていいよ」

「……うん、分かった」


 207号室にもどり、恥ずかしげもなく大きなあくびをした奈緒子が、眠たそうにベッドへ腰を下ろし、名残惜しくたたずむ慎吾へ、意地の悪い笑みを浮かべて手を振った。


「……じゃあ、もう帰るよ。気をつけてね」

「うん。また明日」


 外に出て、暗い夜道を歩いていると、今までに感じたことの無いほどの寂しさが芽生え、慎吾は振り返って、遠くに見える廃病院の大きな黒い影を見上げた。


 あの大きな黒い影が、いつもみんなで遊んでいる秘密基地だとはとても思えなかった。


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