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八月十五日。曇り。縁日当日。
ワチコと直人は、今夜の縁日に行くために、宿題を昼のうちに済ませるという条件を飲まされたそうで、昼は来られないらしかった。
マットに寝転がる慎吾は、ベッドでうつぶせになって本を読みふける奈緒子を、それとはなしに眺めていた。
いま、207号室には二人だけ。
気が重い。
まだここに二人しかいなかったころは、奈緒子がとなりにいるだけで嬉しかったし楽しかったし舞い上がったし、そのほかの色んな言葉でも言い尽くせないほど幸せだった。
それなのにワチコと直人が加わってからは、ふと奈緒子と二人っきりになると、急に居心地が悪くなって、なにもしゃべれなくなることがよくあった。
いつもならワチコか直人がすぐにその輪に加わって、そんな気持ちも一瞬のうちに消えてしまうのだが、今日はそのどちらもがいない。
さきに来ていた奈緒子とは「おはよう」と挨拶を交わしただけで、もう昼前だというのに会話らしい会話がなんにもなかった。
「もうぼくに飽きちゃったんだろうか? ワチコや直人といたほうが楽しいのだろうか?」という卑屈な疑問が、イヤでも脳裡にグルグルと渦巻く。
「……あーあ、ヒマだね」
奈緒子が本を閉じて、慎吾に視線を移した。
「う、うん……」
「もうないの?」
「え?」
「都市伝説の場所」
「あー、うん、ごめん」
「いいよべつに謝らなくて。チャーってすぐ謝るよね」
「ごめん」
「ほら、また」
笑う奈緒子に、引きつった笑みを返すことしかできなかった。
「キャッチボールさ、最近やってないみたいだけど、上手くなった?」
「うーん、あんまりまだまだダメだね」
「なにそれ?」
「え?」
「あんまりまだまだって、変なの」
「あ、うん、ごめん」
「またごめんって言った。もうこれからごめんっていうのダメだからね」
「……」
「分かった?」
「う、うん」
大げさに首を縦に振る慎吾を笑った奈緒子は、あおむけになって天井を見つめた。
「ここってさあ、いつまであるのかな?」
「うーん、どうだろ。取り壊すとか聞いたことないけど」
「そっか……」
「あの、さ」
「なに?」
「バラバラ女のやつ、あれ楽しかった?」
「うん。でも、あのあと大変だったんだよ」
「え、なんかあったの?」
「うん。アレが終わってから着替えたらさ、下着に絵の具がいっぱい着いてたの」
「え? だ、大丈夫だった?」
なにをきっかけとしたのか分からなかったが、気づくと胸が早鐘を打っていた。
「大丈夫じゃないよ。お母さんとかコモダさんに、またジャアクタイが、とか意味分かんないことメチャクチャ言われたんだから」
「それで、どうしたの?」
「慎吾君と自由研究してて、そのとき絵の具が着いたの、って言ったらなんとかなった」
「ちょ、ちょっと待ってよ、なんでぼくの名前を出すわけ?」
「えー、だって友だちだし、それに二人にも会ってるでしょ。ワチコちゃんと直人君の話までするの、めんどくさいじゃん」
「まあ、うん、そっか」
合点がいかないながらも、奈緒子が自分の名前を最初に出してくれたことが嬉しかった。
「ヒマだね、一回帰る?」
「うーん、わたしはもうちょっといたいけど」
こんな日でも、家に帰るのを拒む奈緒子。
「でもやることないよ」
「寝てればいいじゃん」
「寝れないよ」
「子守歌、歌ってあげよっか?」
「いいよ、コドモじゃないんだから」
「へえ、チャーってもうオトナなんだあ」
半身を起き上がらせた奈緒子が、慎吾を見ながら含み笑いを浮かべた。
その屈託のない笑顔の中にかすかに漂う色香に、言いようのないもどかしさを感じた慎吾は、脳裏をふと過ぎる、あのエロ本の中に出てきたナースを慌てて頭から振り払った。
「ねえ、もう帰ろうよ。また縁日で会えるんだし。あ、ほら、雨が降ってきたよ」
いつの間にか、土埃で曇る窓ガラスに雨のしずくが幾筋も流れていた。
「……分かった。たまにはチャーの言うことも聞いてあげなきゃね。カサ持ってる?」
「あ、忘れた」
「じゃあ、途中まで一緒に入ってっていいよ」
黄色いカサが勢いよく開き、カサに隠れる奈緒子の白い脚だけが揺れた。
「う、うん」
憧れの相合い傘に心を躍らせているのを奈緒子に悟られぬよう腐心しながら、慎吾はぎこちなく立ち上がった。
「なんか、ロボットみたいな動きになってるよ」
「え、あ、うん、ごめん」
「はい、ダメー」
「え?」
「ごめんって言った。罰としてチャーがカサ持ってね」
カサを突き出して、微笑む奈緒子。
◆◆◆
玄関を出ると、さっきまで小降りだった雨がすっかり大粒の雨に変わっていた。
響く雨音が、心地良かった。
「じゃ、行こう」
「うん」
結局、きょうもも言いなりだなと思いながら、奈緒子に寄せてカサを差して、外へと出た。
「……わたしさ、縁日って久しぶりなんだ」
しばらく無言で歩いていると、その空気に耐えきれなくなったのか、奈緒子がとつぜん口を開いた。
「そうなの?」
「うん。だってほら、行けないじゃん。色々とあるし」
「……あ、奈緒子ってさ、金魚すくいとか得意そうだよね」
「勝負する?」
「えー、ぼく金魚すくいとかニガテー」
「なんか賭けようよ。負けたほうが、一コなんでも命令を聞くの」
「分かった。ワチコと直人も一緒にね」
「ダメ、それだとつまんないじゃん。二人だけの賭けってことにしよ。ワチコちゃんたちにはナイショね」
「あ、うん。でもそれでいいの?」
「それがいいの」
慎吾を見ずに、奈緒子が応えた。
◆◆◆
商店街の前まで来て奈緒子にカサを返した慎吾は、自分の左肩がずぶ濡れになっているのに気づいた。
「はい」
奈緒子がリュックからハンドタオルを取りだして慎吾に手渡した。
「あ、ありがとう」
「返すのいつでもいいから。やんだらいいね、雨」
「うん」
二、三度手を振った奈緒子が、雨だというのに昼時で賑わう雑踏の中へと消えた。
久しぶりに奈緒子と長くしゃべったことにはたと気づいた慎吾は、ほのかにバラの香りのするハンドタオルで肩を拭きながら、口元が緩むのを抑えることができなかった。
「チャー!」
大声とともに、棒のような物で突然ふくらはぎを突かれ、
「ひっ!」
と、慎吾は情けない声を上げた。
「ビビんなよ、それくらいのことで」
恥ずかしさに頬を赤らめながら振り向くと、そこに松葉杖をついた次郎が立っていた。
「あ、ひ、久しぶり」
「久しぶり、じゃねえよ、チャーって、最近つきあい悪いよな」
「あ、ごめ……そ、そう?」
「そうだよ。学とか心配してるよ。お前、さいきん山下さんだけじゃなくってワチコとか直人とかとも遊んでるんだろ?」
「う、うん。みんな知ってるの?」
「うん、まあ、紀子が塾でみんなにしゃべってたからな」
「これから、塾?」
「うん。夏期講習は今日で終わりだけどな」
「ふうん」
「興味なさそうだなあ」
次郎が笑い、左足のギプスで慎吾を蹴る真似をした。
「じゃ、また。おれ明日からいつも学んチにいるからたまにはこっちにも来いよな」
「うん、分かった」
「じゃ」
すっかり松葉杖で歩くことに慣れた様子で、次郎も人の波の中に消えた。
慎吾は、奈緒子との相合い傘を次郎に見られたのではないかと、気が気でなかった。




